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勇者処理フェーズ

 富士宮ひとみは、机の上に広げた羊皮紙へ視線を落としたまま、静かに茶を飲んでいた。


 午後の私室は穏やかで、窓の外では春の光が中庭へ落ちている。侍女が見れば、黒髪の聖女がいつもどおり静かに公務をこなしているようにしか見えないだろう。


 実際、表向きはそうだった。だが内心では、もう完全にイベント終盤のボス攻略会議である。


 来たな、勇者処理フェーズ

 駒は揃った

 環境も整えてある

 相手は自意識過剰で欲望に忠実

 こういう敵、ほんと扱いやすいんだよな

 強いけど頭が悪いボス、ゲーム的には最高の餌です


 彼女の前にあるのは、オーエンからの報告書と自ら書いた短い指示書だった。内容は簡潔だが、その簡潔さの裏ではかなりえげつないことを命じている。


 富士宮は、リュシエンヌ・ファルの前にも、イバン・コナンの前にも姿は見せない。あくまで自分は聖女であり、表で祈り、祝福し、静かに人々を導く奇跡の体現者でいなければならない。実務は完全にオーエンに任せてある。

 

 彼女は細い指で報告書を整えると、小さく息を吐いた。


「……始めましょうか」


 声は低く、静かだった。だが、その言葉の奥で《タナトス》が冷たく脈を打った。


     *


 その夜、オーエンの雑貨店では、いつもより少しだけ灯りが落とされていた。


 店の扉は閉め切っている。雨こそ降っていないが、南部の夜は人通りが少なく、軒先のランタンだけが石畳へぼんやりとした円を作っている。店の奥、在庫品の積まれた小部屋へ、リュシエンヌとイバンは呼ばれていた。


 リュシエンヌは緊張していた。黒髪を下ろし、膝の上で指を組み、視線を少しだけ伏せている。一方のイバン・コナンは、椅子へ腰掛けたまま妙に目が興奮していた。記者という生き物は、本質的に危なそうな話が好きなのだろう。


 二人の正面に立つのは穏やかな笑顔を浮かべるオーエン、さらにその後ろ、壁際に仮面の男――ブラヒム・ディアスが佇んでいる。一見すると、雑貨店店長と用心棒以外の何者でもないように思える。だが今から話される内容は、そんな生ぬるいものではなかった。


「お二人へ、少し大事なお話がございます」


 オーエンはいつもの穏やかな声で切り出した。


「我々は、とある裏組織に属しています」


 リュシエンヌが少し顔を上げる。イバンは身じろぎもせず、先を促すように目だけを細めた。


 オーエンはそこで一拍置いた。


「名を――『宵闇』と申します」


 途端に部屋が静かになる。リュシエンヌはその名にぴんときていない様子だったが、イバンの反応は鋭かった。彼の瞳が一瞬だけ大きく見開かれる。


「……宵闇?」


「はい」


「南部第三教区の神官殺しの……?」


「その名が、すでに市井へ出回り始めているのであれば、私どもの情報伝播は順調ですね」


 オーエンはそんな感想を淡々と述べた。


 イバンは、そこでごくゆっくりと息を吐いた。普通なら恐れてしまい、黙って距離を置くはずだ。だが彼は記者だった。そして何より、中央新聞社のぬるくて腐った空気に馴染めず、真実をどう見せるかという歪んだ場所にしか自分の居場所を感じられなくなっていた男だった。だから、次に浮かんだのは恐怖ではなく、熱だった。


「……面白い」


 ぽつりと、そう漏れる。それを聞いて、オーエンは小さく微笑んだ。


「前向きに受け取っていただけたようで何よりです」


「いや、前向きというか……そんなものが本当にあったのかと。もっと荒くれ者の集団かと思ってました」


「荒くれ者もおりますよ」


 オーエンの背後で、ブラヒムが無言のまま剣帯へ触れた。イバンはその仮面を見て、少しだけ喉を鳴らしたが、それでも興奮の方が勝っている。


「入ります」


 彼は前のめりに言った。


「え?」


 リュシエンヌが思わず横を見る。


「入ります。そういう話なんでしょう? 宵闇の構成員になれって」


「ええ、そうです」


「だったら入ります。俺、中央新聞社で貴族の機嫌取りみたいな記事を書かされるの、もううんざりしてるんです。勇者の件だって、皆知ってるのに書けないふりをしてるだけだ。そういうのに付き合うくらいなら、裏から世の中をひっくり返す方がよっぽど筋が通ってる」


