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聖女召喚

 総合病院・児童発達外来の午後は、見た目は静かに見えて、実際にはざわめきで満ちている。


 廊下を行き交う看護師の足音。遠くで鳴る会計のコール音。プリンターが紙を吐き出す音。誰かが小声で交わす申し送り。子どもが泣くほどではないけれど不満そうに喉を鳴らす声。そういうものが、総合病院の空気を薄くざわつかせていた。


 富士宮ひとみは、そのざわめきの中で、発達検査に使った道具を淡々と片づけていた。


「今日はよく頑張りました。疲れたよね」


 目の前の男の子にそう言う声は、仕事用の少しだけ柔らかいものだ。母親もほっとしたように頭を下げる。


「ありがとうございました」


「いえ。所見は先生に回しますので、診察の時に詳しい説明があると思います」


 相手から見れば、富士宮ひとみは落ち着いた臨床心理士だろう。少し冷たく見えるかもしれないが、必要なことはきちんと言うし、子どもの反応もよく見ている。


 検査用具を箱へ戻し、記録用紙を重ねる。保護者と子どもを見送り、ドアが閉まったところで、ひとみはほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 今日の検査の子は、まだやりやすい方だった。指示は比較的通る。視線の切り替えもそこそこある。こだわりは強めだが、完全にこちらを拒絶するわけではない。保護者の緊張が子どもに移っていたから、そこも所見に入れた方がいい。今日は来ていないが、双子の兄の影響もあるようだ。


 そう考えながら、机の前に座る。


 医師宛ての所見を書くため、パソコンを開いた。画面が立ち上がるまでの数秒、ひとみは机の端に置いた検査シートへ目をやる。


 丸、線、図形、人のイラスト。


 見慣れたはずのそれが、ふいに、ぐるりと回った。


「……は?」


 声には出たが、かなり小さい。誰にも聞こえない程度だった。


 疲れかと思った。寝不足ではない。昼も食べた。低血糖ではないはずだ。座っているから立ちくらみでもない。片頭痛の前兆にしては、今までこういう見え方をしたことがない。


 もう一度、図形が回る。


 紙の上の印刷が回っているのではない。視界の側が歪んで、世界の方が回転しているようだった。蛍光灯の白さがにじみ、画面の文字が引き延ばされる。遠くの音が、急に水の底へ沈んだみたいに遠くなる。


 まずいな、と思ったところで、ひとみの意識はふっと暗く落ちた。


 次に目を開けたとき、そこにあったのは病院の白い天井ではなかった。


 高い天井だった。石造りで、細かい装飾が入っている。見たことのない文様だ。窓から射し込む光は色がついていて、白いシーツの上に青や赤の影を落としている。空気は少し冷えていて、消毒液ではなく、香の匂いがした。


 ひとみはしばらく瞬きをした。


 夢にしては感触がある。シーツの重さも、枕の硬さも、匂いも、妙に鮮明だった。


 上体を起こそうとしたところで、周囲に控えていた人影が一斉にざわめいた。


 白に近い法衣を着た女たち。濃い色の長衣をまとった男たち。その中のひとり、年嵩の男が息を呑んだように前へ出て、深々と頭を垂れる。


「おお……お目覚めになられましたか。黒髪の聖女よ」


 ひとみは数秒、無言で男を見た。


 内心では、かなり率直な感想が浮かんでいた。


 何それ。


 だが表情にはほとんど出さない。元からそういう顔立ちだ。冷たい目だとか、近寄りがたいだとか、言われ慣れている。


「……ここは?」


 低い声で訊ねると、周囲はさらにざわついた。怯えたのではなく、むしろ神秘的な何かと受け取ったらしい。面倒だな、とひとみは思う。


 年嵩の男が顔を上げる。


「中央大聖堂の聖女の間にございます。あなた様は召喚の儀により、この地へお越しになられました」


「召喚」


「はい。神託により、世界を救う聖女として」


 ひとみは黙って自分の手を見た。


 指が細い。肌の張りが違う。手首も軽い。寝台から足を下ろした時の重心の位置まで、普段とずれている。


 近くに置かれた銀の盆に水が張ってあり、それを鏡代わりに覗き込む。


 そこに映った顔は、確かに自分だった。だが、病院で毎朝見ていた二十九歳の自分ではない。もっと若い。十九歳くらい。輪郭に余分な疲れがなく、目元の乾きも薄い。


 十九。


 ずいぶん思い切った設定だな、とひとみは思った。


 口に出す代わりに、鏡代わりの水面から視線を上げる。


「……私の髪が黒いことに、何か意味があるんですか」


 その質問に、部屋の空気が少し揺れた。


「歴代の聖女は、みな黄金の髪をお持ちでした。ですが、あなた様は黒髪……。神が新たな徴を与えたのだと、我らは受け止めております」


 受け止めております、の一言の裏に、全員がそう思っているわけではない、という気配が透けて見えた。


 歓迎一色ではないらしい。


 まあそうだろう、とひとみは冷静に思う。前例のないものは、たいてい面倒の種だ。


「……そうですか」


 その一言だけ返すと、周囲はまた感心したような顔になった。落ち着いている、「神々しい」、「器が違う」、そのへんの都合のいい解釈をしていそうだ。


 違う。ただ状況確認を優先しているだけだ。


 しばらくして、医者めいた年配の女と、侍女らしい若い女が近づいてきて、休息が必要だと穏やかに告げた。ひとみは抵抗しなかった。ここで騒いでも情報は増えない。


 私室らしい場所へ移され、ようやく一人になる。


 石造りの壁。重い扉。格子のない高窓。水差し。燭台。厚手のカーテン。寝台の脇の小卓。ひとみの目は、ほとんど無意識に部屋の情報を拾っていた。


 扉の蝶番は内側。窓は細いが、人が抜けられないほどではない。カーテンの布は厚く身を守る盾になる。燭台は武器になる。水差しは金属ではなく陶器。割れば音が出る。小卓の脚は軽い。床は磨かれているが、入口付近だけわずかに摩耗が強い。人の出入りは多い。


