サリーナ、目覚めて
引っ張られるように夢の世界へと落ちていたサリーナは、ゆらりとしたゆれを不思議に思った。
遠くで聞こえる柔らかい声、おでこを通る温もりに、ふわふわとした気持ちになる。
ゆっくりとゆっくりと、浮き上がっていくようだ。
「サリーナ」
そう、名前だ。
名前を呼ばれている。
サリーナよりは低いけれど、同世代に比べると少し高い声。
その声に名前を呼ばれると、嬉しくなる。
そうやって、サリーナの名前を呼んでくれる、人は。
「……ルシオ、様?」
ぼんやりとした記憶を辿って、サリーナはその名前を口にする。
薄暗い天井は、見覚えがない。
「大丈夫?」
「……え」
首を少しだけ横に動かした。
想像通り、ルシオがいる。
「体、起こせる?」
ルシオに支えられながら、言われるがままにのろのろと体を起こしたサリーナは、いまいち頭が働いていない。
今にもまた落ちてしまいそうな瞼を、何とか持ち上げる。
「起きたばかりでごめんね。これ、飲んで」
「はい……」
渡されたカップは、少し冷たい。
ルシオが手を貸してくれている中、サリーナはそのお茶を一口飲んだ。
体に冷たさが広がっていく。
「もう少し飲める?」
少しだけ心配そうなルシオの様子に、サリーナはお茶を飲んだ。
ほんのりとした甘さに、ほぅ、と息を吐く。
ルシオが相変わらずカップを支えてくれているので、もう少し飲んでおく。
こくこくと、水を飲むようにサリーナはお茶を飲み干した。
「触るからね」
ルシオはサリーナのおでこに手をあて、指先を首筋にあてる。
何をしているのだろうと思いつつも、サリーナは動かずにその流れを追った。
何だろう。
ぱちぱち、と瞬いていたサリーナは首を傾げた。
冷えたお茶を飲んだからか、思考がクリアになっていく。
先ほどまでは寝起きだからぼんやりとしていた気がするが、視界が情報として脳に届いていく。
目の前に、ルシオがいる。
「……ルシオ様?」
「うん」
「…………え、と。あの。え!?」
サリーナは小さく叫んで身を縮めた。
慌てて周囲を見渡す。
ここは、ルシオの部屋だ。
そうだ確か、お茶の試作をしていて、それで。
暗示の話になって、かけてもらった覚えがある。
そして今自分は、ルシオのベッドの上にいるのだ。
「やっ、あ。わ、私。私、す、すみません!」
自分が今、どこで何をしていたのかをやっと思い出したサリーナは、びくりと震えた。
顔が一瞬にして真っ赤になったものの、今度はすぐに真っ青になった。
ルシオのベッドで、すやすやと。
はしたないとか恥ずかしいとか言っていたくせに、思いっきりぐーすか眠っていたというのか。
「おおお、降ります、降りますから」
「え、何。落ち着いて、どうしたの?」
「申し訳ありません、こんな、図々しくも眠ってしまうなんて!」
恥ずかしいというよりも、恐ろしい。
いくらルシオがベッドで休むように言ったとしても、こんなに思いっきり眠ってしまうとは。
「すみません」
急いでベッドから降りなくては、とサリーナは上にかかっていた毛布をめくりあげる。
一刻も早く降りて、ベッドメイキングまでしなくては。
子爵令嬢ではあるが、どこぞで給仕の真似事もしたことのあるサリーナだ、大丈夫だ。
いや、魔法を使った方が確実だし、早いだろう。
これは学院で習う魔法なので、ルシオだって使用を認めてくれるはずだ、そうに違いない。
「え、サリーナ?」
驚いた様子のルシオの言葉も耳に入れず、サリーナは這い出した。
少しでも早くベッドから降りることで頭がいっぱいで、パニックである。
一方のルシオは、現状を理解するのに一瞬遅れてしまった。
「何?」
大慌てのサリーナは、毛布と一緒にスカートもずり上げたことに気付いていない。
