悪魔のような聖女
帰りが遅れた、ただそれだけのことだった。
ジェシカ・パークは、抱えた包みを両腕で押さえながら、王都南部の薄暗い路地を早足で歩いていた。日が落ちきる前には戻れるはずだったのに、今日は広場の方がひどく混んでいた。何か祭りでもあるのかと思ったら、違った。
ちょうどこの日、明けの商店街で聖女の巡礼があるとのことだった。神秘的だとか、美しいだとか、黒髪なのに聖女なんて不吉だとか、人によって言うことは違っていたけれど、ジェシカにはどれも関係のない話だった。自分のような人間にとって、聖女だの祝福だのは、遠い空の向こう側の出来事でしかない。
だから本当なら、立ち止まる気はなかったのに人垣が行く手を塞いでいた。押し合う群衆の間に挟まれて、しばらく身動きが取れなくなった。そしてその時、ほんの一瞬だけ、人々の頭越しに、広場の中央へ立つ黒髪の女が見えた。
大勢を前にしているのに、声を荒げるでもなく、威張るでもなく、ただそこに立っているだけで、妙に目が離せない。飲み込まれそうな闇みたいでもあり、その闇の底に、変にあたたかいものが沈んでいるようでもあった。
変な女
ジェシカは、その時そう思った。でも次の瞬間には、誰かに肩を押され、別の誰かに肘をぶつけられ、もう黒髪は見えなくなった。やっと群衆を抜けた時には、かなり時間が経っていた。
そのせいで帰りが遅れた。ただ、それだけのことだった。
*
「おっそいんだよこの売女が!」
帰った瞬間、頬を張られた。抱えていた包みが床へ落ちて、中身の干し肉や安酒の瓶が転がった。ジェシカは反射的にしゃがみ込んで拾おうとしたが、その髪を掴まれて無理やり引き起こされる。
「す、すみません……っ、すみません、ごめんなさ……」
「黙れ!」
今度は腹を蹴られて息が潰れる。次は肩、その次は背と、娼館の主人はいつものように容赦がなかった。
油でべたついた髪と酒臭い息、そして肥えた顎。そのすべてがジェシカは大嫌いだったけれど、逆らえたことは一度もない。
「買い出し一つまともにできねえのかよ!」
「ち、違うんです、広場の方が……その、聖女の巡礼で、人が……」
その瞬間、主人の顔色がさらに悪くなった。
「はあ? じゃあ何だ、聖女様の見物でもしてたってのか?」
「ちが、違います、見てません、ただ通れなくて……」
本当はほんの一瞬だけれど、見た。でもそんなことを正直に言えるはずがなかった。
その後も殴られながら、ジェシカの胸の底には、暗いものがじわじわと溜まっていった。
――あの聖女のせいだ。
もちろん、理不尽だと頭ではわかっている。聖女が悪いわけではないし、自分はただ巡礼へ巻き込まれただけだ。けれど、理屈なんてどうでもよかった。こんな目に遭うきっかけになった、だから憎いと、そう思ってしまう。
それは暗い憎しみだった。ただし、その憎しみには爪も牙もない。だからどうすることもできない。聖女に石を投げることも、悪口を言うことも、何もできない。自分はいつだって、ただ殴られて、謝って、終わるだけの側だ。
幼い頃に孤児になってから、ずっとそうだった。ジェシカには、幸せというものがよくわからなかった。道端で笑う子どもを見たことはある。恋人同士が寄り添って歩いているのを見たこともある。暖かい食事を囲んで、くだらないことで笑い合う家族も見たことがある。そういう光景を見て、羨ましいとは思った。
でも、自分がそうなれるとは一度も思わなかった。
そのうち、他人がみんな幸せそうに見えるたびに、胸の奥へ黒い泥が溜まっていった。気づけばジェシカは、自分以外のすべての人間に、仄暗い殺意を抱くようになっていた。
けれど、殺し方なんか知らない。どうやって人を壊せばいいのかも知らない。知っているのは、自分が壊される側だということだけ。
支配され、殴られ、犯され、謝る。それを繰り返して、繰り返して、また繰り返し続ける。そんな人生だった。
主人はひとしきりジェシカを殴ったあと、脂ぎった顔を歪めて笑った。
「罰だ。今日は一番質の悪いのを回してやる」
ジェシカは、もう反論しなかった。反論したところで殴られる回数が増えるだけだ。だから、黙ってうなずいた。
「はい……」
*
その客は、いかにも「社会の底辺を煮詰めました」みたいな男だった。
酒臭く、歯は黄ばんで汚いし、手指は脂っぽい。何か話すたびに、下品な唾が四方に飛ぶ。
ジェシカは行為の間何も感じないようにしていた。そうしないと、やっていられないからだ。体のことを、自分のものだと思わない。そうやって気持ちを切り離して、今日も何とかやり過ごす。
事が終わったあと、ジェシカはいつものように精気を抜かれたみたいに横たわっていた。
だが、男はそこで帰らなかった。
ぬるりとした手が、ジェシカの首へかかる。最初は、何をされているのかわからなかった。次の瞬間、首を締められているのだと理解した。
男はへらへら笑っていた。
「なあ、聞いたぜ」
指に力が入る。
「お前、どうなってもいい奴なんだってな」
ジェシカの視界が揺れた。
「ごふ……っ」
「ここの主人が言ってたぜぇ。お前なら壊しても構わねえってよ」
ぐ、と男の手指の圧が増す。
「一回こうして首絞めながら女としてみたかったんだよなぁ。なあ、もう一回やろうぜ?」
息ができない。気づくと悔しさで目の端から勝手に涙が出た。
こんなの、あんまりじゃないか
