猟犬の視線
教会の上級異端審問官ジェンナーロ・ガットゥーゾは、机の上に積み上がった報告書の束を、険しい顔で見つめていた。
ジェンナーロの執務室は広くない。異端審問局に属する上位聖職者の部屋としては十分な広さなのだろうが、少なくとも快適さを目的に作られた空間ではなかった。分厚い石壁の上、高い位置にひとつだけある細長い窓が妙な閉塞感を醸し出す。机、椅子、本棚、地図台は整然と揃えられているが、そこへ羊皮紙の束と、封蝋を割られた報告書、死者の名を記した台帳が加わると、部屋の空気は途端に重たくなる。
ジェンナーロはそういう空気を嫌わなかった。
彼は派手な男ではない。
身長は高いが、筋骨隆々というより、長年の実務で余分が削げ落ちたような体つきをしている。目立つのは、よく動く眼と、ものを嗅ぎ分ける獣じみた静けさだ。異端審問局の中では、表向きには「優秀な捜査官」、裏ではもっと単純に呼ばれていた。
「教会の猟犬」
一度、匂いを嗅いだら離さない。
そういう意味だ。
ジェンナーロ自身、その呼び名を好いてはいなかったが、否定する気もなかった。どう呼ばれようと、下手人を見つけ、白日の下へ引きずり出すことができるなら、それでいい。
だが今、目の前にある報告書の山は、彼にとっても無視できない種類の不快感をもたらしていた。
この二ヶ月で、教会関係者の死亡が相次いでいる。
最初の一件は、池から引き上げられた従士見習いの遺体だった。
貴族出身の若者で、その素行はあまり褒められたものではない。遺体発見時、財布や装飾品などの貴重品が紛失していたことから、教会の見解は比較的早くまとまった。外部からの侵入者による強盗、あるいはそれに準ずる不運な事件だと断定したのだ。その結果、教会側は敷地内の警備を強化し、夜間の見回りを増やし、池や外壁沿いの巡回経路を見直した。
珍しい事件ではないとは言わない。だが、特段、不審がるほどでもない。
大聖堂であろうと人は死ぬ。信仰が高ければ刃物が鈍るわけでも、水が人を呑み込まなくなるわけでもない。
ジェンナーロも、この時点ではそう考えていた。
次の一件が起きたのは、そのしばらく後だ。
再び大聖堂の敷地内で遺体が見つかった。
今度は、聖女を訪ねてきた元王国騎士の男。
この件に関しては、ジェンナーロ自ら遺体を見分している。
王国騎士と聞けば、たいていの人間はまず鎧の傷や剣だこを見る。だがジェンナーロは違う。彼は筋肉のつき方、重心の癖、肩の可動域、足裏の角質の位置、古傷の入り方を見る。
その男の身体は、騎士にしては妙だった。上半身は細い上に、無駄な肉が少ない。荷重の癖が、集団戦で押し合う歩兵のそれではない。古傷も、前から受けたものより、横や背後に回り込むような立ち位置でできたものが多い。
騎士というより、高位暗殺者。
ジェンナーロは、遺体の前でそう結論づけた。
だが、それもまた、絶対にありえない話ではない。
王侯貴族の争いは、いつだって人を騎士に偽装させる。
暗殺者が護衛の列に紛れ込むことも、刺客同士が鉢合わせて相討ちめいた死に方をすることも、ないわけではない。
だからこの時まで、ジェンナーロでさえも、最近は教会も物騒になったものだ、と思うに留めていた。
彼の本当の違和感は、直近の事件――元聖女マリア・ゴールドの殺害によって生じた。
発見場所は、王都の娼館内。
ジェンナーロ個人としては、そこに特別な感傷はなかった。
あの売女が
心の中では、そう呼んでいる。
前代の聖女であるマリア・ゴールドは、金髪碧眼で、清楚な顔立ちと柔らかな物腰を兼ね備えていて、表向きは申し分のない聖女だった。だが異端審問局では、彼女の実態は周知の事実だった。信仰より快楽、祈りより情欲、清らかさより己の魅力の運用を優先する不信心者である、と。勇者一行の名声に飛びついて教会を飛び出した時は、局内でせいせいしたという者も多かった。