際どすぎるところまでさらけ出していることを指摘もできず、目を反らすこともできず、ルシオは声をあげた。
「ちょっと落ち着いて」
「すみませんでした、本当に」
「そんなこといいから」
泣き出しそうなサリーナは、ただただベッドの上から一刻も早く降りたいらしく、ルシオの話を聞いていない。
酷く無防備な姿で、這うようにルシオの目の前を通り過ぎようとしている。
だが、慌てすぎて腕を毛布に引っかけて、ぺしゃりと沈んだ。
「す、すみません」
サリーナは必死に体を起こした。
もう、恥ずかしすぎて顔をあげられない。
慌てた挙句に醜態を晒すとは、信じられないにもほどがある。
すっかりと乱れた髪を、手で整える。
「嘘でしょ、何これ」
呆然と、ルシオは口を開いた。
ルシオにとって、サリーナがベッドの上にいようが寝ようが、全く問題ではない。
だが、この光景は大問題である。
スカートはめくれあがってしまっているし、顔は真っ赤で涙目だし、髪まで乱れている。
そんな状態で、いつまでも目前にいられたらたまらない。
ルシオは、ベッドについていたサリーナの腕を無理やり引き寄せた。
バランスを崩したサリーナを、そのまま押さえ込むように抱きしめる。
「いいから、落ち着いて」
低い声を出すと、腕の中のサリーナが震えた。
背中に手を回して、落ち着かせるように軽く叩く。
「大丈夫だから」
無理やりサリーナを引き込んだせいで、いつもなら肩口にある頭が、胸元にある。
後頭部から撫でて「大丈夫だよ」ともう一度言う。
ついでに、完全にめくれてしまったスカートも、手を払って戻しておいた。
どうしても視線が向いてしまうので、隠してしまう。
「……すみ、ません」
くぐもった声に、ルシオは小さく笑った。
髪の隙間から覗く耳は真っ赤だが、呼吸は落ち着いているようだ。
ただ、落ち着いたからといって、この状況を受け入れられるわけでもない。
「私、どれぐらい眠っていましたか?」
「えー、どれぐらいだろ。机の上を片付けて、お茶を入れ直して。それからだから、すぐじゃない?」
「そうですか……」
ルシオの胸元に顔をうずめたまま、ホッと息を吐く。
平然と嘘をつくルシオに気付かず、そこまで長い間、醜態を晒していたわけではないらしいと、サリーナは少しだけ肩の力を抜いた。
本当に、自分はいったい何をしているのだろう。
ルシオ一人に片づけをさせて、すやすや眠っていたなんて、信じたくない。
申し訳ない気持ちでいっぱいだというのに、ルシオはサリーナの心配をしてくれている。
「体、どう? 辛くない?」
「大丈夫、です」
もぞりと動くと、ルシオが少しだけ手を緩めてくれる。
体を起こすついでに、バランスを崩していたのでベッドの上に正座する。
スカートの端を引っ張った。
「ぼんやりするとかない? もうちょっと寝ててもいいよ」
「問題ありません、本当に」
これ以上は、考えたくない。
ベッドの脇に座っていたルシオが、体を捻る。
片足だけがベッドに乗るような形で、サリーナの頬に手を伸ばす。
「顔色も戻ったね」
「お気遣い、ありがとうございます……」
もしょもしょとした声になってしまうのは、許してほしい。
出来る限り、小さくなりたい。
「何でそんなに泣きそうになってるの? 俺が無理やり休ませたんだよ」
「そういう問題ではありません! ここ、こんな、人様のベッドで眠りこけるなど!」
人様どころではなく、婚約者のベッドである。
その事実に気づき、改めてサリーナは恥ずかしくてたまらなくなった。
ぎゅ、とスカートを握る。
「嫌だったの?」
「はは、恥ずかしいお姿を晒しました」
不思議そうに言うルシオが信じられない。
いつもサリーナの気持ちに敏感なのに、何故わからないのか。
