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地下診療所の再会③

 ラウルの《アクセル・チャント》によって加速したヴィヴィアンは、グールクイーンが迎撃の爪を振り上げるより早く、その懐へ入り込んでいた。


 低く構えられていた聖剣が、踏み込みの勢いを余すことなく乗せて斜めに走り、黄ばんだ看護服の肩口から脇腹までを深々と切り裂く。白い光を帯びた刃が腐肉へ食い込んだ瞬間、地下庭園の静けさを引き裂くような甲高い絶叫が響き、傷口から噴き出した紫色の体液が芝生の上へ降り注いだ。


 浄化の力に焼かれたグールクイーンは大きくのけぞったものの、ジョブランクSまで成長した女王種は、それだけでは倒れなかった。失われていない左腕を振り回し、黒い爪でヴィヴィアンの顔を抉ろうとするが、動きは痛みと損傷によって明らかに鈍っている。


 ヴィヴィアンは爪を聖剣の腹で弾き、返す刃で首を断とうとした。今度の一撃が入れば、グールクイーンは再生の余地すら残さず、白い光の中で消滅するはずだった。


 その寸前、背後にある診療所が淡く光り始めた。


 地下庭園を照らしている人工灯のような、温度を感じさせない均一な白ではなかった。古びた窓の奥から漏れ出した光には、夕暮れの部屋で灯されたランプのような柔らかさがあり、この場所が死霊研究施設であることを一瞬だけ忘れさせるほど、人の暮らしに近い温もりを帯びていた。


「もういいよ、エミリー。もう、そんなに頑張らなくていいんだ」


 診療所の中から聞こえてきたのは、姿の見えない男の声だった。


 大声ではない。命令するような強さも、死者を操る術者らしい冷たさもなく、疲れ果てた者を静かに寝台へ導くような、穏やかな声音だった。


 その声を聞いた瞬間、富士宮の胸の奥で、何かが強く震えた。


 耳にした覚えなどないはずだった。この世界へ来てから出会った男たちの誰とも違い、前世においても、直接声を交わした相手ではなかった。それにもかかわらず、誰が話しているのかを考えるより早く、富士宮の直感が答えを突きつけていた。


 こいつを知っている


 いや、知っているどころではない。


 何度も戦い、何度もこちらの作戦を潰され、そのたびに新しい編成を組み直して挑み、最後まで完全な勝敗を決められなかった相手だった。画面越しにしか知らないはずなのに、戦闘の癖も、嫌がらせのように配置されたアンデッドの種類も、勝利を確信した時にあえて攻め急がず、相手が自滅するまで待つ慎重さも、富士宮の身体には敵意と興奮の入り混じった感覚として刻み込まれている。


 忘れていた記憶が、閉ざされていた扉を内側から蹴破るように蘇った。


 暗い外套をまとった死霊使いの姿と、その周囲を埋め尽くす骨兵たち。倒しても倒しても別の場所から現れるアンデッドと、前衛を足止めする毒霧。敵の数へ意識を向けさせておきながら、気づかないうちに後衛へ侵入している暗殺型の死者。レギオン戦の終盤でこちらの回復役だけを正確に潰し、富士宮を本気で苛立たせた、あの執拗な戦い方。


 そして、その軍勢の中央には、決まって一体のグールクイーンがいた。


 アルゴンが愛用していた女王種だった。


 単なる戦闘要員としてではなく、配下を生み出す拠点として育成され、毒と感染によって相手の動きを鈍らせながら、延々と下位アンデッドを補充する個体。正面から倒そうとすれば雑兵に阻まれ、雑兵を処理すれば次の軍勢が生まれるという悪循環を作り出す、アルゴンの戦術を象徴するようなユニットだった。


 どうして、忘れていた


 富士宮の背筋を、戦闘中の緊張とは別種の冷たさが走った。


 アルゴンは、前世における数少ない好敵手だった。自分が育てた個体や戦術へ正面から対抗し、富士宮に何度も本気の編成変更を強いた存在であり、ゲームに関する記憶の中でも、決して簡単に薄れるような相手ではない。


 それなのに、グールクイーンを目の前にして鑑定を行い、その能力を確認し、アルゴンが得意としていた戦術とほとんど同じ戦い方をされても、声を聞くまで彼の姿を思い出せなかった。


 以前にも、同じことがあった。


 単なる物忘れではない。


 前世の記憶すべてが曖昧なら、転生による影響だと納得できた。しかし、ゲームのシステムやジョブ、スキル、育成方法については細部まで覚えているのに、特定のプレーヤーや、その者と強く結びついた個体の記憶だけが欠け落ちている。


 誰かに消されたのか。それとも、この世界へ来た時点で、思い出してはいけないものとして封じられたのか。


 富士宮の思考が疑念へ沈み始めたところで、診療所の中の男が再び語りかけた。


「初めましてと言うべきか、それとも久しぶりと言うべきなのかな。まさか、こんな場所で君と会えるとは思わなかったよ、ひとみ」


 現在の聖女としての名ではなく、前世の名前を呼ばれた瞬間、残っていた疑念の余地が消えた。


 ヴィヴィアンもアントニオも、声の主を知らない。ナビルたちにとっても、診療所の奥にいる何者かは、ただ富士宮を知っている正体不明の存在でしかない。前世について明かすつもりのない富士宮は、本来ならば表情を変えず、知らないふりをするべきだった。


 しかし、蘇った記憶と、あり得ない再会への衝撃は、聖女として積み上げてきた冷静さを一瞬だけ上回った。


「……アルゴン」


 富士宮の唇から、その名がほとんど無意識に零れ落ちた。


 人工の光に照らされた地下庭園で、500年にわたり診療所を守り続けたグールクイーンが動きを止めるなか、忘れられていた好敵手の存在だけが、前世から現在へ伸びる一本の糸となって、富士宮の記憶を強く引き寄せていた。

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