ジェシカは、そんな言葉を頭の中で繰り返していた。
自分にだって、一度くらい幸せがあってもいいはずなのに
誰かに優しくされるとか、暖かいものを食べるとか、朝起きて今日も生きていてよかったと思うとか
そういうのが、一度くらいあってもいいはずなのに
何で私には何もないの。
何で最後までこうなの
悔しい、悔しい、悔しい
その時、昼間に見た黒髪の聖女の姿が、ふいに脳裏へ浮かんだ。
自分みたいな汚れた人間でも、まとめて受け入れてしまいそうな器のようでもあり、逆に何もかも呑み込んでしまう底なしの闇みたいでもあった。だがジェシカにとってそんなのはどちらでもよかった。
神様なんて、信じたことはない
でも今だけは
助けて
お願いだから助けてよ
それは声にならない祈りだった。そして、その瞬間、娼館の個室の扉が、横殴りに蹴り飛ばされた。
轟音をあげて蝶番がちぎれ飛び、木片と鉄片が部屋に散る。
客の男が反射的に振り返るが、その次の瞬間には、もう首がなかった。その後、一瞬遅れて胴体が崩れ落ちた。
何が起きたのか、ジェシカにはわからない。ただ、部屋へ飛び込んできた仮面の男が、一刀で客を切り捨てたという事実だけが目の前にあった。
仮面で細身の男が振り抜いた迷いのない刃により、その部屋は血で染まっていた。その血染めの床をゆっくり歩いて、もう一人の男が入ってきた。
二十代後半くらいの、穏やかそうな男だった。地味で、派手さのない顔立ちだが、不思議なことに、ジェシカはその男へ、自分と同じ種類の仄暗さを感じた。
男は床へしゃがみ込み、ジェシカへ静かに話しかける。
「お迎えに上がりました、ジェシカ・パーク」
声はやわらかい。けれど、何を言われているのか理解できなかった。
「我が主人の命により、あなたを保護いたします」
「……え……」
掠れた声しか出ない。
男は構わず続けた。
「ジェシカ・パーク。自分の人生を、自分の手で掴み取るつもりはありますか?」
言葉が難しい。そんなふうに考えたことなんてないし、考えるための教育も機会もなかった。
でも、その次の言葉だけは少しわかった。
「もし、その意思が少しでもあるなら」
男は静かに言う。
「宵闇は、あなたを全力で守ります」
意味は全部わからない。でも、ジェシカはなぜか、直感した。
神様なんかじゃない
あの黒髪の聖女が助けてくれたのだ
きっとそうだ
自分なんかへ、手を伸ばしてくれたのは、
あの底の見えない闇みたいなものをまとって立っていた、あの女だ
ジェシカの喉から、嗚咽が漏れた。それは苦しさからではなく、涙のせいだった。涙が止まらない。ぐちゃぐちゃに泣きながら、ジェシカは何度も何度も、言葉にならない祈りを捧げた。
ありがとう
助けてくれてありがとう
神様じゃなくてもいい
悪魔でもいい
どうか見捨てないで
後に世界中の暗殺者の頂点と称されることになる女は、この夜、娼館の一室で滂沱の涙を流しながら、悪魔のような聖女へ感謝の祈りを捧げ続けた。
*
深い森の中には、王都の人間がほとんど知らない集落がある。
木と骨で組まれた住居と焚火の煙、そして土と獣の匂いが漂う。文明以前の世界が、そのまま取り残されたような場所。そこへ、スティーナ・ブラックステニウスは足を踏み入れていた。
黒いとんがり帽子と黒いローブ、帽子の縁から零れる豪奢な金髪という出で立ちは、森の暗さの中にあってさえ、妙に目立つ女だった。
彼女の訪問相手は、集落の中央にある一際大きな住居の前で待っていた。
虎の獣人族の女戦士で、その筋骨隆々とした体格と、露出の多い原始的な衣装の隙間から見える肢体は、野性の強さと同時に、男を惹きつける類の艶まで備えている。
名前はカディジャ・ショー、SRジョブ【ソードマスター】ジョブランクSの使い手にして、勇者パーティの元剣士である。
「久しぶりね」
スティーナが言う。それに対しカディジャは、鼻を鳴らすように返した。
「人間の都合に興味はない」
「つれないわねえ」
「帰れ。私はもう、あいつらとも王都とも関わる気はない」
スティーナはその態度を気にせず、淡々と返した。
「勇者とマリアは死んだわ」
それでもカディジャは眉ひとつ動かさなかった。
「そうか」
「冷たいわね、それだけ?」
「それ以上何がある」
カディジャの声には、嫌悪が滲んでいた。
「あの男も、あの女も、下劣で吐き気がした。そんな連中を抱えて容認していた王国も教会も、みんな同じだ。私はもう二度と人間とは関わらない」
スティーナは、そこで少しだけ笑った。
「今の聖女は、黒髪よ」
カディジャの目が、ぴたりと止まった。スティーナは続ける。
「あなた、黒髪の教会関係者と因縁があるのでしょう?」
その瞬間、空気が変わり、虎の獣人の目に激しい怒りが宿る。静かな森の夜気を裂くような、生々しい怒りだった。
「……それを早く言え」
低い声で答えると、カディジャはすぐに踵を返し、住居の奥へ入る。戻ってきた時、その背には白い大剣があった。森にも土にも馴染まない、異様な白だ。
「難しいことはお前に任せる」
そう言って、カディジャは大剣の柄へ手を置いた。
「王都へ行くぞ」
スティーナは内心で、ほくそ笑んだ。勇者もマリアも愚物だった。だが、今度の聖女は面白い。掘ればきっと、もっと楽しいものが出てくる。
スティーナ・ブラックステニウスは森の奥を見つめながら、ゆっくりと笑みを深めた。




