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殺意の輪郭

 聖女ヒトミ・フジノミヤの私室は、昼間の神秘的な気配とは別種の静けさに沈んでいる。燭台の火はすでに落とされ、窓の外から差し込む月明かりだけが、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。


 その静かな部屋の中央で、富士宮ひとみは、椅子に浅く腰掛けたまま両手を強く握りしめていた。


 あまりに強く握りすぎて、爪が掌へ食い込んでいる。じわ、と薄く血が滲んだ。痛みはあるが、そのぐらいでちょうどよかった。理性を手元へ留めておくための、ちょうど良い抑えになるからだ。


 《タナトス》のレベルアップ効果は、富士宮の予想を軽く超えていた。間違いなく、自分は暗殺者としての次元を上げた。だが、その代償というべきか、副作用というべきか――とにかく精神面への干渉が、かなりえぐい。


 人を見れば、殺しやすい箇所が視覚的にわかってしまう。まるでそこだけが淡く光って浮かび上がるみたいに、喉、こめかみ、首筋、肋骨の隙間、動脈の流れ、骨の薄い部分が見える。今までもゾーンに入った時には世界が黒と白線だけになっていたが、それが日常的に発生しているような錯覚を覚える。


 それだけでなく、空気中の魔力まで知覚できるようになった。人の周囲にまとわりつく魔力の濃淡や感情が揺れた時のほんのわずかな波から、殺気になる前の前兆レベルの意識を読み取れてしまう。


 こうなると何が起きるか。ただ人と話しているだけで、殺し方を考えてしまうのだ。


 少し苛立たせられただけで、少し不快な言葉を投げられただけで、少し空気が悪くなっただけで、


 ああ、このまま喉へ指を突き刺せば黙るな

 この相手なら、椅子を倒して後頭部を床に打たせれば

 夜道なら、階段なら、扉際なら――


 そういう思考が、まるで自然現象みたいに湧く。富士宮ひとみは快楽殺人者ではないという自認がある。合理的に考えて、排除すべきと判断した相手にだけ容赦がない、というタイプだと自分では思っている。でも今の《タナトス》は、そんな彼女の理性へ平然と踏み込んでくる。


 殺せ、殺した方が早い、その不快感を消せ、その違和感を消せ、その雑音を消せ、殺せ殺せ殺せ、と昼夜なく語りかけてくるかのようだ。


 特に苦痛なのが、教皇の間で行われる恒例の鑑定会だった。あれは富士宮からすれば、聖女をありがたがる顔をしながら、その実ただの金づるとして使っているだけのイベントだ。貴族や富豪が持ち込んだ品を鑑定し、そのたびに教会は大きな献金を得る。建前は神の御業、実態はかなり俗っぽいお遊びだと富士宮も理解はしている。


 だが、理解と不快感は別問題である。もともとあの場には、微量の不快さが常にあった。そして今、その微量の不快さへ《タナトス》が過剰反応する。


 あいつを殺せ、こいつを黙らせろ、その薄っぺらい笑顔に刃を突き刺せ、殺せ殺せ殺せ、と。


「……っ」


 深夜の私室で、富士宮はさらに強く拳を握った。掌へ食い込む爪の感触で、自分の理性を引き戻す。


 抑え込め

 レベルが上がったなら、それに見合うだけの制御が必要だ

 使う側の精神がついていかないなら、それはただの暴走だ


 富士宮は呼吸を整え、ゆっくり息を吐く。胸の奥で暴れる真っ黒な獣みたいな衝動へ、理性の蓋を一枚ずつ被せていく。


 ほんの少しだけ落ち着いた、その時だった。


「……大丈夫ですか」


 控えめな声が、頭上から落ちてきた。


 富士宮が顔を上げる。


 屋根裏の覗き窓から、少し怯えたような少女の顔が見えた。


 ジェシカ・パークだった。


     *


 保護してから二週間、最初の予定ではもっとゆっくり育てるつもりだった。


 雑貨店で寝泊まりさせ、心身ともに回復を待ってから、簡単な仕事を覚えさせ、人間らしい生活を少しずつ思い出させる。そうやって時間をかけて、社会へ馴染ませていく。それが想定していたオーソドックスなルートだった。


 だが、ジェシカの方から予想外の希望が出された。彼女は保護されて早々に、オーエンへ「黒髪の聖女に会いたい」と願い出たのである。


 その報告を聞いた時、富士宮は首を傾げた。ジェシカには宵闇の存在を明かしてはいるが、黒髪の聖女との関係は伝えていない。オーエンからも、そこは明確に報告があった。にもかかわらず、ジェシカは主人が誰なのか、ほとんど直感で理解していたらしい。


 富士宮はそこで思い出した。


 ルナアリスには、ステータスやスキルへ明示されない隠しパラメータがある。俗に言う才能に近いもので、運営側が明文化しないタイプの気配とか相性とか、そういうやつだ。トッププレイヤーほど、その機微を読む。ジェシカは、その類の個体ではないのか。


 そこまで考えた富士宮は、育成方針を変えた。オーエンの元でゆっくり育てるより、自分の側へ置いた方がいい。もっと言えば、ジェシカと相性の良さそうな《タナトス》の影響下へ晒した方が、急速な成長が起きるのではないか、と期待した。ルナアリスの世界でも、シナジーのある個体同士を隣接配置すると、まれに成長覚醒みたいな極大レアイベントが起きることがある。この辺りは完全に元トッププレイヤーとしての勘だった。


