教皇と神の眼
侍女たちに囲まれて身支度を整えられているあいだ、富士宮ひとみは終始おとなしかった。
白い衣。薄い金糸の刺繍。肩にかかる布の重さ。髪を梳かす櫛の感触。どれも高級なのはわかるが、率直に言って動きにくい。
「聖女様、少しだけ腕を」
「……はい」
「まあ、なんてお美しい……」
「光が、まるで」
いや、ただ着せ替えられてるだけなんだけど。
そう思いはしたが、口には出さない。出したところで面倒になるだけだ。彼女の表情は相変わらず薄く、返事も最低限だったが、それがかえって侍女たちには“俗世に染まらぬ神秘性”として映るらしい。便利な解釈である。
部屋を出て、大聖堂の回廊を歩く。
高い天井。磨かれた石床。色硝子から落ちる淡い光。壁際に立つ聖職者たち。礼を取りながらも、視線の端でこちらを盗み見る者が多い。
聖女様。黒髪の。噂どおり。ほんとうに。
そんな小さな囁きが聞こえる。
ひとみは表面上、少しも気にしていないふうを装って歩いた。実際のところ、気にしていないわけではない。ただ、いちいち反応しても情報は増えない。それよりも目につくのは、護衛の配置や扉の数、柱の陰、廊下の見通し、窓の高さだった。
《タナトス》のせいか、自分でも嫌になるほどそういうものが気になる。
正面から来るなら三人まで。左右の回廊から挟むなら、あの柱の位置が使いやすい。ここは逃げるには向かない。音が響く。
我ながら、聖女らしさがない。
まあ、最初からなかったけれど。
やがて侍女が足を止め、大きな扉の前で深く頭を下げた。
「教皇猊下がお待ちです」
扉が開く。
中は謁見の間というより、格式の高い応接室のような空間だった。赤い絨毯、重厚な机、壁に掛けられた聖像。奥の高背の椅子に、一人の老人が座っている。
教皇。
ひとみは一目で、ああ、なるほど、と思った。
好々爺だ。
柔らかい笑み。ゆるやかな仕草。声を荒げたことなどなさそうな、穏やかな雰囲気。年を重ねた者らしい落ち着き。いかにも“善良な老人”という見た目をしている。
そして同時に、その目だけは違った。
笑っているのに、値踏みしている。
品定めではない。もっと実務的な、冷たい査定だ。この娘はどれだけ使えるか、どれだけ危ういか、どこまで手元に置けるか。そんな計算をしている目だった。
ひとみは内心だけでため息をつく。
優しそうな老人、ではない。
優しそうに見えることを知っている老人、だ。
「よく来てくださいました、聖女様」
教皇は椅子から立ち上がることなく、穏やかに言った。
「目覚めの報告を受け、胸を撫で下ろしました。お加減はいかがですかな」
「問題ありません」
短く返す。
すると教皇は満足げに目を細めた。たぶんこの程度の簡潔さも、勝手に聖女らしさへ変換してくれるのだろう。
「それは何より。では、改めてお尋ねしても?」
「何を」
「あなた様のお名前を」
少しだけ間が空いた。
富士宮ひとみ、ではいかにも日本人すぎる。とはいえ別の名前をでっちあげる必要もない気がした。ひとみはほんの一拍考えてから、言葉の調子だけ少しこの世界に寄せる。
「……ヒトミ・フジノミヤ」
「ヒトミ・フジノミヤ」
教皇はその音をゆっくり繰り返し、噛みしめるように頷いた。
「美しい名です」
社交辞令だろう。だが声音は柔らかく、嫌味はない。
ひとみは返答の代わりに、ほんのわずかに顎を引いた。
その時だった。
ふと、思いついた。
この老人を《鑑定眼・宵》で見たら、何が見えるのだろう。
好奇心に近いものだった。異世界に来てからの自分は、だいぶ順応が早いと思う。普通ならもっと動揺してもよさそうなのに、気がつくと新しいシステムの確認に意識が向いている。
試しに、くらいの気持ちで、ひとみは教皇へ視線を向けた。
半透明の表示が浮かぶ。
【現職:教皇】
【統率:C】
【武力:F】
【知力:C】
【精神:A】
【魅力:C】
【幸運:D】
へえ。
思わず感心した。
精神だけが突出している。あとは凡庸。知力も魅力も平凡より少し上程度。なのにこの地位にいる。
つまりこの老人は、単純に頭が切れるとか、人を惹きつけるとか、そういうタイプではない。もっと別の、折れなさや信念の維持や、あるいは己の役割を演じ続ける力でここまで来た人間だ。
そう結論づけた瞬間、教皇の目がすっと細くなった。
「……今、神の眼をお使いになりましたな」
ひとみは一瞬だけ黙った。
ばれた。
けれど、教皇の口ぶりは責めるものではなかった。むしろ確信と、少しの期待が混ざっている。
「神の眼?」
「ええ。歴代の聖女の中には、まれに眼にまつわる奇跡を授かる方がおられました。聖遺物の真贋を見抜き、呪いの痕跡を見つけ、穢れのありかを暴く。そうした御業を、我らは古くより神の眼と呼んでおります」
