この人に仕えると決めた日
オーエン・ハーグは、幼い頃から「優秀だ」と言われて育った。
文字を覚えるのは早かったし、数字にも強かった。人が何を言い淀み、何を隠し、何を言わずに済ませたがっているのかを読むのも、なぜか自然にできた。大人たちはそれを見て、将来有望な文官になるだろうと笑った。教師は褒め、親は満足し、本人もその期待を無下にするほど捻くれてはいなかった。
だから、たくさん勉強した。与えられた知識をちゃんと覚えた。そして、試験でも結果を出した。だが、今になって振り返ると、自分の心が本当に惹かれていたものは、ずっと別のところにあったのだと思う。
たとえば子ども同士の悪戯の責任を、誰へどう押しつければ最小の被害で済むか。たとえばいじめっ子に没収された品を、どの取り巻きに話を通せば取り返せるか。たとえば喧嘩した連中のどちらにどう落とし前をつけさせれば、先生にも保護者にもばれずに収まるか。そういう、少し仄暗く、少し卑怯で、しかし確実に現実を回しているものごとの調整に、オーエンは妙な高揚感を覚えていた。
反社会的な思想を持っていたわけではないと、はっきり言える。誰かを破滅させたいわけではなかったし、秩序を嫌っていたわけでもなかった。むしろ、乱れたものがきれいに並び替わる感覚は心地よいとすら思っていたので、秩序ある状態は好きだった。ただ、その秩序の作り方が、最初から少し裏側に寄っていたのだ。
十代の頃、それを決定的に自覚した出来事があった。悪友が、薬物の売買に手を出したのだ。
悪友にとって、それは最初は本当に軽い遊びの延長だったと思う。少量を右から左へ流し、儲けを酒と女に消す、そんな浅はかな若者の背伸びの末の所業だった。オーエン自身は、その手のものに興味はなかったし、使いたいとも売りたいとも思っていなかった。もちろん、倫理的に駄目だという感覚も持ち合わせていた。
ただ、その悪友が「ちょっと帳簿を見てくれないか」と頼ってきた時、彼は気まぐれに手伝ってしまった。帳簿を見た瞬間、オーエンは奇妙な感覚に襲われた。世界が急に静かになり、やるべきことが、考えるより先に見えてくる。誰をどこへどのタイミングで置けば、どの情報を誰から誰に渡せば、どの顧客を切ってどの顧客を残せば、全体がいちばん滑らかに回るかが、一瞬でわかる。
薬物の在庫管理、売人の受け渡し場所の選別、大規模取引の際の見張りの最適配置、金を受け取ってから洗浄するまでの流れ、どの売人が口が軽くどの売人なら多少多めに持たせても抜かないか、どこで摘発されやすく、どこなら一度泳がせられるか、その全てが教えられてもいないのに、自分の内から自然と溢れ出して来る。
ああ、これが天職だ
と、その時思った。そのあまりに自然な直感は怖いほど自然で、そして怖いほど甘美だった。
だが、その直感に酔いきる前に、理性が「ダメだ」と割って入る。向いているからといって、進んでいい道ではない。これを「自分の才能だ」と受け入れた瞬間、自分はきっと、戻れないところへ行く。
だからオーエンは、悪友との関わりをそこできっぱりと断ち、勉学の世界へ戻った。まっとうな試験を受け、大学進学というまっとうな階段を上り、王国中央官僚まで成り上がった。教師や親、周囲の期待には、ちゃんと応えたはずだった。これでいい、これが幸せだ、と何度も自分に言い聞かせた。
それなのに、その先は地獄だった。
官僚としての仕事は、ある程度どころか、かなりよくこなせた。帳簿の作成をしても乱れ一つない数字の列を作ることができた。組織の中で上司や貴族が望むことをすぐに察知し、適時適切な報告書を作成し続けた。管理能力にも優れており、人を適切な部署へ回すのもそれなり以上に上手かった。
だが、手応えがなかった。何ひとつ自分の中で噛み合わない。やっている仕事の意味は理解できるし、必要な仕事だということも、理屈ではわかる。だが、まるで分厚い布越しに世界へ触っているような感覚が最後まで消えなかった。
最低限以上の成果は出せるし、褒められることもある。出世の見込みも十分にあった。なのに、自分が何かをしている気がしない。朝に出勤し、書類を捌き、人を動かし、根回しをし、夜に帰る。その全部が、借り物の人生みたいに感じられた。
自分は官僚として仕事ができるが、たぶん向いてはいない。それを毎日確認しながら生きるのは、思っていた以上にきつかった。そして、やがて耐えきれなくなった。
劇的に辞表を叩きつけるような勇気はなかったので、追い出されるように仕向けた。露骨な失態は犯さないが、確実に評価だけが削れていく失敗を選ぶようになった。そんな後ろ向きの作業さえ妙にうまかったことに、暗い失笑を禁じ得なかった。
