サリーナ、対する 中編
そばにいたい。
何もできなくても、そばにいることはできる。
何度もサリーナを「婚約者だよ」と言って譲らなかったルシオが、繰り返していた言葉。
優しく名前を呼んで、頭を撫でて「そばにいて」と言ったルシオを、忘れたわけではない。
サリーナは、詰まりそうな呼吸の中で、ゆるゆると頭を振る。
嘘ではない。
嘘ではない、けれど。
「る、しお、さま」
傷つけた。
ルシオの堪えた表情が、心を抉る。
違う。
こんな顔を、ルシオにさせたかったわけではない。
「ごめ、なさっ……」
傷つけた。
この優しい人を、サリーナは自分の勝手で傷つけたのだ。
大切なのに。
笑っていてほしいのに。
そばにいたいと思っているのに。
それなのに。
「ごめん、なさい」
苦しいのは自分ではなくルシオだとわかっているのに、涙が止まらない。
力いっぱい堪えて息を吸い込んでも、嗚咽しか出ない。
ルシオは、何も言ってはくれない。
ぐちゃぐちゃの視界の中では、ルシオの表情すらわからない。
服の中からすり抜けた手も、握っている手も、ぴくりとも動いてはくれない。
「つっ……!」
サリーナはよろけるようにして、ルシオに抱き着いた。
足にもうまく力が入らなくて椅子が大きな音をたて、体当たりになる。
みっともないとわかっていても、手を伸ばしてルシオの服にしがみつく。
「お、そばに」
下を向くと、ぽろぽろと雫が零れた。
泣くなんて卑怯だと思うのに、どうしても止まらない。
ぎゅうと、ルシオのシャツを握りしめる。
「おそばに、いたい、です」
離れたくない。
そばにいたい。
サリーナがやろうとしたことは、とても許されるようなものではない。
ルシオとの関係を、なかったことにしようとした。
これまで積み上げてきたものを、一瞬にして消し飛ばして、なかったことにしようとしたのだ。
無意識だろうと関係ない。
ルシオが止めなかったら、本当に危なかった。
その事実に、戦慄する。
どうして、あんなことをしようとしたのだろう。
そう考えるよりも先に、ルシオの強い声が頭によぎる。
脳裏に響いた声。
握りしめられた、右手の人差し指。
守ってくれた。
ルシオはサリーナを、守ってくれたのだ。
ここで離れたら、ルシオが遠くなる気がした。
握りしめた手に力を入れて、サリーナはルシオに頭を押し付けた。
「お、そばに」
酷い。
本当に、勝手すぎる。
何て、利己的なのだろうか。
ルシオは何もしていない。
何もかも、サリーナのせいだ。
全部、サリーナが引き起こしたことなのに。
先に魔法を使ってルシオから離れようとしたのは、サリーナなのに。
自分から選んで、離れようとしたくせに。
今になって、それが嫌だからと泣いて、駄々を捏ねて、みっともなくしがみついている。
「るし、お、さまっ」
しゃくりあげて、名前を呼ぶ。
どれほど情けないことになろうとも、この手を離すわけにはいかなかった。
祈るような気持ちでもう一度呼ぶと、頭上から「……俺も」と小さく声が降ってきた。
「俺も、サリーナにそばにいてほしいよ」
溶けるように、ぽつりと落ちてきた声。
喉が震えて、背中から何かが体中を走り抜けた。
一気に血が巡り、目元が痺れる。
何とか息を吸い込んだ。
「おそば、に、いま、す」
「……本当?」
「本、当、です」
しゃくりとあげながら、サリーナは何とか言葉を紡ぐ。
ルシオの手が、サリーナの背に回った。
先ほどとは違う、服の上からの感覚。
触れられているとわかっただけで、涙が溢れる。
どうしようもなくなって、ルシオにさらに体を寄せた。
「好き、です」
途切れながらも、何とか言い切った。
背中に回った手に少しだけ力が入ったのが、嬉しい。
「好き、なん、です」
かき集めた酸素では、たった一言を絞り出すだけでも苦しい。
俯いて息を吸うサリーナの頭に、ルシオの頭が当たった。
「…………俺も」
囁くような声に、胸が痛くなる。
頭を撫でる手が優しくて、また涙があふれた。
何かを言おうと思って動くと「もう、いいから」とルシオが言う。
腰に回った手が、サリーナの体を持ち上げる。
「え」