ルシオは「うーん」と考えるように口を開く。
「でも。リミッターを外したのは、サリーナ自身でしょ?」
ぽつりと落ちた言葉に、サリーナは息を飲んだ。
ちらりと視線をあげると、ルシオがにっこりと笑った。
「リミッターを外すとね、それを処理するために脳がフル活動するんだ。体に負担がかかるからやりたくないって言ったのに、無理やりさせたのはサリーナだよ」
「そう、です、ね」
「休むって、約束もしたよね」
「しま、した」
「すとんと寝ちゃうぐらい、体に負担をかけたってことだよ。ちゃんとわかってる?」
ルシオは笑顔だし、口調だって柔らかいのに、空気がピリピリとしている気がする。
確かに、嫌がるルシオに無理を押し付けたのはサリーナである。
その結果、疲れて眠りこけてしまったのを「恥ずかしい」とグダグダ言うのは違うのだろう。
わかっている。
わかってはいるのだが、気持ちがついてこない。
「……すみません」
絞り出すような声に、ルシオがふっと力を抜いた。
スカートを握った手の上から、ルシオの手が重なる。
「わかっているのなら、次はやめてよ」
そろりと視線をあげると、ルシオの目が細くなった。
「もう、言わないで」
優しい眼差しに、サリーナは息を飲んだ。
目元が震えるのを見られないように、下を向いたまま「はい」と頷く。
ルシオは、本当に優しいと思う。
一言「二度とやらない」と言えばいいのに、サリーナに選択権をくれる。
ルシオの「言わないで」というのは、お願いでしかない。
あくまでも、サリーナ次第だというのか。
サリーナが無理を言えば、ルシオは嫌がりながらも手を貸してくれる。
もう一度、サリーナが同じように暗示をかけるように本気で願えば、嫌な顔をしながらも最終的には頷いてくれるのだろう。
「ルシオ様」
スカートを握っていた手の力を抜いて、重なった手を握る。
サリーナよりも少し体温の低いルシオの手だ。
「ありがとうございます」
真っ赤な顔も、少しだけ涙が浮かんでいる瞳も隠さずに、サリーナはルシオを見つめた。
迷惑をかけてしまったことも恥ずかしさもあるけれど、とにかく顔を見たいと思ってしまった。
「……どういたしまして」
柔らかく笑ったルシオは、繋いだままの手に力を込めた。
決して強くはないけれど、安心する手だ。
「俺こそ、ありがと」
「……え」
「お茶。形になったから」
サリーナは、反射的に机の上を見た。
綺麗に片付けられているからわからないけれど、本当だろうか。
「サリーナ、覚えてないんでしょ」
呆れ様子のルシオに、いたたまれない気持ちになる。
作ったのは自分なのに、霞がかかったようにぼんやりとしている。
ルシオの唇がわかりやすく尖った。
「次は、絶対にかけないからね。ホントに」
「……すみません」
ルシオの言葉に項垂れた。
どれだけ集中していたのだろう、記憶が戻ってこない。
しょんぼりとしていたサリーナの頭を、ルシオがぽんぽんと撫でるように叩いた。
そのまま頬へと降りた手で、サリーナの手を取った。
ひょいっとルシオが立ち上がる。
「立てる? ベッドから降りて、話そうか」
「は、はい」
そう言えば、ここはベッドの上だった。
あれだけ降りようと必死になっていたことを、すっかりと忘れていたサリーナは、もぞりと足を出す。
「ゆっくりでいいからね」
ルシオの言葉に頷きながら、立ち上がる。
ふらつきもない、大丈夫だ。
「ここ、座って。お茶を持ってくるから」
「ありがとうございます」
服を伸ばしながら、サリーナは椅子に腰をかけた。
ルシオにバレなように、視線を下げる。
制服に、おかしなシワなど、できていないだろうか。
両親に何か言われたら、誤魔化さねばと思う。
まさか、ルシオのベッドで眠りこけていたなどとは、とても言えない。