その後、恥知らずにも聖女への復帰を願い出て、あげく娼館で惨殺された。
ジェンナーロ個人としては、むしろ清々しいとさえ思う。だが、それはあくまで個人の感情だ。組織人としての彼には、それとは別の計算がある。
元とはいえ聖女であり、しかも勇者一行に名を連ねていた女が殺された。それは王国にとっても、教会にとっても、雑に流していい事件ではない。下手人を挙げられなければ、異端審問局の面子は潰れる。教会そのものが、身内の管理すらできない組織だと見られる。
だから感情は捨てる。嫌悪も軽蔑も、仕事の役には立たない。
問題はただ一つ。犯人を見つけられるかどうかだ。
しかし、その調査が難航した。
マリア殺害の実行犯は、痕跡らしい痕跡をほとんど残していない。侵入経路も曖昧で雲を掴むようであり、なおかつ使用された毒も特定が難しい。現場に残った足跡は雑多なもので、娼館という場所柄、価値のある痕跡と無価値な痕跡の区別すら困難だった。
まるで、犯人だけが幻のように消えている。
普通なら、そこで一度、捜査は壁にぶつかる。あるいは別件として処理され、時間とともに埋もれていく。
だがジェンナーロは、報告書を閉じなかった。
むしろそこで、最初の二件を引っ張り出した。
大聖堂の池で見つかった従士見習い。
大聖堂内で殺された元王国騎士。
娼館内で殺された元聖女。
一見、別々に起きた三件。
場所も状況も、被害者の性質も違う。
それでも、どこかに共通点があるのではないか。
ジェンナーロはそう考えた。
彼のジョブは、密偵系統上級ジョブ【チェイサー】。追うこと、拾うこと、見落としを許さないことに特化した職だ。
しかも彼は、異端審問局有数の捜査官として、現場で死体を見続けてきた。
死体は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつだって生きている側だ。
ジェンナーロはその信条のもと、まず三件の遺体に関する細部を洗い直した。
池の従士見習いの遺体検分記録。
元王国騎士の遺体スケッチ。
マリアの損壊部位と、毒の推定侵入経路。
そしてスキル――死体解析を用いる。
それは派手なスキルではない。死体の周囲に光が舞ったり、過去の幻影が見えたりはしない。
ただ、傷の入り方、骨のひびの向き、刃の抜け方、筋繊維の断裂のしかた、そういうものが、異様なまでに読みやすくなる。
ジェンナーロは、何時間もそれに没頭した。
そして、ようやく一本の細い糸を掴む。
三件とも、同一人物によるものかもしれない。
確定ではない。だが、可能性は高い。
特に傷跡だ。よく見ると、どの傷もあまりに見事な斬撃によって作られている。切断や裂傷の入り方に躊躇がない。刃の侵入角がほぼ同じで、相手の急所へ到達するまでの線が奇妙なほど一定している。
ジェンナーロは、そこから犯人像を小柄な人物だと推定した。曖昧だが、何もないよりはましだ。
少なくとも、背の高い剣士が上から叩きつけるように切った傷ではない。刃が入る角度が低い上、無理のない手首の返し方から見ても、相手は重剣を振るう体格ではない。
会議でその推定を述べた時、異端審問局の空気は冷たかった。
「三件が同一犯? ただの可能性だ」
「教会内での強盗と、娼館の毒を使った暗殺を結びつけるには無理がある」
「最近のお前は勘に頼りすぎだ、ジェンナーロ」
誰もが慎重という名の保身を選ぶ、とジェンナーロは内心で独りごちた。
根拠が薄い、断定はできない、まだ線にはならない。その意見自体は、組織としては正しい。
だがジェンナーロは、黙って引き下がりながらも、心の中では一歩も譲っていなかった。
