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妨害NPCは排除する

 翌朝、富士宮ひとみは、目を開けた瞬間に思った。


 世界が違って見える。


 正確には、世界そのものは昨日と変わっていない。石造りの天井も、柔らかい寝具も、外から聞こえる鐘の音も、相変わらずだった。ただ、自分の目の方が変わってしまったのだ。


《鑑定眼・宵》レベル2。


 昨日、ナビル・ユーラッハを見た瞬間にレベルアップしたそれは、単に“見える情報が増えた”という程度の話ではなかった。昨日まで自分の前に広がっていたのは、名前と現在値だけが添えられた、少しばかり整理された現実だった。


 でも今は違う。


 今のひとみには、その人間が将来どこまで伸びるのか、その片鱗が見える。


 つまり、世界が急に面白くなった。


 表情には出さないまま、ひとみは静かに体を起こした。侍女が部屋に入ってきて、柔らかな声で朝の挨拶をする。


「おはようございます、聖女様」


「……おはよう」


 短い返答にも、侍女は深々と頭を下げる。


 聖女の朝は今日も静謐で、神々しく、どこか俗世から切り離されたものに見えているのだろう。


 実際のところ、富士宮ひとみの頭の中はかなり俗っぽかった。


 昨日までとは違う。

 チュートリアル二日目。

 ここからが本番。


 自分の心の中でだけそう呟きながら、彼女はいつものように教会内の巡回へ出た。


 昨日までは、ただの施設見学だった。孤児院、施療室、写本室、祈祷堂、炊き出し場。どこへ行っても、みな一様に「聖女様が来てくださった」とありがたがっていたし、ひとみもそれらしい顔で歩いていた。


 だが今日は違う。


 見える。

 見えるのだ。


 昨日も見かけた孤児院の男の子が、真っ先にひっかかった。


 元気だけが取り柄みたいな子だった。落ち着きがなくて、廊下を走ろうとして修道女に耳を引っ張られていた、あの子だ。


 ひとみは何気ないふうに足を止める。周囲から見れば、聖女が無邪気な子どもに目を留めたようにしか見えない。


《鑑定眼・宵》を向ける。


 現在値は、やはり大したことがない。統率F、知力E、精神E、魅力D。いかにもそのへんにいそうな、元気な男の子だ。


 だが、その奥に見える。


 潜在・武力A。


 ひとみの内心で何かが跳ねた。


 おっ。


 さらに視線を深めると、粗いながらも、身体の使い方に関わる素質や前衛向けの適性らしきものまで浮かぶ。


 なるほど。そういうこと。


 修道女たちにとっては、やんちゃで手のかかる孤児。だが、騎士養成へ回せば、おそらくかなり伸びる。少なくとも、ここで本を写させたり祈りを覚えさせたりするより、ずっといい。


 ひとみは低い声で、孤児院を預かる年配の修道女に言った。


「……この子、身体の使い方がいいですね」


 修道女は少し驚いたように男の子を見る。


「まあ……ええ、じっとしていられない子でして」


「騎士養成所は」


「え?」


「教会騎士の見習いを取る場所は、あるんでしょう」


 修道女の目が丸くなる。男の子は何を言われているのかわからず、ぽかんとしていた。


「この子は、そちらの方が向いている気がします」


 たったそれだけだ。潜在武力Aなんて言う必要はない。むしろ言ってはいけない。


 だが、黒髪の聖女が静かに進路を指し示せば、それだけで十分だったらしい。


 修道女は感激したように胸の前で手を組んだ。


「まあ……聖女様がそう仰るなら……! この子に、そのような道が……!」


 男の子はしばらく呆けていたが、やがて意味がわかってきたのか、顔を真っ赤にして叫んだ。


「お、俺、騎士になれんの!?」


「まだ推薦よ。浮かれないの」


 そう言いながらも修道女の声は明るい。周囲の孤児たちもわっと騒ぎ出した。


 表から見れば、黒髪の聖女はひとりの孤児の未来を見抜き、その道を開いた。なんとも美しい光景である。


 実際の中身は、武力A前衛候補を序盤拠点で一本釣りした廃ゲーマーの小さな快哉だった。


 悪くない。


 かなりいい。


 その後も、ひとみは巡回を続けた。


 昨日「可愛いだけ」と流していた若い侍女を、今日は改めて見る。すると、現在値は平凡でも、精神の潜在値がAまで伸びるとわかった。加えて、信仰系・慰撫系の適性が見える。侍女として愛嬌を振りまくだけではもったいない。