サリーナの体が少しだけ浮いて、ルシオ上に乗った。
驚いてひくりと息を飲むサリーナの頭に手を回したルシオは、そのまま自分に引き寄せた。
そのまま、抱きしめられる。
「るしお、さま」
「もう黙って。そのまま、腕の中にいてよ」
肩に手が回って、温かい。
返事をすると、また嗚咽が零れそうなので頷いた。
むぎゅむぎゅと抱きしめてくるルシオに、サリーナはゆっくりと力を抜いた。
この人が、本当に好きだ。
大切で、この時間を失いたくない。
目を閉じたサリーナは、自分の体の奥にくすぶる魔力を感じる。
二度と、過去へと戻るような魔法は使わない。
自分の中の過ぎたる魔力は、とどめておく。
繰り返し繰り返し唱えながら、サリーナは息を吐く。
ルシオの優しさが痛い。
甘えさせてくれるこの腕に、苦しくなる。
いろいろな感情が混ざるのを、サリーナは一つずつ心の中に貯めていく。
感情に左右されていては、またいつか無意識に魔法を使いかねないからだ。
自分の弱さと甘さ、狡さと卑怯さ、利己的で勝手な部分は、サリーナの素をさらけ出す。
心の奥底に閉まって蓋をしたくなるけれど、それでは駄目なのだ。
それもすべて受け入れて、認めて、必ず次に生かさなくては。
ルシオの心音が聞こえる。
大切な物をはき違えてはいけない。
見失ってはいけない。
静かに呼吸を整えながら、サリーナは規則的に聞こえる音に、耳を澄ませた。
ルシオに抱きしめられると、安心する。
このまま甘えたままでいたい。
けれど、自分がやらかしたことにも向き合わないといけないサリーナは、やがてもぞもぞと動いた。
呼吸も落ち着いてきた。
そろそろ、声をかけてもいいだろうか。
伝えておかなければならないことがあるのだが、どうだろう。
「ルシオ様」
声が少し枯れている。
顔をあげていいものかも迷ったが、そっと視線をあげる。
ルシオの顔はサリーナの頭の上にあって、何も見えない。
「……ありがとう、ございます」
声は聞こえているだろうと思い、小さく口を開く。
小さくルシオが動いた。
のろのろとした動きで、ルシオが顔をあげる。
落ち着いた様子だ。
改めて表情が見えたことに、ホッとしてしまう。
「私を止めて下さったこと。その、受け入れてくださった、こと」
視線が合ったので、ちゃんと言葉にして伝える。
ルシオには、本当に助けてもらった。
ルシオがいなければ、サリーナは今頃どうなっていたかも想像したくない。
正直なことを言ってしまえば、時を戻せばいいだけの話になるが、同じことが出来るという確信はない。
泣いてしまうだろうし、パニックになって魔力が暴走してしまうかもしれない。
すでに魔王でもあり、神にも近い魔力操作ができるサリーナは、そのままこの世界を滅ぼしかねない。
止めてくれたのは、ルシオだ。
「本当、に。ありがとうございます」
反らしたくなる視線を動かさず、何とか最後まで言い切った。
だが、それを聞いたルシオは、何故か少しだけ眉を寄せた
「ルシオ様……?」
そのまま黙り込んだルシオは、怒っているようにも見える。
一方で、サリーナの頭に回った手が、ゆっくりとサリーナの髪をすいた。
「お礼なんか、言わなくていいよ」
「え……」
「確かに俺は、サリーナが魔法を使うのを止めたけど。それは別に、サリーナのためじゃない、俺のためだよ」
ルシオはサリーナを見下ろした。
紫色の瞳が、ぱちりと瞬く。
「俺は、俺のためにしか動かない。サリーナが、お礼を言うようなことはないよ」
「あの、でも」
「あのね、過去に戻してほしくないのは、俺なの。俺が、嫌だから止めただけ」
サリーナの言葉を遮って、ルシオはきっぱりと言う。
それでも、サリーナは視線を彷徨わせてしまう。
過去に、戻ったとして。
記憶がある今は嫌だと言えるけれど、過去に戻れば記憶は消える。
何も知らないルシオは、そのまま何もなかったかのように生きていく。
過去に戻って苦しむのは、記憶がすべて残っているサリーナだ。
「魔法のことだって、そうだよ。予想していたけど黙っていたのは、俺だ」
それは、そうなのだろうけど。
どうしても、その言葉を素直に受け取ることができない。
