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勇者、暗殺

 その日の夜は、驚くほどいつもどおりの光景だった。


 王都の中心ではまだ灯りが多く、人の声も馬車の音も絶えてはいない。だが、そこから少し外れ、さらに人目を避けるように奥まった通りへ入ると、世界は急に舞台の裏側みたいな静かな顔を見せ始める。


 今夜、そのような王都の裏側の一つにリュシエンヌ・ファルは立っていた。


 黒髪を少しだけ整え、顔立ちが大人びて見えるよう薄く化粧を施し、劇場の見習いらしい華やかさを残しながらも、どこか「今夜だけは特別です」とでも言いたげな空気を纏う。服は派手すぎないけれど、勇者みたいな男の目には、十分意味ありげに映る程度には露出を多くしている。


 その舌の裏に残るのは、ほんの少し前に飲み込んだ《覚醒の種》の名残だった。


 赤黒い乾燥種は、見た目だけなら干からびた果実の芯みたいだった。だが、噛み砕いて飲み込んだ瞬間に、全身の感覚が薄い膜を一枚剥がしたみたいに変わった。


 見える、人の視線がどこへ滑るのか、喉が動くタイミング、目の奥で欲しがっているもの、気持ちが動くほんの少し前の揺れのような空気感、それらが怖いくらいにわかる。


 リュシエンヌは一度だけ深呼吸した。


 大丈夫

 やるしかない

 ここで外したら、たぶん次はない


 路地から少し離れた影の中には、ブラヒム・ディアスが潜んでいた。《ナイトフォール・ヴェール》の仮面と、《グレイヴ・グローブ》の手袋で偽装した仮面の用心棒。肌の色も死者の冷たさも隠され、暗がりの中では本当に少し不穏な護衛程度にしか見えない。誰も、三百年を生きた墓守のアンデッドであるとは思わないだろう。


     *


 イバン・コナンの仕事は、もう終わっていた。彼は中央新聞社の記者としての顔を使い、正面から勇者へ接触したわけではない。彼が狙ったのは、勇者の取り巻きや、それらに取り入っている関係者のうち、少しだけ口の軽い連中だった。


 酒場で一言、劇場街で一言、新聞社の控室で、さもどうでもいいような一言を勇者関係者に告げる。曰く、今夜は勇者の館の周辺を何人かの記者が張っているらしい、曰く、最近女遊びの件で勇者を狙っている奴がいるらしい、曰く、記事になるかはわからないが館へ女を連れ込むのは少し危ないらしい、といった具合にだ。


 その上で、さらに別の餌も撒いておく。勇者くらいの身分なら、逢瀬に王都外れの貸し別荘を使うこともおかしくはないし、そういう時はむしろ取り巻きも入れず、完全に秘密の逢瀬にした方が女は落ちるらしい、と取り巻き連中に吹き込んでおく。


 その結果、勇者レナート・カールの頭の中には、実に都合のいい構図が生まれていた。


 今日の館は記者に張られているらしく、煩わしい。だが自分ほどの男なら、少し場所を変えて誰にも見つからない貸し別荘を大金はたいて借りればいい。今晩目をつけた女を連れ込んでこっそり味わうことにしよう、と。


     *


 勇者との再接触は、劇場街にほど近い路地に設定されていた。人目はそこそこあるが、行き交う人々は自分のことで精一杯で、誰も他人のことは慎重に見ようとしない、そんな歓楽街の一角らしい路地だった。


 リュシエンヌは、自分から勇者を探すような真似はしなかった。そんなことをすれば下品に見えるし、向こうの優越感を刺激できない。必要なのは、向こうから見つけたと思わせることだ。だから彼女は、ほんの少しだけ立ち止まり、ほんの少しだけ視線を彷徨わせ、ほんの少しだけ迷っている女の空気を見せた。今晩、勇者がこの道を通って獲物の物色のために劇場に行くことは、オーエンの調査により判明している。後は、勇者に見つけてもらうことだけ。


 その瞬間、聞くだけで鬱陶しいくらい軽薄な声がリュシエンヌの耳に届く。


「おや、こんなところで会うとは運命だな」


 リュシエンヌは、心臓が嫌なくらい跳ねるのを感じながら振り返った。


 勇者レナート・カールは、今日も無駄にきらきらしていた。綺麗に整えられた金髪碧眼の美形が派手な外套をまとい、気取った笑みを浮かべている。自分の強さに絶対の自信があるのだろうし、実際強いのだが、目の前の女一人に欲情している時点でどうしようもなく浅い、と15歳のリュシエンヌでさえ思わずにいられない。


 そんな本音を隠しつつ、リュシエンヌは怯えを半分含ませたようなオドオドした演技で勇者に話しかける。


「……勇者様」


「そんなに怖がるなよ。今日は優しくするつもりだったんだ」


 ――うわ、気持ち悪。


 嫌悪感がバレないように細心の注意を払いながら、《覚醒の種》で無理に押し開かれた感覚の中、リュシエンヌは勇者の視線の流れを読む。彼は今何を望んでいるか、どう言えば気分よく動くか。その答えはすぐに見えた。勇者は、「心を折られた女を優越感に浸りながら手に入れる」という構図に酔いたいようだ。ならば、そこを押す。