 そこまで考えて、ひとみは小さく眉を寄せた。


 前からこういうのは見えていた。人の家に入れば、どこに何が隠してあるか、なんとなくわかった。死角もわかった。足音が響く場所も、床がきしむ場所も、感覚で把握できた。


 でも、今はそれが以前より鮮明だった。ほとんど整理された情報みたいに頭へ入ってくる。


 その時だった。


 視界の端に、薄い光の板のようなものがふっと浮かんだ。


「……え」


 今度はちゃんと声に出た。


 半透明の板の上に表示される文字列。どこかゲームめいていると感じる。見たことのない字のはずなのに、意味だけは自然にわかった。


【富士宮ひとみ】

【年齢:19】

【称号:黒髪の聖女】

【ユニークスキル:《タナトス》Lv1】

【ユニークスキル:《鑑定眼・宵》Lv1】


 ひとみはしばらくその表示を見つめた。


 表情は相変わらず薄い。誰かが見ていたら、驚いているのかどうかもわからなかっただろう。


 だが、内心ではかなり来ていた。


 ……本当に出るんだ、こういうの。


 まず目に入ったのは《タナトス》だ。名前からしてド直球な死神だ。穏やかははずがない。


 意識を向けると、追加の説明が浮かぶ。


【死角把握/気配希薄化/侵入補正/殺害効率最適化】

【現在レベルでは現実世界の一流暗殺者相当の補正を付与】


「物騒」


 ひとみはぽつりと呟いた。


 でも説明を読んで、妙に納得もした。前の世界で自分が持っていた、あまり人に言えない感覚。侵入しやすい場所、隠し場所、痕跡の消し方、穴を掘る場所の感知、そしてどこを壊せば人が死ぬか。ああいう嫌な得意さに、ちゃんと名称がついていたわけだ。


《タナトス》。


 似合っていると言われたら、否定はしづらい。


 続いて《鑑定眼・宵》へ意識を向ける。


【対象の情報解析】

【アイテム・現象・人物の基礎情報を可視化】

【成長に応じて閲覧範囲拡張】


 ひとみは試しに、部屋の水差しへ視線を向けた。


 すると表示が切り替わる。


【水差し】

【材質:白陶】

【状態:良好】

【用途:飲用水の保存】


「……へえ」


 今度は燭台を見る。


【燭台】

【材質:真鍮】

【状態:軽度の蝋付着】


 ベッド。カーテン。小卓。鍵。見るものごとに、簡潔な情報が浮かぶ。


 ゲームっぽい。


 思った瞬間、胸の奥がほんの少しだけ熱を持った。


 もちろん、顔には出さない。こういう時に妙にテンションが上がるタイプだと知られたくはないから隠してきた。今ではめったなことでは顔に出さないことができる。


 ひとみは最後に、鏡代わりの水面に映る自分を見た。


【富士宮ひとみ】

【年齢:19】

【称号:黒髪の聖女】

【ユニークスキル:《タナトス》Lv1】

【ユニークスキル:《鑑定眼・宵》Lv1】


 自分の情報を見ながら、彼女は静かに息を吐く。


 黒髪の聖女。異世界。レベル。スキル。


 いくらなんでも急展開がすぎる。けれど、完全に嫌ではなかった。むしろ、少しだけ、ほんの少しだけだが、気持ちが上向いている自覚がある。


 仕事中に倒れて、目が覚めたら異世界で十九歳の聖女。普通ならもっと取り乱していい状況だ。


 でも、取り乱すより先に思った。


 少なくとも、退屈はしなさそう、と。


 そして次に、ひとみは冷静に判断する。


《タナトス》は絶対に隠す。説明する価値がないどころか、知られた瞬間に面倒が増える。

《鑑定眼・宵》も、どこまで見えるのか不用意に言うべきではない。最初は、せいぜい、物の状態が少しわかる程度に見せておくのが無難だろう。


 情報は武器だ。最初に全部見せるのは悪手。


 まずは観察。相手が何を欲し、何を恐れ、どこまで信用できるかを測る。


 それは前の世界で、子どもと保護者と医師のあいだをつなぐ時にもやっていたことだった。対象が異世界の聖職者になったところで、基本は変わらない。


「……まずは黙って見よう」


 その独り言が終わるのとほぼ同時に、扉の外から控えめな声がした。


「聖女様。お加減がよろしければ、教皇猊下がお会いになりたいと」


 ひとみは扉の方へ顔を向ける。


 低い声音で答えた。


「わかりました。支度をお願いします」


 外からは安堵したような気配が返る。


 部屋に再び静けさが落ちた。けれど、ひとみの視界の隅にはまだ薄く、二つのスキル名が残っている。


《タナトス》

《鑑定眼・宵》


 その文字を見つめながら、富士宮ひとみはほんのわずかに口元を動かした。笑ったとまでは言えない程度の、ほとんど気づかれない変化だった。


 表から見れば、黒髪の聖女は相変わらず静かで、冷たくて、何を考えているのかわからない。


 でも内心では、確かに思っていた。


 ――面白くなってきた。


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