雨夜の来訪者
なぜ、宵闇というコードネームが漏れている。
異端審問局上級審問官ジェンナーロ・ガットゥーゾは、机上に広げた報告書へ視線を落としたまま、何度目かになるその疑問を胸の中で反芻していた。
南部第三教区で起きた神官殺し。私腹を肥やし、貧民から金を巻き上げ、妻まで食い物にしていた俗物が、己の血で己の罪状を壁に書かれたような有様で死んでいた。そこまではいい。ジェンナーロは、同じ教会に属する者であったとしても、不信心な者に対しては一切の同情を感じない。
問題はその現場に下手人と思われる者の署名として、「宵闇」という血文字が残されていたことだ。
その名は本来、異端審問局の中でもさらに限られた者しか知らない、便宜上の呼称にすぎなかった。記録には最低限しか残さず、局内の少数でのみ共有していたコードネームだったはず。それがなぜ、現場の壁へ堂々と書き残されている?
もし偶然だとして、宵闇が本当に自らその名を選んだのだとすれば、それはそれで不気味だ。まるでこちらの内側を覗き見たかのような一致だからだ。だがもっと嫌な可能性として挙げられるのは、内部情報の流出だった。
教会のかなり深いところまで入り込んでいることを前提に動かざるを得ない。そうすると、内部の容疑者の選別に際し聖域を設けることはできなくなる。
ジェンナーロは手元の人名一覧表へ視線を滑らせた。
形式上の容疑者候補群として、そこには異端審問局員、高位聖職者、教会騎士、出入りの王国官僚とその護衛役、侍女、執事、そして一部の特例的立場にある人物まで、機械的な基準で名前が並んでいる。
その中に、ヒトミ・フジノミヤの名前も載っていた。ジェンナーロは、ふと聖女の氏名の上に指を置いたまましばらく動かなかった。無論、聖女が本命とまでは思っていないが、形式上はもう外せない。聖女を捜査対象になどしたことが上にバレたらただでは済まないだろう。
「……厄介だな」
ジェンナーロは低く呟いた。それはまだ見ぬ宵闇の奥底にいる何者かに向けられた言葉だったはずだ。しかし、ジェンナーロの『チェイサー』は、図らずも真実の一端を宿主に示唆しようとしていたのである。この時のジェンナーロはそれに気づくことなく、定例の異端審問局全体捜査会議に出席するため、名簿を机の引き出しにしまって部屋を退室して行った。
*
その頃、聖女の部屋では、まったく緊張感のない空気が流れていた。
「ナビル、少しそのままでお願いします」
「……はい」
部屋の中央に立たされたナビル・ユーラッハは、もはや慣れてしまったた聖女とのひと時を過ごしている。最初の頃はかなり困惑していたし、聖女が自分をじっと見つめたかと思うと無言で視線をずらし、何かを考え込むその時間がかなり落ち着かなかった。だが今のナビルは知っている。この時間、聖女の頭の中では、自分に関する何かとんでもなく細かい計画が組まれているのだと。
富士宮ひとみは、静かな顔でナビルを見つめながら、内心では完全に廃人ゲーマーの育成会議を開催していた。
今のナビル、方向性はこれで正解
中距離制圧ガンナー路線ってことで、まったくブレなくていい
スナイパーじゃないんだよな、この子は
鉄火場の真ん中で冷静に立ち回ってるタイプなのよね
《鑑定眼・宵》で見えるスキルツリーは、円柱状の立体情報として視界に広がっていた。ナビルの成長はかなり順調で、エイムアシストなどのスキルとパーティ内での役割が見事に噛み合っている。単身での制圧も可能なのに、本領発揮は支援射撃であり、さらにデバフをかけることもできるのだから、中衛として嫌らしいことこの上ない。
ただし、火力が少し足りないという問題があった。継戦能力は高いものの、相手が少し硬くなると決定打に欠ける傾向が見え隠れしている。今後の格上戦を考えると、この懸念は確実に埋めておきたかった。
富士宮は、視界の中のスキルツリーを丹念に追った結果、現実的な獲得スキル候補を3つに絞った。
まず一つ目は『アーマーピアス』、銃弾の貫通力を高めるスキルで、盾や軽装甲越しでもダメージを通しやすくする効果がある。
二つ目は『ハイスピードバレット』、弾丸速度を底上げするスキルであり、銃弾の威力も増す上に、敵への到達時間が短くなるため移動目標への命中率も上がる。
三つ目は『アドバンスドマガジン』、より高位の銃弾・特殊弾・処理難度の高い弾種の運用を可能にするスキルで、将来的には対魔物弾・状態異常弾・属性弾のバリエーションを増やしていくことでさらに戦闘の幅が広がることになる。火力の補填だけではない、将来性のある良スキルと言える。
うわ〜、全部欲しいわ〜
嫌らしい中衛がさらに嫌らしくなる
獲得条件を確認すると、初級ジョブであるガンナーでの獲得難易度は中程度のようであり、その具体的な条件は、「銃での攻撃だけで倒した敵の累計数が100体以上」であること、だった。例えばイニゴが敵のHPを削って、最後だけナビルが撃った、とかでは駄目だということだ。
富士宮はそこで、即座に結論を出した。
またゴブリン退治行こう
獲得条件、結構シンプルで良き
経験値も稼げるし、ナビルの撃破数も伸ばせるし、ハリーやアントニオとの連携も高められるし
