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死の事務次官

 勇者レナート・カールが死んだ翌朝、王都の空気は奇妙な静けさに包まれていた。


 それは平穏ではない。大雨の前に空が重く沈む時のような、誰もがまだ大きな声では語らないのに、しかし誰もが同じ話題を胸の内に抱えている、そんな静けさだった。


 オーエン・ハーグは、朝一番に王立中央新聞社から届いた紙面を丁寧に畳み直しながら、その空気を少し離れた場所から眺めていた。


 紙面の中央には、勇者の死が載っている。扱いは決して小さくないが、ただ「勇者死す」と煽るのではなく、勇者周辺の不祥事ごと白日の下へ引きずり出すような構成になっていた。


 あれはイバン・コナンの筆によるものだと、オーエンにはわかる。読者に「勇者は本当に正義だったのか」と疑わせるに十分なエピソードを盛り込み、しかも過去の女関係や粗暴な行動について、記者たちの間で囁かれていた話を「記者たちも知っていて書かなかった」ということを強く匂わせる書き方をしている。


 あまりに見事だった、まるで最初からこうなる日を待っていたかのように。イバン・コナンという男は、中央新聞社にいながら、中央新聞社的なものを誰より嫌悪していた。貴族の機嫌と紙面の体裁だけを整え、真実を真実のまま扱わないあの世界に、長く押し込められていた分だけ、今朝の一撃には怨念のような執念が乗っている。


 勇者の評判は、公に地に落ちた。もともと民衆のすべてが彼を敬愛していたわけではない。実力は本物でも、王都での振る舞いは下品で、粗暴で、そして何より勇者であることを免罪符みたいに振りかざす男だった。知っている者は知っていたし、嫌っている者は前から嫌っていた。


 王国中枢部の貴族や王宮関係者は大騒ぎだった。


 勇者の死をどう発表するか、勇者の名誉をどこまで守るか、だが守ろうとすればするほど記事の内容に触れざるを得なくなる。しかも死因が死因だ。女を漁る夜の密会先で、謎の義賊に断罪された――などという構図は、威信を守りたい王国にとって最悪に近い。


 王宮は今、勇者の死そのものよりも、その死の意味をどう片づけるかで忙しいはずだった。勇者という看板はあまりに大きく、反面その看板の裏側があまりに汚れていたと知れれば、王国そのものの体面が傷つく。かといって、ここで勇者を過剰に擁護すれば、民衆の不信を煽るだけだ。おそらく誰も彼も、この四面楚歌の状況に頭を抱えていることだろう。いっそ、勇者の死体など発見されなければ良かったと愚痴を言い合っているに違いない。


 対して、教会は驚くほど落ち着いていた。むしろ落ち着いているというより、冷ややかだったと言っていい。

今さらながらに、勇者の粗暴な振る舞いと、聖女ヒトミ・フジノミヤに対する非礼を批判し始めている。生前に何もしなかった者たちが、死んだ途端に正論を言い始めるのだから滑稽な話ではある。


 だが、そこには明確な政治的意図が見えた。この機に、王国側から主導権を取るつもりなのだ。勇者の管理に失敗したのは王国であり、教会はそれを以前から苦々しく見ていた、そういう構図を後付けであっても作ってしまえばいい。ついでに聖女ヒトミ・フジノミヤの権威を高められる。あの黒髪の聖女へ向けられていた奇異や警戒を、王国側の失策と比較することで相対的に薄めることもできる。


 実に教会らしい。


 オーエンはそこへ嫌悪を抱かなかった。


 むしろ好ましいとすら思ったし、元々使えるものは使えばいいと考える性質だ。流れがこちらへ向くなら、何でもいい。何よりあの方――ヒトミ・フジノミヤに、有利な風が吹くのならそれは歓迎すべきことだ。


 そして、何よりも大きかったのは、宵闇の名が一気に広まったことだった。王都の南から北、西から東へ、酒場から市場へ、劇場街から官僚街へと、その噂は止まることを知らなかった。


 もちろん賛否は割れている。王国が見て見ぬふりをしてきた腐敗へ刃を入れる正義の使徒だと喝采する者もいれば、王国の秩序を乱す危険なテロリストだと恐れる者もいる。だがそれでいい、賛否両論とは注目されているという証だ。誰にも話題にされないより百倍ましだ。


