猟犬は邪神を見る
ジェンナーロ・ガットゥーゾは、机の上に積み上がった報告書の山を前にして、この数か月で何度目になるかわからない歯噛みをしていた。
異端審問局子飼いの情報屋が消された。最後の連絡は王都北西部から投函された秘密通信で、その内容は簡潔だ。
――宵闇につながる人物との接触に成功した。宵闇は、恐らく下級貴族の不満分子と繋がっている。
そして、これを最後に消息を絶った。遺体が見つかったのは、王都北部の幼児教育施設に付属するゴミ処分場である。見つかった時には、もう人間の形をしているだけの何かだった。異端審問局は当然、北部および周辺の下級貴族を重要参考人と判断し、すでに複数名を任意同行して事情聴取しているものの、どの貴族も頑なに関与を否定していた。
当たり前だ、とジェンナーロは思う。
宵闇の背後には、事務方の天才がいる。そんな男が、こんなわかりやすい殺しをするはずがないのだ。本命を隠すための、露骨なくらい露骨な偽装が行われているに決まっている。わかっている、わかっているのにそれを証明するための痕跡が足りなすぎた。
身内が消されたというのに、対象へ近づくことすらできないという無力感を抱くことは、ひどく腹立たしい。
ジェンナーロは椅子の背へ重く体を預け、天井を見上げた。
強すぎる
この敵は、自分の手に余るのではないか
そんな弱気が、一瞬だけ胸をかすめる。だが彼はすぐにそれを振り払った。
弱音を吐いてどうする
相手が強大であることと、自分が止まることは別だ
ジェンナーロ・ガットゥーゾは、教会の猟犬と呼ばれる男である。実のところ彼は、教会という存在へ忠誠心など抱いていなかった。だが、機能としての教会は必要だと思っている。国民を統治し、抑制し、秩序を維持する宗教装置が壊れれば国が乱れる。だから全力で守るのだ。
彼は再び報告書へ手を伸ばした。どんな些細なことでもいい、何かないか、宵闇へつながる糸は、きっとどこかにあるはずだ。
*
情報屋が消えたと思われる日の、教会関係者の足取りを洗う。
大聖堂内の二件の殺人、マリア・ゴールドの暗殺、そして宵闇。この三つは必ず繋がっているとジェンナーロの直感が告げている。ならば、教会関係者の動きに何かヒントがあるはずだった。
ジェンナーロは、目を皿のようにして紙を追ったが、出てくるのはろくでもない情報ばかりである。
枢機卿が王国の官僚から接待を受けた、気紛れな聖女がカディジャを連れて夜の街へ遊びに出た、教皇が王都南部の娼館に身分を隠して女を買いに行った、などなど。
実に腐っている。だが、今さら聖職者が清廉潔白だとは思っていない。教会という組織は、祈りと神秘だけで出来ているわけではない。政治と欲望と虚飾と、いくらかの本物の信仰が混ざった、巨大な生き物だ。腐敗に吐き気を覚えることもないではないが、だからと言って捨てていいわけでもない。
ジェンナーロは一晩中、そんな報告書を読み続けた。気づけば窓の外は白み始めていた。
*
翌日、ジェンナーロが目を覚ましたのは朝七時だった。
普段は朝四時に起きているから、今日は三時間も寝坊してしまった。徹夜明けに少しだけ目を閉じたつもりが、そのまま眠り込んでしまったらしい。
忌々しい、ただでさえ今日は年に一度の大聖堂祭だというのに。
大聖堂祭、王国各地から聖職者が集い、表向きには祈りと親睦を深める祝祭。だが、ジェンナーロから見れば、一年で最も教会が醜くなる日でもある。地方の聖職者は中央の目へ留まろうとし、中央の聖職者は自分の派閥を増やそうとする。表では聖遺物の献上や慈善事業の報告が行われ、裏では露骨な足の引っ張り合いまで起こる。
醜悪さに嫌気が差すが、それでも高位聖職者としての務めは果たさねばならない。ジェンナーロは重い体を無理やり起こし、身支度を整えて大聖堂の大広間へ向かった。
*
少し遅れて到着したせいで、普段とは違う席へ座らざるを得なくなった。そこは黒髪の聖女の隣席だった。その周辺だけが、不自然に空いていたからだ。
聖女という存在は、本来なら聖職者全員が少しでもお近づきになりたいと擦り寄るものだ。だが今代の聖女は、教会内で驚くほど人気がなかった。
理由は実にくだらない。黒髪が不吉の象徴だとか、エメラルドの瞳の従者を召し抱えるなど悪魔の所業だとか、そんな迷信じみたことを口にして、近づこうとしない者が多いのだ。
馬鹿馬鹿しい、とジェンナーロは思う。
少なくとも、黒髪の聖女は前代の売女よりよほどましだ。巡礼を積極的に行い、能力で人物を登用しているという話も聞く。時折深夜の街へ繰り出すのも、若さゆえの好奇心程度のことだろう。さして問題視するほどのことではない。
多少の常識があり、顔が良く、物を鑑定できる、教会の権威を維持するには優秀なマスコットだ、とジェンナーロは認識していた。