「あなた、よく耐えていますね」


 ひとみがそう声をかけると、侍女はきょとんとした。


「え……?」


「侍女の仕事も合っていないわけではないけれど……修道女の養成学校に興味は?」


 相手は数秒固まり、それから目を潤ませた。


「わ、私に、そのような……?」


「向いているかもしれない、というだけです」


 本当は“向いている”ではなく“かなり当たり”なのだが、そこは飲み込む。昨日のナビルで一気にレベルが上がり、今日は朝からちょっと機嫌がよかった。


 侍女は深々と頭を下げた。周囲の者たちも、「やはり聖女様は本質をご覧になる」とまた勝手に感動している。


 いい。

 この感じ、とてもいい。


 前の世界では、子どもの得意不得意を見抜いても、制度や家庭や学校の壁があって、そこまで直接的に進路を変えることは難しかった。だが今は違う。聖女としての権威があり、その一言がそのままルート分岐になる。


 しかも、その未来が当たる。


 気持ちがよかった。


 これは、かなり危険なくらいに。


 ひとみはその感覚に気づきながらも、次へ進んだ。写本室の書記見習い。昨日見た時は、知力寄りの地味な青年にしか見えなかった。


 だが潜在値を見ると、おかしい。


 知力C止まり。

 統率A。


 ひとみは少し眉を寄せる。


 え、そっち?


 文机に向かっているのに、伸びるのは統率。つまりこの青年は、紙とインクの前に座らせておくより、むしろ人をまとめる現場に出した方がよさそうだ。教会騎士の大隊長のような役職へ向けた方がいい。


 ここで、ひとみは少しだけ調子に乗っていた。


 成功が続いたせいもある。人材の見抜きがそのまま感謝に変わり、周囲の評価も上がっていた。だから、いつもより少し直接的に言ってしまった。


「あなた、書記より教会騎士の方が向いていると思う」


 青年は、目を丸くした。


「……は?」


 しまった、とひとみはすぐに思った。


 口調が雑だった。前提の誘導も足りない。さっきまでの二件と違い、この青年には今の仕事に対する自負があるらしい。彼の顔には、困惑だけでなく、はっきりとした不快感が浮かんだ。


「失礼ですが、私は文字仕事を学ぶためにここへおります」


「ええ。だから」


「それをなぜ、騎士などと。私が剣も持てぬように見えたから、お慰めで仰っているのですか」


 違う。

 そうじゃない。

 でも、そう聞こえてもおかしくはない。


 ひとみはそこでようやく、今の自分がかなり危ない橋を渡っていたことに気づいた。


 見えるからといって、言っていいわけではない。

 進路の話は、人の自尊心に直結する。

 しかも自分は、「なぜそう言えるのか」の説明ができない。


「……失礼しました」


 短くそう告げて引くと、青年もまだ不服そうな顔のまま頭を下げた。周囲の者たちも、さっきまでの感動一色とは違う、微妙な空気で黙っている。


 巡回を再開しながら、ひとみは内心でため息をついた。


 やりすぎた。


 ちょっと気持ちよくなっていた。

 見える、当たる、感謝される、その流れに酔っていたのかもしれない。

 でも、これは危険だ。


 自分が人の能力を見抜けると気づかれれば、利用されるし警戒もされる。自分の意思と関係なく、選別装置みたいに扱われるのはごめんだった。


 これからは、もっと慎重に。


 見えても、すぐには言わない。

 導線を作る。相手の事情を考える。

 そして、できれば表向きの理由を添える。


 富士宮ひとみは、自分が少し調子に乗っていたことを認めた。


 だが、それはそれとしてナビルは別だ。


 ナビル・ユーラッハは、いまや自分付きの従者見習いである。つまり、外野に気を遣わず、かなり自由に育成できる。それを思うと、反省とは別にまた気分が上がるのだから、我ながら現金だった。