「あ」
そこまで考えて、サリーナは慌てて振り返った。
後ろには、サリーナが腕を取られ踏みつけたままの毛布と共に、ベッドがそのままだ。
ティーカートを押してきたルシオに声をかける。
「ルシオ様、あの。こちら、綺麗にしても?」
「え、ベッド? そのままでいいよ」
「御冗談を! このままにしておくなんて、できません」
一応声をかけたものの、綺麗にするのは決定事項のつもりだった。
勢いのある言葉に、ルシオは肩を竦めた。
「別に俺は気にしないけど。それでサリーナが納得できるなら、どうぞ」
「……魔法を使っても、かまいませんか?」
「お任せします」
片手でベッドを指され、サリーナはよし、と立ち上がった。
サリーナの痕跡など一切消してしまおう、そうしよう。
ベッドと向き合い、右手の人差し指を振った。
ついでに、制服も綺麗にしてしまえばいい。
ぐしゃりとなっていた毛布がふわりと浮き上がって、ぴしりと綺麗に伸びた。
そのままシーツも含めて、シワ一つないように真っすぐに整える。
指先をもう一度振って、確認する。
大丈夫、これなら問題ないだろう。
机を挟んだ向こうから、ルシオが驚いたように笑う。
「凄いね。貴族のベッドみたい」
「お手を煩わせました」
「俺は、気にしないって言ったでしょ」
ルシオが何と言おうと、これはサリーナの問題だ。
返事をせず笑みを浮かべたまま、サリーナはもう一度椅子に腰かける。
ルシオが机にカップをおいていく。
「はい、これ。全部、サリーナが自分で作ったお茶だからね」
「恐れいります」
記憶が混乱しているのか、何をどうしたのかよくわかっていない。
初めてみるかのような気持ちである。
置かれたのは四つのカップ。
ルシオが一番右を示したので、右のカップを手に取った。
「頂戴致します」
香りは柑橘系か。
こくりと飲むと、苦味よりも酸味が広がった。
ほんの少しだけ甘い。
「……飲めますね」
「自分で作っておいて、そのセリフなの?」
ルシオがくすくすと笑うので、むぐ、とサリーナは口を閉じた。
仕方がないではないか、記憶が形にならないのだ。
そろそろと他のカップも飲んでみる。
温度が違うのは、それぞれの茶葉に合わせてのことだろう。
自分がそう指示をしたのだろう、覚えていないけれど。
ゆっくりとお茶を飲んだサリーナは、ゆらめく薄い茶色のお茶を見つめた。
この中には、疑似薬物が入っている。
ルシオは本物の薬物が入ったお茶を、どうするつもりなのだろう。
これを飲む相手は、フェアスーン王女殿下の取り巻きたちで間違いないはずだ。
その中には、ザイードもいる。
サリーナは、ぎゅっと指先に力を入れる。
心の中に浮かぶのは、その理由でも、相手でもない。
とても、単純なことだった。
「……ルシオ様」
零れ落ちた声は、若干震えていた。
そろりと視線を向けた先で、気づいたルシオがそっと眉を寄せる。
心配をかけないように、とサリーナは意識をしながら微笑んだ。
「ご無理を、なさらないでくださいね」
「え」
「何かあれば、おっしゃって頂けると嬉しいです」
「何、それ」
ルシオがくしゃりと笑う。
苦笑に似たその表情は、優しさも垣間見える。
目を細めたルシオは、手を伸ばしてカップを取った。
一気に煽ってから、息を吐く。
「サリーナも、だからね」
優しい瞳がサリーナに向けられる。
サリーナはカップをおいた。
「サリーナこそ、何かあったら言ってよ」
「はい」
頷くと、ルシオが満足そうに目を細めた。
柔らかい紫色の瞳が、サリーナは好きだ。
いろいろとやらかしたし、問題だし、反省すべきことはあるけれど。
ルシオの役にたてたのなら良かったと、サリーナは机の上に並んだカップを見つめた。




