死者を守る者①
富士宮の唇から「アルゴン」という名が零れ落ちた瞬間、頭の奥にかかっていた薄い膜が破れ、押し留められていた記憶が濁流のように流れ込んできた。
蘇ったのは、暗い外套をまとった死霊使いの姿や、幾度となく富士宮の軍勢を苦しめたアンデッドの編成だけではなかった。対戦を終えた深夜、互いに次の予定も忘れて交わしたチャットの文面や、普段は戦術のことしか語らないアルゴンが、珍しく自分の生い立ちについて打ち明けた夜のことまで、つい先ほど経験した出来事のような鮮明さを伴って蘇ってくる。
アルゴンは、前世ではインドの大学院で医学を学んでいると話していた。
富士宮は当時、海外の医学教育について詳しいわけではなかったため、医師の卵という肩書きに対して、頭がよくて忙しい人間なのだろうという程度の印象しか抱いていなかった。しかし、彼が語った内容は、富士宮が漠然と思い描いていた学生生活とは大きく異なっていた。
アルゴンが医療実習や支援活動のなかで接していたのは、貧困や社会的な身分格差のために、十分な治療を受けられない人々だった。生まれた家や属する共同体を理由に蔑まれ、抵抗することさえ許されないまま暴力を受けた者も多く、病院へ運ばれてきた時には、顔の形が変わるほど殴られていた者や、手足の一部を失っていた者、傷口から感染を起こして生死の境をさまよっていた者もいたという。
身分の低い人間を傷つけても罪には問われないと信じている者がいて、被害を訴えれば、さらに大きな報復を受ける地域さえあるのだと、アルゴンは淡々と書き込んでいた。その文章には感情を抑えようとする硬さがあったが、抑え込まれた怒りは、一つ一つの言葉の隙間から滲み出していた。
医学生であった彼は、傷を洗い、感染を防ぎ、裂けた皮膚を縫い合わせ、残された身体の機能を少しでも維持するために学んだ知識を使った。しかし、どれほど適切な処置を施しても、失われた指や腕が元へ戻ることはなく、砕かれた骨がつながったとしても、暴力を受ける前と同じ身体へ完全に戻れるわけではなかった。
治療を終えた被害者から、元の姿へ戻してほしいと泣きながら訴えられたことがあると、アルゴンは語っていた。
傷を治してほしいのではなく、傷つけられる前の自分を返してほしいという願いだった。鏡を見るたびに暴力を受けた日の記憶が蘇るため、この顔のまま生きていくことはできないと訴える者もいれば、失った手を見つめながら、自分はもう家族を養えないと呟き続ける者もいた。
肉体の治療が終わっても、心に残った傷まで塞がるわけではない。突然の物音に怯え、他人が手を上げただけで身体を縮め、夜になると暴行を受けた時の記憶に苦しむ者も多かった。医療によって命を救うことはできても、その者が奪われた尊厳や、暴力を受ける前の人生を返すことまではできない。
自分たちは医者になろうとしているのに、患者が本当に取り戻したいものには手が届かない。
アルゴンはそう書き込んだあと、しばらく返信を止めていた。
富士宮も、何を返せばよいのかわからなかった。軽々しく励ますことも、わかったふりをすることもできず、結局は長い沈黙のあとに、話してくれてありがとうとだけ返した覚えがある。
その夜、アルゴンはさらに、自分が『ルナアリス』でアンデッドだけを使う理由について語った。
ゲームに登場するアンデッドは、死者の身体へ負の魔力が宿った存在として描かれていた。腐り、欠け、歪んだ肉体を引きずりながら生者を襲い、その魂の奥には、二度と自分には戻らない生命への渇望と、当然のように生き続ける者たちへの恨みが刻まれている。
多くのプレーヤーにとって、アンデッドは不気味な怪物か、安価に増やせる使い捨ての兵士でしかなかった。火や聖属性に弱く、見た目も人気がなく、性能だけを求めるなら別の種族を使った方が効率的だと考えられていた。
けれどもアルゴンには、その設定が単なる怪物の背景には思えなかった。
元の身体へ戻りたいと願いながら、二度と戻れない現実を突きつけられた患者たちと、失われた生を求めながら永遠に死者であり続けるアンデッドの姿が、彼の中では重なっていた。
生者を憎んでいるのではなく、生者へ戻りたいからこそ憎まずにはいられないのだろうと、アルゴンは語っていた。欲しいものが永遠に手へ入らない苦しみが、怒りや呪いという形で表に出ているだけであり、誰かがその奥にある悲しみまで理解してやらなければ、彼らは永遠に醜い怪物として討伐され続ける。
だから自分は、アンデッドを守る者になりたいのだと、彼は言っていた。
道具として使い潰すのではなく、一体ずつ役割を与え、可能な限り生存させ、その弱点まで含めた戦術を組み上げる。生者にはなれない彼らが、それでも世界の頂点へ立てることを証明したいという願いが、アルゴンの戦い方の根底にはあった。
当時の富士宮は、そのこだわりを面白いと思いながらも、彼の感情のすべてを理解できていたわけではなかった。ゲームの設定へ現実の患者を重ねることには、少し危ういものさえ感じていた。
しかし、いま目の前にいるグールクイーンを見れば、その言葉の意味がわかる。
右腕を失い、顔の半分を抉られ、生者であった頃の美しさを無残な形で残しながら、それでも五百年にわたり診療所の前へ立ち続けた女王は、アルゴンにとって単なる高性能なユニットではなかった。
彼女にはエミリーという名前があった。
アルゴンは、この世界へ来てからもアンデッドを一括りの怪物として扱わず、それぞれに生前の名と、失われた人生がある存在として接していたのだろう。だからこそ、グールクイーンは致命傷を受けても逃げず、彼のいる診療所を守ろうとし続けた。
そしてアルゴンもまた、聖剣を向けられた彼女をただの配下として見捨てるのではなく、もう頑張らなくてよいと、あまりにも優しい声で呼び止めた。
人工の芝生と池、永遠に変化しない光、そして地上の公園を模した地下庭園も、いま思えば死者を欺くための悪趣味な装飾ではなかったのかもしれない。生者へ戻れないアンデッドたちへ、せめて生きていた頃に近い穏やかな風景を与えようとして、アルゴンが造った療養の場所だった可能性がある。
記憶が戻るほど、目の前の景色が別の意味を帯びていく。
死を拒絶した狂人の庭ではなく、死者であることから逃れられない者たちへ、失われた日常の代わりを与えようとした医師の庭。
それが救いになるのか、それとも残酷な慰めにすぎないのか、富士宮にはまだ判断できなかった。
ただ一つだけ確かなのは、姿の見えない診療所の主が、前世で知っていたアルゴンと同じ願いを抱き続けていたということだった。
医療では元へ戻せなかった者たちを前に、何度も無力さと怒りに震えていた医師の卵は、ゲームの中で死者を守る道を選び、気づいた時には、誰にも顧みられなかったアンデッドだけを率いて世界最強の一角へ上り詰めていた。
富士宮はグールクイーンを見つめたまま、蘇った記憶の重さを受け止めきれずにいた。