 彼の潜在値は破格だ。だが現在値は悲惨に近い。知力がEで、他はF。才能がないのではない。飢えや抑圧や差別で、育つ前に潰されていたのだ。


 ならばやることは単純だ。


 まず、衣食住を整える。


 まともな服を着せる。

 清潔な寝床を用意する。

 食事をちゃんと与える。

 怪我や疲労があれば治す。

 それから、従者としての基礎教育を受けさせる。


 礼法、読み書き、身だしなみ、記録の取り方、家事。

 焦る必要はない。長い目で見て育てればいい。


 その方針で一週間が過ぎた。


 結果は、驚くほど素直に出た。


 夜、自室で《鑑定眼・宵》を向けた時、ひとみは思わず目を細めた。


 ナビルの現在値は、知力がDへ。

 そのほかも、統率E、武力E、精神E、魅力E、幸運Eまで上がっている。


 早い。かなり早い。


 ひとみの胸の奥で、またしても廃ゲーマーの歓喜が爆発した。


 やっぱり。

 やっぱり高知力個体は成長が早い。

 そうだと思った。そうだと思ったのよ。

 ルナアリスでも、知力の高い万能型は初期の伸びが良かった。学習効率、環境適応、スキル習得速度、その全部が違う。

 この世界も同じだ。

 一致した。もうかなり怪しい。かなり近い。


 表情はほとんど変えないまま、ひとみはナビルに言った。


「……最近、読み書きを覚えるのが早くなりましたね」


 ナビルは少し驚いたように目を上げ、すぐに伏せた。


「恐れ入ります。教えていただいたことが、以前より頭に入りやすくなった気がします」


「そう」


「はい」


 たったそれだけの会話だ。

 だがひとみの内心は、かなりうるさかった。


 当然よ。

 知力Dよ、もう。

 一週間でEからD。えらい。すごい。最高。

 このまま基礎固めればかなり化ける。

 礼法も吸収が速いし、報告の簡潔さも良くなってる。やっぱり当たり。大当たり。


 そして同時に、少しだけ困ってもいた。


 ナビルは優秀すぎる。目立たないようにしても、どうしたって浮き始める。


 しかも、あのエメラルドの眼がある。禁忌の瞳。教会内でも、それを露骨に嫌う者はいた。口には出さずとも、見ればわかる。若い従者見習いたちの間では、なおさらだ。


 最初は陰口だった。


 汚れた血。

 呪われた眼。

 商隊上がりの奴隷。

 聖女様の気まぐれで拾われただけ。


 次第に、それは嫌がらせへ変わっていった。


 わざと重い仕事を押しつける。

 使うはずの道具を隠す。

 食事の配膳を後回しにする。

 見えないところで肩をぶつける。

 陰で笑う。


 ナビル自身はほとんど訴えなかった。黙って耐えた。耐えることに慣れているのだろう。


 それが逆に、ひとみには腹立たしかった。


 ある日の夕方、回廊の曲がり角で、その中心人物を見つけた。


 若い従者見習い。貴族出身。顔立ちは悪くないが、目に品がない。以前から素行が悪いと聞いていた。仕事は雑で、酒や賭けにも手を出しているらしい。自分より下だと見なした相手をいたぶるのが好きな、いかにも安っぽい人間だ。


 その男が、取り巻きとひそひそ話していた。声は聞き取れない。だが、その時ひとみの背中に、ぞっとするような冷たい感覚が走った。


《タナトス》だ。


 会話の内容ではない。もっと直接的な、危険の輪郭だけがわかる。


 悪意。殺意。対象は、ナビル。そして、池。


 頭の中に、映像みたいに断片が浮かぶ。夜。暗がり。ふらついた足。事故。池への転落。


 こいつ、ナビルを池に落として殺すつもりだ。


 そこまで理解した瞬間、ひとみの内側で何かが静かに切れた。


 怒鳴るでもなく、顔色を変えるでもなく。ただ、冷えた。


 ああ、そう。そういうことをするんだ。


 いじめの延長ではない。これはただの排除だ。自分より下だと思っている相手を、事故に見せかけて殺す。その程度のことを、躊躇なく計画できる人間。


 しかも、それが自分の目の届く範囲で、せっかく拾った本命個体に向けられている。


 内心で、富士宮ひとみは怒り狂っていた。


 やめさせる?

 告げ口する?

 監督役へ報告する?

 罰を与えてもらう?