しかし、黒髪の聖女の隣へ腰を下ろしたその時、胸の奥で、じくり、と何かが疼いた。
【チェイサー】が何かを訴えている。スキルが発動したわけではない。もっと曖昧な、ジョブそのものが持ち主へ与える第六感のような感覚だった。嫌な予感がする。獲物が近い時の、あの独特のざらつきに似ている。ジェンナーロは、こういう直感も信用する男だった。
まさか、黒髪の聖女と宵闇が繋がっているのか。そんな疑念が、一瞬だけ本気で浮かぶ。
だが、すぐに打ち消した。あり得ない、疲れているだけだ。聖女からは、戦闘の才気も、暗殺者の匂いも感じない。多少の常識があるだけで、顔が良くて、物を鑑定できるだけのマスコットにすぎない。教会の権威を飾る道具だ。
そう考えるのが妥当だ、とジェンナーロは自分へ言い聞かせた。
*
黒髪の聖女は、詰めかけた若い神官やシスターたちへ、静かな視線を向けていた。
高位聖職者の端くれであるジェンナーロには、神の眼のスキル発動の兆候が見える。おそらく教皇から、地方出身の若者たちが珍しい聖遺物を持ち込んでいないか調べるように言われているのだろう。大聖堂祭という場では、ごく自然な仕事だ。
何の気なしに、ジェンナーロはもう一度、聖女の横顔を見た。美しさは認めざるを得ない。凡人であれば、少し見惚れてもおかしくないだろう。
しかし、ジェンナーロがその視線を追った先にいた人間は、あまりにも地味だった。
大広間の端にいる一人の女で、年齢は二十代半ば、金髪碧眼で整った顔立ちをしている。だが、言ってしまえば特徴はそれだけだ。ローブの紋章からすると、王国の中でも魔王領に近い辺境からの巡礼者だと思われる。全体的にほこりっぽく、どこか貧乏くさい雰囲気がある。地方の教会主の妾にでもいそうな女だ、とジェンナーロは思った。中央の高位聖職者である彼には、何の興味も湧かない。
にもかかわらず、聖女はその女を見つめ続けていた。
じっと、まばたきの間も惜しいと言わんばかりに。そして最後に、ふっと視線を落とし、微かに肩を震わせた。
その変化は、隣に座るジェンナーロしか気づいていなかった。神の眼を酷使して反動が出たのか、そう思って声をかけようとした、その瞬間だった。
【チェイサー】が、今までにないほど強く警報を鳴らした。かつて経験したことがないほどに最大級のものをだ。
こんな反応は初めてだった。
「っ……」
ジェンナーロは、思わず苦鳴を漏らした。すると黒髪の聖女が、こちらを振り返る。
「大丈夫ですか。顔色が悪いようですが」
いつもの低い声で発せられる、穏やかな気遣い。凡人であれば、その神秘的な美しさと優しさに見惚れるのだろう。
だが、ジェンナーロは見てしまった。
聖女が振り返ったその瞬間、その瞳の奥に見たこともないような闇が広がっているのを。ただ不吉だとか、悪魔と通じているとか、そんな噂どおりなら、これほど戦慄しない。
もっと大きい、もっと深く真っ暗な穴。教会ひとつでは済まない。世界そのものを黒く覆い尽くす邪神の生まれ変わりみたいな、どうしようもなく巨大な闇が、そこにあると感じた。
冷や汗が止まらない。呼吸が浅くなる。
何だ、これは
何なんだ、この女は
ジェンナーロは、無理やり口を開いた。
「……人の多さに、少し気疲れしまして」
我ながらひどい言い訳だったが、しかし他に何も思いつかない。
黒髪の聖女は静かに頷いた。
「そうですか。どうかご無理はなさらず」
その声音に敵意はない。ないはずなのに、それが怖くてたまらない。
ジェンナーロは、そのまま立ち上がって退席した。同僚の聖職者たちは、情けないものを見るような目を向けていた。だがジェンナーロからすれば、彼らがあの邪神と同じ空間に平然と座り続けられることの方が信じられなかった。
*
執務室へ戻ってからも、しばらく息が整わなかった。手が震え、額の汗が引かない。
ジェンナーロ・ガットゥーゾは、長年追跡者として多くの異常者を見てきた。狂信者、暗殺者、異端者、魔に魅入られた者。どれもこれも、恐ろしさはあった。だが今見たものは、それらと種類が違う。
もっと根源的で、世界そのものへ穴を開けるような何か、だ。
ようやく人心地ついた頃には、彼の中で方針が変わっていた。黒髪の聖女が、宵闇と繋がっているかどうかはまだわからない。だが、あの邪悪を放置するわけにはいかない。今後は、黒髪の聖女へ最大級の警戒を向けるべきだ。可能であれば、従者たちごと根絶やしにする必要がある。
宵闇の捜査は続けながらも、聖女に対抗できる手を早めに打たなければならない。しかし、政治的には清廉潔白な聖女を追い詰めるには、異端審問局にもそれ相応の後ろ盾が必要になる。教会の猟犬は、王国側の主要人物たちを思い浮かべながら、新たな敵の存在を打ち滅ぼすための手段を思案するのだった。