同一犯だ
その確信は、論理だけで生まれたものではない。
高位ジョブ、あるいは高レベルまで至ったスキルは、ときに論理を超えた直感を人に与えることがある。スキル説明に明記されるような効果ではない。ただ、経験と知識と身体感覚が蓄積された果てに、答えが先に胸へ落ちてくる。
今のジェンナーロが、まさにそれだった。
証明はまだ弱い。だが、自分の中では、もう揺らがない。
同一犯だとすれば、問題は別の次元へ跳ね上がる。
大聖堂敷地内で二件、その外で一件。しかも、いずれも手口は異様に完成度が高い。
従士見習いや、正体不明の暗殺者まがいだけなら、まだ上手い殺し屋で説明できたかもしれない。
だがマリア・ゴールドほどの大物を、あれほど躊躇なく、しかも痕跡をほとんど残さず始末できるものなのか。
未知の毒の生成技術も問題だった。しかも、ただ殺せばいいのではなく、現場の状況と室内環境まで読み切ったうえで使っている節がある。
これは、街の裏通りにいる雇われ半端者の仕事ではない。
王国の暗部――秘密諜報局。
その中でも、これほどの使い手は一人いるかいないか。
ジェンナーロはそう判断した。
そして、その推測が自分を少しだけ震えさせていることも、自覚していた。
相手は強大だ。死体の傷跡を詳細に見れば一目瞭然だった。
何より、刃筋に一切の迷いがない。
人を殺す時、人は少なからず躊躇する。
憎しみがあっても、技術があっても、相手が大きな存在であればあるほど、そこには揺らぎが出る。
だが、この犯人にはそれがない。
目の前にいる相手が従士見習いであろうと、暗殺者であろうと、元聖女であろうと、同じ手つきで喉を断てる。そういう冷たさが傷そのものに刻まれている。
戦慄した。だが、だからこそ放置はできない。猟犬の誇りと、教会の名誉にかけて。
ジェンナーロは、机の上の報告書をすべて脇へ寄せ、異端審問局の名簿を引き寄せた。
異端審問局の総意は得られない。ならば、自分の裁量で動ける範囲でやるだけだ。
呼ぶ相手は選ぶ必要がある。口が軽い者は駄目、実務に弱い者も駄目、功を焦る者・上に報告したがる者・妙な正義感で暴走する者も駄目だ。必要なのは、優秀で、口が固く、現場を踏める実力を持った少数精鋭。
ジェンナーロは異端審問局内でも特に信頼できる数名の名を書きつけた。彼らに、見えない暗殺者を追わせる。
だが、名無しのままでは扱いにくい。
対象に名を与えるのは、追跡の第一歩だ。
ジェンナーロは少し考えたあと、紙に一つの単語を書いた。
「宵闇」
黒でもなく、夜そのものでもない、人が最も油断する境目の暗さ。
気づいた時にはもう遅く、手を伸ばした時には、すでに喉元へ刃が来ている。
そういう種類の暗さだ。
彼らは、見えない暗殺者へそのコードネームを与えた。
――宵闇。
その名がついた瞬間、犯人はただの噂でもただの不運でもなく、追うべき獲物となった。
ジェンナーロは立ち上がり、窓際へ歩いた。
石壁の向こう、大聖堂の尖塔が、夕暮れの光を受けて赤く染まっている。
この教会のすぐそばに、あるいはもう内部に、それほどの暗殺者がいる。そう考えるだけで胃が冷えるような思いがした。
だが同時に、猟犬としての血が静かに沸く。追える、まだ追える、痕跡は薄いがゼロではない。
ジェンナーロ・ガットゥーゾは、獲物の輪郭がようやく見え始めたことを感じていた。
一方その頃、黒髪の聖女はまったく別のことを考えていた。
たとえば新しいスキルビルドの組み方、たとえば訓練の順番、たとえば勇者との面倒な一日をどうやって耐え抜くかといったような、そんなことだ。自分が、教会の猟犬に目をつけられていることなど、欠片も知らずに。
黒髪の聖女は、自身の知らぬところで、猟犬の捕獲対象として睨まれていた。