 違う。違うでしょう。


「妨害NPCは排除する。」


 その結論は、驚くほど自然に落ちた。


 その夜、教会は静かだった。


 昼のざわめきは消え、石造りの回廊には灯りがまばらに残るだけ。風が細く鳴り、遠くで誰かが戸を閉める音がした。


 昼の富士宮ひとみは、黒髪の聖女として歩いていた。


 夜の富士宮ひとみは、別の生き物みたいだった。


 足音が消える。

 呼吸が薄くなる。

 視界が冷える。

 人の動きが、障害物の位置が、夜気の流れが、ひどく明瞭に感じられた。


《タナトス》レベル1。


 まだ高位の強者を屠るには足りない。

 だが、酔った若造の喉を裂くには十分すぎる。


 標的の若い従者見習いは、予想通り酒臭かった。教会では禁じられているはずの酒を、どこで手に入れたのか。千鳥足で回廊を抜け、人気のない池の近くへ来る。


 ひとみは暗がりの中で、それを見ていた。


 躊躇はない。迷いもない。


 不思議なくらい、手順がわかった。


 背後から入る。

 左手で口を塞ぐ必要はない。酔っているし、頸動脈を切れば声になる前に崩れる。

 刃の角度は浅く、しかしためらわず。

 服の襟を汚しすぎない位置。

 転倒の方向。

 池まで運ぶ手間。


 全部、最初から知っていたみたいにわかった。


 男がふらつき、足を止めた、その一瞬だった。


 ひとみは背後から滑り込む。


 右手が走る。


 喉元に、短い刃が吸い込まれるように入った。


 ごぼ、と湿った音。

 男の体がびくりと跳ねる。振り向く間も、叫ぶ間もなかった。熱い血が一気に噴いて、服と石を濡らす。ひとみは半歩引いて飛沫を避け、崩れ落ちる身体を冷静に受け止めた。


 軽い。


 軽かった。


 死にかけた人間の体は、もっと重いものだとどこかで思っていた。でも実際には、手順通りに力が抜けていくそれは、ひどく扱いやすかった。


 男は数秒で動かなくなった。


 ひとみは呼吸を整え、周囲を見た。誰もいない。足音もない。


 遺体を引きずり、池の縁まで運ぶ。

 懐から財布と、身分がわかりやすそうな小物を抜く。強盗にあったように見せるためだ。酒の匂いも十分ある。夜中にふらついて転落した、あるいは身ぐるみを剥がされた、そういう筋立てで十分通る。


 池の水は黒かった。


 ひとみは男の体を押し込み、沈んでいくのを見た。水面に広がるわずかな波紋が、月のない空を揺らす。やがてそれも静かになった。


 それで終わりだった。


 あまりにもスムーズだった。


 初めて人を殺した。

 そう思うと、普通なら手が震えてもよさそうだった。気持ち悪くなっても、吐いても、泣いてもおかしくない。


 だが、震えない。


 胸の中にあるのは恐怖ではなく、妙に乾いた納得だった。


 ああ。私は、こういうことができるんだ。しかも、向いている。


 ひとみは池を見下ろしたまま、小さく笑った。笑うべき場面ではない。自分でもそう思う。けれど、苦笑という言葉がいちばん近かった。


 元の世界で、どうしてあんなにも馴染みきれなかったのか。

 どうして人の家の死角や、隠し場所や、土の柔らかさばかり目についたのか。

 どうして“そういうこと”への感覚だけが、変に鋭かったのか。


 答えは単純だったのかもしれない。


 自分は最初から、あの世界向きの人間じゃなかった。


 ただ、それを使う場がなかっただけだ。


 ひとみは血のついた刃を拭い、痕跡をもう一度確かめた。回廊へ戻る。石床に残ったわずかな汚れも、暗がりと夜露で朝には曖昧になるだろう。


 黒髪の聖女は、何事もなかったように歩く。


 昼には孤児の未来を開き、侍女の適性を見抜き、感謝され、讃えられる。

 夜には本命個体を傷つけようとした人間の喉を裂き、池に沈める。


 その両方が、同じ一人の女の中に収まっている。


 自室の扉の前で、ひとみはほんの少しだけ立ち止まった。


 冷たい夜気が、衣の裾を揺らす。


「……嫌になるくらい、向いてる」


 誰にも聞かれない声でそう言ってから、彼女は静かに部屋へ戻った。


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