 オーエンはそこで、ほんの少しだけ目を閉じた。


 ああ、なんと美しい構想だろう


 宵闇の構想から勇者殺害までの一連の流れとその発想は、あまりに鮮やかだった。


 そしてその発想を形にしたのが、あの方だ。いつも礼儀正しく低い声音で話しながら、その実、常人の数手先をすでに見ている方。


 オーエンは、自分でも少し過剰だと思うほどに、黒髪の聖女を礼賛していた。


 だが仕方がない。自分のような、表の世界にどうにも綺麗には馴染めない人間へ、役割と意味を与えたのはあの方だったのだから。


 勇者殺害という大仕事を終えたあと、オーエン自身にもまた、はっきりとした変化が訪れた。


 新たな上位ジョブの取得が可能になったのだ。ただし、その名前があまりにも穏やかではなかった。


 【死の事務次官】、レア度SSRランクの高位ジョブである。


 あまりに不穏であまりに自分らしい、と最初は苦笑したものだ。普通のジョブチェンジの儀式でこれが出れば、周囲はまずざわつくし、それだけでは済まないかもしれない。「事務次官」まではまだしも、「死」がつくのはさすがに厄介すぎるだろう。


 だが、そこをあの方はきちんと隠した。聖女ヒトミ・フジノミヤ自らが祝福の祈りを担当し、他の神官たちから新たなジョブが見えないように配慮してくれたのだ。周囲から見れば、聖女直轄の実務者へ神聖な加護が与えられたにすぎない。何が変わったのか、どこまで変わったのか、それは誰にもわからない。


 あの方は、本当にどこまで見えているのだろう。オーエンは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 高位ジョブ取得に付随して取得したスキルにより、すでに痕跡の希薄化や裏組織の適正配置など実務的な効果が出始めている。


 死の事務次官、なんと恐ろしく、なんと幸福な響きだろう。あの方がいなければ、自分は今これほどの幸福を感じることはできなかったに違いない。


 自分はあの方をもはや信じている、自分のような者へ意味を与える存在として。それは十分に、信仰と呼ぶに足るものだった。


 そして最近、好ましい変化がもうひとつあった。


 リュシエンヌ・ファルが劇場で明らかに人気を高め始めていたのだ。最初は少し客受けのいい見習いにすぎなかったはずだが、今は違う。


 舞台へ立った瞬間に空気が変わり、視線を集めるだけでなく、集めた視線を離さない魅力がある。笑えば幼いのに、一歩舞台へ出ると急に年齢不詳の妖艶さを帯びる。覚醒の種で得た感覚を忘れずに修練に励んだ結果、能力が急激に成長したのだろうと聖女は推測していた。


 結果として、彼女は正式に踊り子へジョブチェンジした。


 オーエンは帳簿を閉じながら、薄く笑った。


 彼女には、今後も光の下で目立ってもらう予定だ。有名であること自体が宵闇の偽装になる。誰も、舞台で拍手を浴びる少女が、裏で宵闇の一員として動いているとは思うまい。


 それに――あの方も、きっとそうした配置を好まれる。


 表と裏、光と影。あの方は、その重なりを愛しておられるように見える。


 だが、最近ひとつだけ、オーエンの胸に小さな懸念が芽生えていた。


 勇者殺害の後から、あの方の静けさの質が少し変わったのだ。表面上は何も変わらない、相変わらず低い声で話し、敬語を崩さず、無闇に感情を見せない。侍女たちから見れば静かな聖女のままだろうが、裏側の世界で仕える者にはわかる。


 普段ならすぐに返ってくるはずなのに沈黙が少し長いことがある。まるで何かを抑え込んでいるような、そんな静けさだ。富士宮ひとみのスキルが、あの夜、ひとつ段階を上げたらしいことは、オーエンにも察せられた。


 勇者を直接殺したのだから当然だ。だがその変化をあの方自身が、まだうまく扱いきれていない。あの方は今、内なる殺意を抑えるのに少し苦労されているのではないか。


 オーエンはそこまで考え、静かに目を閉じた。


 不安がないわけではないが、特段恐れはなかった。たとえあの方が危うくなろうと、支えるだけだ。死の事務次官として、宵闇の影として。あの方が望む秩序のために、自分はいくらでも暗い仕事を引き受ける。それが自分の役割だから、そしてその役目を与えられたこと自体が、私に取っての救いなのだから。


 オーエン・ハーグは、薄暗い帳場の中でひとり、穏やかな顔のまま静かに思った。それは忠誠ではなく、もはや狂おしいほどの祈りに近かった。


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