「中央新聞社の記者さんから聞きました……館は、危ないのではありませんか」


 勇者が少しだけ目を細めた。


「ほう?」


「最近、勇者様を取材しようとしている方が多いと聞きましたから……。わたくしみたいな者が、あのような場所へ入るのは……目立ちます」


 勇者は内心で、「やはり自分は狙われているほど大物なのだ」と気分よく受け取った。


 リュシエンヌには、それが手に取るようにわかる。


 このスキル、怖い

 言葉置くだけで、向こうが勝手に気持ちよくなってる

 次の言葉も、多分効き目は抜群だ


「それに……」


 彼女は少し目を伏せた。


「誰にも見られない方が、わたくしも……」


 ここで言葉を濁す。はっきり言わないが、勇者の脳内で勝手に都合よく補完されるはずだ。案の定、勇者は唇の端を上げて不愉快な笑みを浮かべた。


「なるほど、ようやく素直になってきたか」


 リュシエンヌは内心で吐きそうになりながらも、表面上は恥じらいを見せる。


「今夜だけ……でしたら」


 《マインドリード》は、直接相手を操るスキルではない。相手の思考が滑りやすい方向へ、視線・沈黙・仕草・言葉を的確に置いていく技術だ。イバンの工作も功を奏し、勇者の頭の中では「館は危ない」「秘密の場所の方が興奮する」「相手は自分へ完全に屈服した」という三つの思考が実に気持ちよく繋がっていた。


「いいだろう」


 勇者は満足そうに言った。


「私の手の者に、王都の東部郊外にある別荘を借りさせる。詳細は後で知らせるから、今夜はそこへ来い」


 リュシエンヌは心の中だけで叫んだ。


 うそ?!

 ほんとに落ちた!!


 だが顔には出さず、小声で小さく頷くにとどめる。


「……はい」


 この時点で、勇者の命運はほぼ決まってしまっていた。


     *


 王都東部の外れにある貸し別荘は、見事なまでに秘密の逢瀬向きだった。


 小綺麗な建物だが、周囲の敷地に人の気配は薄い。常時使われることはなくなったが、度々秘密の用途に使われているので、所有者が貸出用にメンテナンスを行き届かせている。灯りを入れれば寒さも感じず、一晩くらいなら何事もなく過ごせそうに見える。もちろん、この場所を所有者から長期に借り受け、さらに絶妙なタイミングで勇者の取り巻きに予約をさせた手筈を取ったのはオーエンである。


 別荘2階の応接室のテーブルにはワインが一本とグラスが二つ置かれていた。灯りは柔らかく、部屋の隅は若干暗い。応接室横には隣の寝室に繋がる扉がある。もちろんその寝室を使う予定はなく、リュシエンヌが数分だけ滞在し、その後自然に離脱する段取りになっていた。


 そして、そのワインには――無味の毒が仕込まれていた。


 正面からやれば勇者に負けることを、富士宮はきちんと理解していた。《タナトス》は暗殺向けのユニークスキルだ。気配を消し、死角から近づき、相手が準備できていないタイミングで戦いを終わらせることには向く。だが勇者レナート・カールみたいな純正の前線火力怪物と、真正面から殴り合って勝てるわけではない。


 だから、毒を使う。だから、最後は動けないところを嬲り殺す。


 富士宮は暗がりの中で目を閉じ、静かに待ち続けた。


 もうすぐだ


     *


 玄関の向こうで勇者の足音がした。先に部屋へ入っていたのはリュシエンヌだ。彼女は椅子に浅く腰掛け、少しだけ緊張した顔を作っている。その胸の内は恐怖と緊張で張り裂けそうになっていたが、表面上の平静はよく保たれていた。


 扉が開き、勇者が入ってくる。


「待たせたか?」


 勇者は上機嫌だった。リュシエンヌは立ち上がり、ほんの少しだけ視線を逸らす。


「いいえ」


 勇者はテーブルのワインへ目をやり、さらに機嫌を良くする。


「気が利くじゃないか」


 そう言って、何の疑いもなくグラスを取る。リュシエンヌはその動きを見ながら、手のひらに汗が滲むのを感じていた。


 お願いだから飲んで

 今ここで変に疑わないで


 勇者は、笑いながら一口飲んだ。続けて、もう一口。


 よし、とリュシエンヌは心の中だけで安堵した。そこでオーエンに言われた通り、彼女は自然な理由で席を外す。


「……少し緊張しているので、外の空気を吸ってきてもよろしいでしょうか」


「逃げるなよ?」


 ここまで来たら逃げられないだろうと考えているのだろう。勇者はリュシエンヌを止めることはなく、笑いながら軽く警告することしかしなかった。


「逃げません」


 それも嘘ではない。彼女は逃げるのではなく、仕事を終えて離脱するだけだ。


 リュシエンヌが退室して扉が閉まったその瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。勇者はもう一口ワインを飲み、眉をひそめる。