 オーエンはうなずき、視線をリュシエンヌへ向けた。


「リュシエンヌ様は、いかがなさいますか」


 少女はすぐには答えなかった。単純に、怖いのだ。それはそうだろう。つい先日まで、自分は勇者に狙われる踊り子見習いに過ぎなかった。それが突然、裏組織へ誘われ、さらに目の前の店長は穏やかな顔でとんでもないことを言い出しそうな雰囲気を醸し出している。普通に考えれば、逃げ出してもおかしくない。


 けれど、リュシエンヌの心には、別の感情もあった。先日の公開ミサで遠くから見た、黒髪の聖女。言葉数は少なく、静かで、冷たいくらい落ち着いているのに、何か言葉では説明できないものをまとっていた。リュシエンヌはあの時、自分でも不思議なくらい、あの聖女から目が離せなかった。美しいとか、偉そうとか、そういうのではなくもっと別の、ここではない場所へ連れて行ってくれそうな何かを確かに感じた。


 あの夜、雑貨店へ逃げ込んで助かったこと、今日まで無理に問い詰められず休ませてもらえたこと、そしてあの聖女を見たことで、今までのただ逃げるだけの生き方を少しだけ変えたいと思ってしまったこと、その全部が今のリュシエンヌの意思へと繋がっている。


「……わたし」


 リュシエンヌは、小さく言った。


「怖いです」


「ええ」


「でも、勇者が生きてる限り、わたし……たぶん、また同じ目に遭います」


 オーエンは何も急かさなかった。ブラヒムも黙ったままだ。


 少女はぎゅっと指を握りしめ、それから顔を上げる。


「助けてもらって、連れて行ってもらったミサで聖女様も見て、少しだけ思ったんです。ちゃんと生きたいって。逃げるだけじゃなくて……何か、自分で選びたいって」


 言いながら、自分でも驚いているようだった。


「だから……もし、わたしにも何かできるなら」


「承知しました」


 オーエンは、その言葉を最後まで言わせたうえで、静かにうなずき、歓迎するように両腕を広げた。


「お二人とも、ようこそ宵闇へ」


 その瞬間、リュシエンヌは本当に後戻りできない場所へ足を踏み入れたのだと理解したが、不思議と後悔はなかった。


 オーエンが次の言葉を告げる。


「では、最初のお仕事です」


 イバンが身を乗り出し、リュシエンヌはごくりと喉を鳴らした。


「今夜――勇者を狩ります」


 空気が止まった。


「は?」


 イバンですら、一瞬だけ間の抜けた声を漏らした。リュシエンヌに至っては、口を開いたまま動けない。一方でオーエンは落ち着いていた。普段の帳場で値札を確認する時と同じ顔で、とんでもないことを言っている。