 ジェシカの扱いは、表向きには貧民街で拾った侍女候補、ということにした。居室も一応は、聖女の棟に用意したことになっている。ただし実際には、その部屋は名目だけだ。本当の生活空間として富士宮が与えたのは、屋根裏を改装した小さな部屋だった。


 そして夜はそこへ寝るよう命じた際に理由として口にしたのが、「大聖堂の夜間の空気を、肌で感じるようにしてください」という、我ながら何を言っているのかわからない課題である。


 いや、ほんとに何言ってるんだ私は

 ほぼ二十四時間この空間の殺気と神気と私の気配に晒されろって言ってるようなもんだろ

 職場の上司が出す課題としては終わってる


 だが、ジェシカは目を輝かせた。とても嬉しそうに、何より富士宮に指示されたこと自体をとても幸せそうに。


 その後も、富士宮が何を命じても、まるでご褒美でも受け取ったみたいな顔をする。それがまた少し怖い。


 富士宮は前世で、こういう表情をする人種を見たことがある。狂信者、というやつだ。そう言えば、オーエンも時々そんな顔をする。


 富士宮はジェシカを見上げながら、内心で微妙な顔になった。


 何なんだろうな、あっちの組

 能力は高いんだけど、信仰と執着が混じってる感じがして少し怖い

 まだアントニオの方がわかりやすいまである


 その流れで富士宮は、護衛組について密かに決意を固めた。


 あっちは、なるべく良い子たちに育てよう

 社会の汚い部分は、できるだけ見せずに

 


「……はい」


 屋根裏のジェシカに対し、小さく返事をする。


「お、お加減が悪いのでしょうか」


「ほんの少し、考え事をしていただけです」


 富士宮はいつもの低い声で答えた。


「申し訳ありません。驚かせましたか」


「いえ……その……」


 ジェシカは口ごもる。怯えているようにも見えるが、その目の奥には奇妙な熱があった。


「何か、できることがあれば……」


 すぐに奉仕したがる

 こういうところ、ほんと狂信者っぽいんだよな


 でも今はそれでいいでかもしれない。そういう形でも自分の存在を確かめられた方が、ジェシカにとっても安定するのだろう。


「今夜は休んでください」


「……はい」


「屋根裏は寒くありませんか」


「大丈夫です。ここ、落ち着きます」


 屋根裏の小窓が静かに閉じ、室内はまた静寂へ戻った。


 富士宮は、自分の掌についた血を見下ろす。まだ少し痛むが、それでもいい。痛みがあるうちは、まだ理性が残っているということだから。


     *


 一方その頃、ジェンナーロ・ガットゥーゾは、机の上に積み上がった報告書の束を前に、険しい顔をしていた。


 勇者殺害に関する断片は、確かに集まっているし、まったくゼロではない。むしろ細切れの情報だけなら、以前より増えているくらいだ。


 たとえば――。


 殺害当日、勇者レナート・カールが劇場街で何者かと接触していたこと。

 その後、自宅ではなく別荘地帯へ向かったこと。

 勇者の家が見張られている、という情報が、王国の南部もしくは西部方面から流れてきたこと。


 その辺までは追えている。だが、そこから先が異様だった。ジェンナーロはその感覚を、何度も報告書の余白へ書いては消した。


 痕跡が完全に消えているわけではないのに、異端審問局の手元へ届く頃には、何本もの無関係な可能性へ散り、意味を持たないほど薄くなっている。


 そしてその不自然さが、逆にジェンナーロを震えさせた。


「……まさか」


 彼は低く呟いた。その瞬間、十年前に参加した帝国との合同作戦の記憶が蘇る。


 王国の北側にあるあの大国は、世界最大級の犯罪組織の本部を抱える、密偵と犯罪者の最激戦地帯だ。ジェンナーロは若い頃、一度だけ帝国諜報部と組んで大規模な合同作戦へ参加したことがある。


 その時、相手側――犯罪組織側に、とんでもない事務方がいた。


 控えめに言っても、天才だった。表へ出て戦うのでなく、後方から、情報も金も人も、すべての線を自在に操ってくる。


 帝国側の追跡は何度も空転した。包囲したと思えば空振りし、押さえたと思えば囮で、証拠はあるのになぜか核心へ届かない。


 あの時、帝国諜報部がもっとも嫌悪し、もっとも恐れていた戦術の一つが――痕跡を拡散させる戦術だった。それはスキルによるものだ、と彼らは評価していた。


 まさにジェンナーロの【チェイサー】と正反対のスキルと言える、追う者がいることを前提に、その追跡そのものを空転させる異能だ。


 国家側が急速に劣勢へ追い込まれたのも、あの天才事務方の存在が大きいと言われていた。結局その人物は老衰で死んだらしいが、もしそうでなければ、潮目は完全に変わっていたかもしれない――そんな噂まであった。


 ジェンナーロは、報告書の上へ手を置いた。冷たい汗が、額に薄くにじむ。


 まさか、いや、だが、もし王国にも、ああいう手合いが現れたのだとしたら、宵闇とは単なる暗殺者ではなく、単なる義賊でもなく、裏に事務方の怪物がいる組織ということになる。


 それはジェンナーロにとって、最悪に近い相手だった。


 ジェンナーロは歯を噛みしめ、戦慄していた。しかし同時に、昂ってもいた。


 これは厄介だ、だがだからこそ狩り甲斐がある。

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