教皇はゆっくりと言う。
「そして眼の奇跡は、同じく神に仕える者なら、発動の気配だけはわかることがある」
そこでひとみは、電流が走るみたいに気づいた。
なるほど。
この世界では、“眼のスキル”自体は知られている。
でも、それは物の真偽や呪いを見る聖なる奇跡として認識されている。
つまり、人間の情報を見る用途は想定されていない。
思い返せば、スキル名も《鑑定眼》ではなく《鑑定眼・宵》だった。聖女らしい神々しさより、どこか影がある。正統な奇跡に見えて、その実、少しズレた性能なのだろう。
その推測を悟られないよう、ひとみは視線を教皇の手元へ滑らせた。
老いた手に握られている錫杖。
今度はそちらへ《鑑定眼・宵》を向ける。
【教皇錫杖】
【材質:聖銀・白樫】
【状態:中度消耗】
【付与:浄化/威圧】
【備考:先端部内側に微細な損傷、長期使用により芯材疲労あり】
ひとみは淡々と口を開いた。
「……その錫杖、古いですね。聖銀製。浄化の加護が残っています。けれど、先端の内側に細かい損傷があります。今すぐではありませんが、長く使うなら芯の補修が必要です」
教皇が固まった。
周囲の聖職者たちも息を呑む。
数秒の沈黙のあと、教皇はゆっくりと錫杖を見下ろし、そして破顔した。
「おお……素晴らしい。まさしく聖女の御技」
嬉しそうですらある。老人の目の奥にあった打算が、一段深く沈んだのをひとみは見た。
価値が確定したのだ。
黒髪であろうが何であろうが、この聖女は使える。少なくとも今この場で、教皇はそう判断した。
「ヒトミ・フジノミヤ。あなた様の再臨は、やはり神の御意志であった」
それからの流れは、やや強引だった。
「聖女再臨を祝う小さな会がございます。ぜひ、お顔をお見せいただきたい」
小さな会と聞いていたのに、案内された先はどう見ても小さくなかった。
高い天井の広間。磨き上げられた床。光る燭台。音楽。整然と並ぶ料理と酒。高位聖職者、貴族らしき男女、軍服姿の男、刺繍の多い長衣を纏った魔術師風の人物。どう考えても、重要人物の見本市である。
教皇は満面の笑みでひとみを連れていき、朗々と告げた。
「皆の者、聖女ヒトミ・フジノミヤ様である」
拍手が起きた。
ひとみは内心で思う。
マスコットだ。
完全にマスコット扱いだった。
だがここで逃げ出しても状況は悪くなるだけなので、ひとみは大人しく立っていた。返事は短く、笑顔も控えめ、動きも少なめ。しかし、その全てが良い方向へ誤読される。
「まあ……なんて静謐な」
「俗世の喧噪に動じておられぬ」
「神に近しい方は、やはり違う」
違わない。単に知らない人の多い場が苦手なだけだ。
だが便利なので否定しない。
挨拶に来る人々を、ひとみはさりげなく《鑑定眼・宵》で見ていく。
まず、教皇の隣に立つ将軍らしい男。
【現職:王国将軍】
【統率:A】
【武力:A】
【知力:C】
【精神:B】
【魅力:C】
【幸運:D】
わかりやすい。
見るからに軍人で、実際に軍人向けの数値をしている。
次に、細身で目つきの鋭い宮廷魔術師らしき女。
【現職:宮廷魔術師】
【統率:F】
【武力:F】
【知力:A】
【精神:A】
【魅力:D】
【幸運:C】
これも納得だ。知力と精神が高い。魔術師はこのあたりが要なのかもしれない。
さらに、笑顔のうまい若い貴族。
【現職:宮廷貴族】
【統率:D】
【武力:E】
【知力:C】
【精神:D】
【魅力:A】
【幸運:B】
社交向き。
ジョブとステータスは、やはり無関係ではないらしい。
騎士なら武力と精神。
魔術師なら知力と精神。
貴族なら魅力と幸運。
そういう基本形が存在するのかもしれない。
その推測に至った瞬間、ひとみの脳裏に懐かしい感覚がよみがえった。
ステータス。ジョブ。適性。
前の世界で、彼女はそういうものに異様に強かった。
総合病院の臨床心理士。黒髪で、愛想が薄くて、やさぐれ気味。周囲から見える富士宮ひとみはそれだけだ。だが、その内側には誰にも知られていない顔がある。
重度のシミュレーションゲームオタク。
とくに、ランダム生成された人材を発掘し、育成し、配置し、組織や国家を強くしていくオンラインゲーム――『ルナアリス』。
彼女はそのゲームに人生をだいぶ持っていかれていた。仕事が終わればログインし、休日は育成ルートの検証に消え、個体値の偏りと隠れ適性について何時間でも語れた。世界ランキングトップ10に入ったこともある。廃人である。
もちろん、そんなことは職場の誰にも言っていない。言えるわけがない。
でも、今この場の光景は、その記憶を強く刺激した。
ジョブがあって、ステータスがあって、見た目と中身が一致しない個体がいる。しかもそれを実際に“見られる”。
……ちょっと、似すぎじゃない?