「……ん?」


 異変に気づいたのは、毒が回り始めてからだった。


 勇者はすぐに立ち上がろうとしたものの、その脚がわずかにもつれ、床に無様に倒れ込む。腕に力が入らず、呼吸が急激に浅くなっていく。立ち上がることができない。


「おい……これは……」


 そこで、暗がりの奥から足音がした。


 コツコツと、静かに、確実に近づいてくる。黒い外套の影が現れる。勇者の位置からは顔が影になっていて誰だかわからない。


 その影は、いつもの低い声で言った。


「こんばんは、勇者様」


 その声が誰の者かに思い至り、勇者の目が驚きに見開かれる。


「……お前、なぜ」


「少しだけ、お話がしたくなりました」


 富士宮は、静かな声音で敬語を使って語りかける。だが、その言葉の奥には冷えきった刃のような鋭利さが潜んでいた。


 勇者は剣へ手を伸ばそうとしたが、指先が思うように動かず、もがくような行動しか取れない。


「貴様……毒か……!」


「はい」


 富士宮はあっさりと認め、また一歩ゆっくりと勇者へ近づいた。


「正面からでは、わたくしはあなたに勝てませんので」


 勇者は顔を真っ赤にし、歯を剥いた表情になる。怒りと屈辱で端正な顔が歪んでいる。


「ふざけるな……!卑怯な真似を……」


 富士宮の内心はひどく冷静だった。


 いや、お前が一番ふざけてるし、卑怯なんだよ

 女漁りして、傭兵差し向けて、新聞社に圧力かけて、好き放題やって

 しかも最後は密会イベントだと思ってノコノコ来たんだろ

 お似合いの最後だわ


 表面上は、あくまで静かに聖女のように語りかける。


「勇者様、あなたは少しやりすぎました」


「聖女風情が……!」


「ええ、聖女風情です。そんな女にこれから殺されるお気分はいかがですか?」


 次の瞬間、富士宮は動いた。《タナトス》がドクンと鳴動し、富士宮の視界が黒と白い線だけの世界に変わっていく。毒で鈍った勇者の死角へ滑り込み、短刀を浅く、深く、確実に首の後ろに入れ、浅く掻き切る。すぐには殺さないと決めていたので、できるだけ苦痛が長引く場所をじわじわ削る。一撃必殺を返されれば富士宮の方が危ないかもしれないので、毒で動けない体を徐々に弱らせて殺すと最初から決めていた。


 だが、さすがに勇者はそれでも強かった。毒が入っているのに、腕を振り、家具を蹴り飛ばし、富士宮を掴もうとする。一撃でもくらっていれば、富士宮は破壊されていただろう。だが、勇者の攻撃のすべてが本気の時よりもわずかに遅い。《タナトス》はその遅れを見逃さない。結果、勇者の攻撃を全て紙一重の距離で回避し、カウンターで斬撃を確実に入れていく。


 一撃、二撃、三撃と黒短刀が勇者の体を切り刻み、その度に血が弾け飛ぶ。


「き、さま……!」


「いいところなのです。静かにしてください」


 富士宮はそう言いながら、さらに別の部位に刃を入れた。嬲り殺しとしか言えない、一方的な蹂躙劇だ。富士宮の中には、もう迷いはなかった。躊躇も罪悪感もなくただ終わらせる、あまりにも面倒であまりにも雑音だった存在を自分のゲームデータから消す、それだけだ。


 時間にして数分ほどの交差の末、ついに勇者が崩れ落ちた。床へ血が広がっていき、勇者の荒かった呼吸が止まった。勇者レナート・カールは、そこでようやく完全に沈黙した。


     *


 その後の処理は早かった。オーエンが現場に入り、宵闇の痕跡になり得るものを全て処分していった。リュシエンヌはブラヒムに連れられて、すでに安全圏に戻されている。


 富士宮は勇者の血を人差し指で拭い、その血で別荘の壁に短文を記した。


 『女を漁る獣を断罪し、奪われるはずだった未来を取り戻した』ーー宵闇


 少しだけ考えて、この表現にした。


 噂が広がりやすそうだし、イバンが記事にする時も使いやすいと思う

 義賊ブランドにはコピーも大事だからな


 屋敷を出る頃には、夜はもうかなり深くなっていた。遠くで野犬が吠える音がし、風がかなり冷たい。


 富士宮は外套を整え、何事もなかったように歩き出す。表情は静かで、所作もいつもどおり落ち着いている。だがその胸の内では、まだ興奮が醒めやらなかった。


 勇者、綺麗に落としちゃったぁ

 超重要NPCっぽいし、スキルのレベル上がるかな?

 リュシエンヌもイバンも、想定以上に仕事できるわね

 あー、これからの育成がマジで楽しみーー


 その夜、王都はまだ知らなかった。勇者が死んだことも、宵闇という名がこれから一気に広がることも。そしてその背後で、黒髪の聖女が静かに戦力を整えていることも。


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