おまけに外に出れば拾える人材が増える可能性もあるから、良いことしかない
「ナビル、今後しばらくは銃だけで仕留める数を意識してください」
「銃だけで、ですか」
「はい、その方があなたは伸びます」
「……承知しました」
ほんと真面目な子
ほんと偉い
だから好き
富士宮は表情を変えないまま、内心でだけ大満足していた。
*
その夜、王都では激しい雨が降っていた。
王都南部の人気の少ない路地裏を、ひとりの少女が走っていた。黒髪黒瞳で、年の頃は十代半ばくらいの美しい少女だ。息は乱れ、肩で呼吸をしている。薄い麻布製の衣服は降り続く雨で体に張りつき、ズボンの裾は路面の泥水を吸ってすっかり重くなっていた。
少女は息を切らせて走りながらも、背後を振り返る。暗い路地の向こうから、大柄な男たちが三人、ずぶ濡れのまま全速力で追ってきている。傭兵くずれらしく、足音も怒鳴り声も、何の遠慮もないがさつさを感じさせる男たちだ。明らかに、金で雇われた荒事要員の匂いがした。
「待てやコラ!」
「無駄に走らせやがって!」
「大人しくしときゃ痛い目見ねえのによ!」
少女は唇を強く噛み締め、さらに走った。もうどこを曲がったのかもわからない。ただ、薄暗い通りの先に、見慣れない灯りが一つ見えた。
寂れた古い雑貨店だった。教会が慈善事業としてやっている、と噂に聞いたことがある店かもしれない。だがそんなことはどうでもいい。今は、扉と壁と灯りがあるだけで救いだった。
少女は駆け寄り、固く閉ざされた扉を懸命に叩いた。
「お願い、開けて……! 誰か……!」
時刻は深夜だから営業しているはずがないし、店員が寝泊まりしている保証もない。それでも少女は扉を叩かずにはいられなかった。無情にも背後からの足音が近づいてくる。あと路地1つ分の距離で音が聞こえる。もう終わる、そう思った瞬間、内側からかちゃりと鍵の音がした。
扉が開いて中から現れたのは、細身の男だった。
少女は一瞬、息を呑む。その細身の男が見慣れない仮面をつけていたからだ。黒曜石みたいな艶を持つ半仮面が、鼻梁から頬までを覆っている。見たことのない、不気味といえば不気味な立ち姿。だが――なぜか、それ以上深く考える気が起きなかった。
変だ
でも、今はそれを気にするより助かりたい
そう思わせる何かが、その仮面にはあった。
「……どうされました」
男は、落ち着いた低い声で少女に話しかけた。少女はうまく息を整えられないまま、必死に言葉を絞り出した。
「追われて、いて……助けて、ください……」
仮面の男は、少女の走ってきたであろう方向を見た。そこに、雨の中を走って追いかけてくる三人の傭兵を確認したらしい。傭兵を確認するその視線は妙に静かだった。
「事情は後で伺います」
男がそう言った直後、傭兵たちが店先の空間へなだれ込んできた。
「おい、そいつを渡せ」
「面倒かけるならお前も容赦しねえぞ」
「関係ねえなら引っ込んでろ」
しかし、仮面の男は少しも怯まない。
「そうですか」
それだけ発した次の瞬間、傭兵の一人が怒鳴りながら殴りかかった。そこから先は、少女にはよく見えなかった。
剣閃が三つ重なった。そうとしか言いようがない。男には大きな動きはなく、踏み込みも最小限にしか見えなかった。だが男が一歩引いたように見えた時には、三人の傭兵はすでに事切れて倒れていた。雨に濡れた石畳へ、ぐしゃりと不愉快な重い音を立てて三つの死体が崩れ落ちる。
少女は、口を開いたまま呆然と固まっていた。普通なら怖いと思うはずだったが、今の彼女には恐怖より先に安堵が来ていた。自分を追ってきた男たちが、もう立ち上がらないことがわかったからだ。
その時、店の奥からもう一人の男が現れた。二十代後半くらいで、地味だが整った服装と落ち着いた顔をしている。こちらは仮面をつけておらず、いかにも店主か帳簿係という雰囲気を醸し出している男だった。
彼は死体となった傭兵たちを軽く一瞥したあと、すぐに少女へ向き直った。
「まずは中へ入ってお休みください」
声音は柔らかく、雨音の中でも不思議とよく通る。
「その後で、お茶でも飲みながら事情を伺いましょう。場合によっては、我が主人へ助けを求めることもできます」
我が主人という言葉が少し引っかかったが、今はそれどころではない。
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
店主らしき男は微笑んだ。その向こうでは、仮面の男がすでに死体処理に移っていた。雨の中、無駄のない動きで剣を拭い、倒れた傭兵の腕を引いている。その手際の良さが逆に怖いと感じる。だが、少女は不思議と逃げようとは思わなかった。ここにいる方が安全だと、本能が言っていたからだ。
雑貨店の中へ入る直前、彼女は振り返って尋ねる。
「……あなた方のお名前を、伺っても」
店主の男はすぐに答えた。
「私はオーエン・ハーグです」
それから死体を片づけている仮面の男へ視線を向ける。
「そして彼は、ブラヒム・ディアス」
雨の夜に遭遇した仮面の用心棒と静かな店主を前に、少女はまだ自分がどんな場所へ転がり込んだのか、よくわかっていなかった。だがこの夜を境に、自分の運命は少しずつ別の方向へ動き始めるのだと心のどこかで感じていた。