来月には退職を言い渡されると予感した時、オーエンは初めて少し息がしやすくなった気がした。退職した後は、裏社会の事務でもやろうと思っていた。娼館の帳簿係、賭場の資金管理、密輸のルート整理、探せばどんな仕事でもあるだろう。そういうものの方が、たぶん自分には向いていると思った。それは堕落ではなく、むしろ正しい場所へ戻る感覚に近かった。
そんな折だった。黒髪の聖女が、官僚街を視察に来るという話が持ち上がったのは。
同僚たちは揃って案内役を嫌がった。黒髪の聖女は、一部では悪魔の使徒だとまで噂されている女だった。最近の魔族討伐だの何だのも、誇張ではないかと囁かれている。聖女という看板はあっても、どこか不吉で、できれば近寄りたくない存在というのが官僚街の一般的な認識だった。
だが、オーエンはその噂をなぜかあまり気にしなかった。悪魔だろうが何だろうが、自分には関係がない、どうせ来月にはクビだ、今さら人事評価もどうでもいい。それに、少しだけ興味もあった。だから自然と自分が案内役になった。
実際に会ってみた黒髪の聖女は、噂とはだいぶ違った。悪魔的な要素は、少なくとも官僚街を歩く間には皆無だった。静かで、必要以上に偉ぶらず、話し方も整っている。黒髪と低い声が冷たい印象を与えることはあるが、それだけだ。
時々、彼女はふっと自分の思考へ沈むような時間を持った。話しかけても返事が遅れるわけではないのだが、一瞬だけ視線が別の場所を見る。
オーエンにはそれが、不気味には見えなかった。むしろ、好きな趣味へ没頭している若い女性の顔に見えた。
視察は驚くほど滑らかに進んだ。そうした導線を組むのは、彼にとって呼吸のようなものだったから。
視察の終わりが近づき、ようやくこの仕事も終わるかと思った時、聖女がふいに足を止めてオーエンに話しかけてきた。
「オーエン・ハーグ」
名を呼ばれ、オーエンは少し驚いた。ただの案内役の名前など、普通は記憶に残らない。だからというわけではないのだろうが、オーエンは足元が少し浮くような感覚がした。
「はい、聖女様」
「今のお仕事は、お好きですか」
質問は、あまりに唐突だった。官僚街の視察で、案内役の自分にそんなことを聞かれるとは思っていなかった。笑ってごまかす気にはなれない。たぶん、少し疲れているのだろう。
「好き、というほどではありません」
そう答えると、彼女は黙って待った。まるで続きを促す沈黙のようだった。
オーエンはほんの少しだけ本音を混ぜて続けた。
「来月には、ここを去る予定です」
「そうですか」
「はい。……おそらく、向いていなかったので」
そこまで言った時だった。
聖女の眼が、ほんのわずかに柔らいだ。
それは劇的な変化ではなく、誰も気づかない程度のほんの少しの変化だ。だがオーエンには、それが限りなく広い愛情と慈愛に見えた。なぜなのかは、自分でもよくわからない。同情でも憐れみでもない。もっと深いところで、理解されている感覚だった。
お前は壊れていない。ただ、置かれた場所が合っていないだけだ。
彼女の目は、そう言っているように見えた。
その瞬間、オーエンの胸の内で、長く澱んでいた何かがふっと軽くなった。同時に、もうひとつの確信が生まれる。この聖女は、自分と同じ種類の人間だ。善人とか悪人とか、天使とか悪魔とか、そういう表面的な分類ではない。世界へきれいには馴染めないくせに、表面上はちゃんと馴染んで見せられる人間。本当に向いている場所は別にあるのに、それを表へ出さずに生きている人間。説明はできないが、間違いないと思った。
「私のところで働きませんか」
聖女は静かに言った。
仕事内容は、貧民街にある雑貨店の店主だという。それを聞いた瞬間、オーエンは少しだけ可笑しくなった。中央官僚から雑貨店主とは、ひどい落差だ。
だが、不思議と屈辱はなく、むしろどこかしっくりきている自分がいた。
仕事内容は、正直どうでもよかった。店主でも帳簿係でも、雑用係でも何でもいい。重要なのは、この人が自分を見つけた、ということだ。
たとえ聖女が悪魔でも構わない。たとえ裏でどんなことをしていても構わない。この人だけは、自分の不遇感を理解してくれる。表の世界に馴染みきれなかった気持ち悪さを、説明せずとも知っている。そんな確信があった。だからオーエンは、迷わなかった。
「……喜んで、お受けします」
答えた時、胸の内にあったのは忠誠に近い何かだった。これから何を命じられるのか、オーエンにはまだわからない。雑貨店を本当に切り盛りするのかもしれないし、それ以外の何かがあるのかもしれない。だが、そんなことは些末だった。
この人に仕える、そう決めた。
私のこの命尽きるまで仕えよう。たとえその先にあるのが光でも闇でも、自分はこの人の言葉に従うだろう。
黒髪の聖女は静かに頷き、それだけで話を終えた。
官僚街の石畳へ、夕陽の光が落ちている。遠くでは、終業時刻を知らせる役所の鐘が宵に向かう王都の空に向かって鳴った。
オーエン・ハーグは、その音を聞きなが、ようやく自分の人生が始まるのかもしれない、と感じていた。