ルシオがあれこれ予想とたてたとしても、それをサリーナに直接問えるかといえば別の話だ。
「……俺、謝らないよ」
絞り出すような声だった。
何のことだろうと顔をあげると、ルシオが視線を反らす。
小さくため息をついた後、ゆっくりと目があった。
「さっき俺、本気で襲おうとした。魔法を使って過去に戻るのなら、サリーナが泣いても叫んでも、離さなかったと思う。どうせ俺は忘れるんだし」
真顔のルシオの発言に、サリーナの瞳はゆるゆると大きくなる。
言葉の意味が頭に広っていくと同時に、体が強張った。
「……る、しお様」
「サリーナ、無意識で魔法をかけようとしたでしょ、だから止まれただけだよ。意識してたら、無理やり押さえつけてた」
きゅっとルシオの瞳が細くなる。
回された腕に、力が入ったのがわかった。
「同じことが目の前で起きたら、もう一度同じことをする自信がある。だから、謝れない」
何かにつけて「ありがとう」と「ごめんね」を口にするルシオだからこそ、言葉が重い。
ルシオが瞬く。
「やったことは最低だし、悪かったとは思うけど」
ふ、と息を吐いた。
黙っているサリーナの頭に、手が触れる。
「謝ったらもう、次はないから。俺、謝るつもりはないよ」
ルシオの視線が動かない。
それが、本気なのだと伝えてくる。
サリーナは、結んだ唇に力を入れた。
悪いと言いつつも、ルシオはまた同じ状況で同じことをすると言う。
それが最低なことだと自分でわかっていても、謝らないと言うのか。
いつもサリーナのことを気にかけてくれる優しい人に、こんなことを言わせてしまったのか。
「ただ……やり方は他にもあったと思う。こんな方法しか取れなくて、ごめん」
「やめて、ください。そんな、こと」
思わず、ルシオの胸元のシャツを握りしめる。
ふるふると首を横に振る。
そんな謝り方、あんまりだ。
「謝らないでください、やめてください」
ルシオは、何もないのにサリーナに手を出したりはしない。
きっかけはサリーナにあって、ルシオではない。
ルシオに、考えるような余裕はなかった。
あんな手を選ぶほど、ルシオを追い詰めたのはサリーナだ。
「私の方こそ、本当に申し訳ありませんでした。ごめんなさい」
「そうやって、また自分のせいにする」
「本当のことです」
「違うよ」
「違いませんよ。私が魔法を使おうとしたことが、そもそもの始まりです」
「違うから。発端はそうかもしれないけど、暴挙に出たのは俺だ。魔法を止めたいからといって、俺が酷いことをしていい理由にはならない」
ルシオの言葉に、サリーナが詰まる。
もどかしそうにしているサリーナに、ルシオもこれ以上は譲る気はない。
「俺だよ、サリーナ」
もう一度告げる。
サリーナは熱くなる目元を何とか堪えて、ルシオの腕のシャツを握った。
喉の奥にせりあがってくるものを、押し込める。
「そう、です、か……」
何となく。
ルシオは、責めてほしいのだろうという気がした。
サリーナを大切にして、細部まで気遣って、手を尽くしてくれる優しい人だ。
そんなルシオが、サリーナの服を乱して、肌に触れ、力で押さえつけようとした。
自分を許せるはずもないのだろう。
これ以上何を言っても、ルシオは絶対に認めない気がした。
サリーナのせいではないと言うのであれば、これ以上謝罪は受け入れてもらえないだろう。
であれば、サリーナは別の方向から考えることにする。
「ただ、ルシオ様が。私を守って下さったことは、事実です」
ルシオがいなかったら、今頃サリーナは過去へと戻り絶望していたはずだ。
今、この場にいるルシオは、この瞬間しかいないのだ。
「どれほど言葉を尽くしても、感謝の気持ちを表すことができません」
謝罪ではなく、謝意を伝える。
ルシオがいてくれて、良かった。
この場にルシオがいてくれて、本当に良かった。
助けてもらった。
救ってもらった。
「本当に、ありがとうございます、ルシオ様」
感謝の気持ちであれば、受け取ってもらえるだろう。
サリーナの言葉に、ルシオはぐっと唇を結んだ。
「……うん」
やがてゆっくりと開いた口から漏れた言葉に、サリーナはほっと力を抜いた。