「最後の仕上げは、我が主人が行います」


 その言い回しに、リュシエンヌは微かにぞくりとする。この人たちの背後にいる、さらに上の誰か。


「その舞台を、リュシエンヌ様に整えていただきたいのです」


「わ、わたしに……?」


「はい。勇者を『今夜ならこの女が手に入る』と勘違いさせ、人気のない場所へ誘導してください。誘導場所はすでに用意してあります」


「そ、そんな……」


 先程まで宵闇に加入することさえ想定していなかった少女にとっては、怖いに決まっている。だからオーエンはそこで無理に押さなかった。


「もちろん、補助はあります」


 彼は引き出しから、小さな布袋を取り出した。中から出てきたのは、赤黒く乾いた小さな種だった。見た目は枯れた果実の種みたいだが、妙に存在感がある。


「これは《覚醒の種》と呼ばれる品です」


「覚醒の……種……?」


「市場の片隅で見つけたレジェンダリー級アイテムだそうです」


 イバンが怪訝そうに眉をひそめる。


「だそう、って」


「私には価値がわかりませんでした。ですが、我が主人が即座に確保を命じられました」


 つまり、その主人だけは価値を知っていたということだ。


「これを服用すれば、一晩だけ、リュシエンヌ様のスキルが一段深いところまで届きます」


 リュシエンヌは種を見つめる。


「ただし、代償があります。以後しばらく、ジョブやスキルの成長速度が少し鈍るそうです」


 リュシエンヌは唇を噛んだ。


 怖い、けど勇者が生きている限り、自分はまた狙われるし、今度も運よく雑貨店へ逃げ込めるとは限らない。


 それなら――。


「……やります」


 彼女は小さく、しかしはっきりと言った。それを見て、オーエンは静かにうなずく。


「ありがとうございます」


 次に彼はイバンへ向き直った。


「イバン様には別の役目をお願いいたします」


「何でしょう」


「勇者本人ではなく、勇者の取り巻きへ接触してください」


 イバンの目が鋭くなる。


「取り巻き?」


「はい。今夜は記者たちが勇者の館を張っている、という空気を作っていただきたいのです」


 それだけで、イバンは意図を読んだ。


「ああ……。館へ女性を連れ込むのは危険だと、向こうに思わせる」


「そうです。そのうえで、『王都外の貸し別荘の方が、誰にも見つからず逢瀬に向いている』と誘導してください」


 イバンは少し考え、それからゆっくりとうなずいた。


「できます」


「それと」


 オーエンは声色を変えずに続ける。


「狩った後は、大々的に報道していただきたい」


 今度こそリュシエンヌが息を呑んだ。イバンは数秒黙り、そして目を見開いた。


「……それ、宵闇の情報を俺だけが握れるってことですか」


「そうなります」


 超大スクープだ。記者なら、その価値は骨まで染みてわかる。しかも被害者は勇者で、さらに謎の裏組織について他の新聞社よりも詳細に記すことができる。普通なら上で握り潰されるかもしれないが、さすがに今回ばかりは事情が異なる。


「勇者の死は大きすぎて、もみ消しきれません」


 オーエンはそう言った。


「しかも、宵闇の名がすでに市井へ出始めている今、記事を潰しても勇者殺しの噂までは止められない。ならば先に記事にして話題を利用した方がかしこい、とは考えられませんか?」


 イバンは唇の端を上げた。


「……なるほど。さらに書き方次第で、勇者の死も宵闇の暗躍も、こっちの望む方向に印象を固められるということでもありますね」


「そういうことです」


「ますます面白い」


 イバンはもう完全に興奮していた。中央新聞社の空気に嫌気が差していた若い記者は今、初めて自分の書く言葉が本当に何かを動かす側になることを予感していたのだ。


「やります」


 イバンはすぐにそう答えた。


「勇者なんて、どうせ誰も内心では好いてない。表で持ち上げられてるだけなのだから、落ちる時にはちゃんと落としてやる」


 オーエンは穏やかに一礼した。


「心強い限りです」


 そのやり取りを聞きながら、リュシエンヌはますます自分の逃げ場がなくなっていくのを感じていた。でも同時に、不思議な高揚もあった。自分の一歩が、ただの逃げではなく、何かの始まりになる。怖いけど、なぜだろう、少しだけ嬉しい。


「では、手順を確認しましょう」


 オーエンは静かに言った。


「リュシエンヌ様は、今夜だけ勇者を誘惑し、王都外の貸し別荘へ誘導してください。」


「はい……」


「イバン様は、取り巻きへ情報を流し、館の周辺が危ないと勇者側に思わせてください。記事の下書きも今のうちに作っておくと良いでしょう」


「それはもう、頭の中で半分できてます」


「素晴らしいですね」


「記者ですから」


 オーエンは最後に、低く結んだ。


「今夜、勇者は落ちます」


 その言葉を聞いた時、店の奥から小さな物音がした。

 仮面の用心棒――ブラヒムが、すでに外套を羽織って立ち上がっていたのである。


 夜が始まる。そして、勇者はまだ、それが自分の最後の夜になることを知らなかった。


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