ひとみは表情ひとつ変えずにグラスへ口をつけた。中身は薄い果実酒だった。
まだ確信はない。今見えているのは基本ステータスだけだ。潜在能力や取得可能ジョブみたいな核心部分までは見えない。けれど、感触がある。
リアル版ルナアリス。
そんな馬鹿みたいな発想が、頭の中で小さく形を取り始める。
そして、その考えは、ひとみの心拍を少しだけ上げた。
面白いかもしれない。
パーティはそのまま続いた。
高位聖職者が丁寧に言葉をかけてくる。貴族の婦人が遠慮がちにほほえむ。将軍がぎこちなく頭を下げる。ひとみは必要最小限で応じる。そのたびに勝手に神秘性が増していくのだから、いっそ楽だった。
そんな終盤。
ふいに、背筋が冷えた。
ぞわ、と皮膚の裏を撫でるような感覚。
《タナトス》が反応していた。
殺意。
間違いない。誰かが、自分に向けて明確な敵意を持っている。
ひとみはグラスを置く手を止めない。視線も動かさない。聖女として静かに立ったまま、意識だけを研ぎ澄ます。
どこから。
誰だ。
近い。広間の中か、それとも入口側か。視線ではなく、もっと曖昧な気配として感じる。だが、特定まではできない。レベル1の《タナトス》では、危険の存在を察知するのが精一杯らしい。
なるほど。
歓迎ムード一色じゃないのは知っていたけど、早い。
ひとみは内心でだけ呟いた。
その殺意は長く続かず、気づけば薄れていた。相手が撤回したのか、隠したのか、それとも機会を見送ったのかはわからない。
いずれにしても、この場所はチュートリアルのくせに治安が悪い。
ようやく祝宴が終わり、専用の自室に戻った時には、ひとみもさすがに少し疲れていた。
重い衣を脱ぎ、寝台の端に腰を下ろす。
今日は情報が多すぎた。
教皇は使えるものを見逃さない。
《鑑定眼・宵》は聖女の奇跡として誤認されている。
人を見る用途は知られていない。
ジョブとステータスには相関がある。
そして、もう自分に殺意を向けている相手がいる。
ひとみは組んだ指に顎を乗せ、しばらく考えた。
この世界で生きるには、能力を隠しながら、ルールを把握していくしかない。何が見えて、何が見えないのか。誰が使えて、誰が危ないのか。教会は味方なのか、それとも一時的な保護者に過ぎないのか。
やることは多い。
でも、最初にやるべきことは、意外と単純だった。
人を見ること。
明日、教会の中を見て回ろう。
聖職者、侍女、騎士、雑役、誰でもいい。基本情報だけでも数が増えれば、この世界のジョブ体系や数値感覚が読めてくるかもしれない。
いきなり本番へ行くのは悪手だ。
まずは安全圏でシステム理解。
初期拠点の把握。
チュートリアルでできることを試す。
思考がそこまで進んだところで、ひとみは自分が完全にゲーマーの発想へ切り替わっていることに気づいた。
まあ、仕方ない。
異世界で聖女になったのに最初に考えることがチュートリアルの最適攻略というのはどうかと思うが、少なくとも自分にはしっくりくる。
ひとみは寝台にもぐり込み、天井を見上げた。
見知らぬ石の天井。知らない神。知らない国。知らない敵。
それでも、ほんの少しだけ高揚している自分がいる。
怖くないわけではない。
でも、システムがあるなら読める。
読めるなら、勝ち筋はある。
「……まずは、教会の中から」
誰に聞かせるでもなく呟く。
そして、最後に心の中でだけ付け足した。
――チュートリアル開始、ね。




