サリーナ、対する 前編
サリーナは、どこか遠くにすら聞こえたルシオの言葉を反芻する。
過去に戻って。
もう一度、やり直す
現在から過去へと、戻る。
そして、そこからもう一度やり直す。
最初は、寿命を全うしたサリーナの意図していないところで行われた
どこから、自分の魔力で、過去に戻ることができるようになったのだろう。
人生をやり直しまくった結果手に入れた魔力は、今やサリーナの思い通りだ。
サリーナは自分の意思で、好きな時に好きな過去へと戻ることができる。
人生をやり直しまくっていること。
神にもなりえるほどの魔力と、それを使う術を持っていること。
これは、ルシオにさえ話をしたことがない。
だからこそ、サリーナはルシオの言葉に何の反応もできなかった。
聞こえてきた言葉が、頭の中で弾ける。
底知れない紫の瞳は、サリーナを試しているわけでも、引っかけたわけでもない。
確信を持って、ルシオは言った。
「どう、して……」
呆然とした呟きのような声。
どうして、知っているのか。
口にしたこともないのに、どうして。
聞こえるかどうかもわからないほど小さい声だが、ルシオには聞こえていたようだ。
目を細める。
「まぁ、いろいろと考えた結果かな」
「そ、そんな、こと」
おろおろと視線をあちこちに向けるサリーナを、ルシオは黙ったまま見つめた。
動揺して、慌てふためいて、気づいていないのだろう。
手の中に握り込んだ、サリーナの人差し指を押さえつける。
どうして、だなんて。
そんなこと、気づいてしまったから仕方がない。
元々ルシオは、サリーナが隠していることを、無理に聞き出そうとも知りたいとも思ってはいなかった。
何となく、自分にとってよくないことだと感じていたからでもあるし、今この場にいるサリーナの方が大切だったからでもある。
知ったら戻れなくなるだろうことを、肌で感じていた。
ただ、ルシオと正面から向き合おうとするサリーナは、基本的に嘘をつかず隠そうともしないので、自然と情報が集まってしまう。
王家の影のことに加えて、王宮の地下にあるという魔法石の話をされたとき、薄っすらと形になってしまった。
そのレベルの機密事項をどうやって知ったのかと考えとき、王妃経験があるのではと思った。
ルシオが考えた可能性は、二つ。
一つが、サリーナが、過去に王妃だった記憶を持って転生したということ。
もう一つが、人生をやり直しているのではないかということ。
転生をしている可能性は、すぐに捨てた。
サリーナが知っていることは、現在のことが多く、知っていることに偏りがあったからだ。
何故ルシオがコンラード商会の後を継ぐことになったのかも、サリーナは知らないだろう。
では、人生をやり直しているということだろうか。
そう考えてからは、もう芋づる式である。
サリーナの意思で、過去を戻れるのか。
それとも、人生を終えた瞬間に巻き戻るのか。
もしくは、何かきっかけがあって、遡るのか。
迷うことなく、悩むことなく学院の課題に取り組み、慣れた手つきで魔力を練り上げる。
普段は魔力を押さえているようだが、ルシオの前で無防備なときに魔力を計測してみたところ、数値が振り切れた。
サリーナに監視をつけているうちに、そうやってだんだんとサリーナの状況がわかってきた。
今では、サリーナが人生を何度かやり直していると、はっきりした確信さえある。
何となく、自分で好きに時を遡れるのだろうとすら、予測している。
隠す気があるんだか、ないんだか、とルシオはピクリとも動かないサリーナを見下ろした。
体を起こせば、自然と距離があく。
「サリーナさ」
わざと優しく問いかけると、小さく肩を震わせたサリーナの視線が上がる。
不安そうな表情は、今にも泣き出しそうな幼子のようだ。
「さっき、時間を戻そうとしたでしょ」
「つっ……」
ひゅっと息を飲んだ音が聞こえた。
言葉がなくても、それが答えだ。
「…………そっかぁ」
ルシオの口から、ため息混じりの言葉が出た。
やっぱり、そうか。
握りしめたサリーナの人差し指に、力が入ったのがわかる。
サリーナは唇を震わせながら何かを言おうとしているようだが、言葉は出ない。
ただただ、今起こっている現実を受け入れるだけで必死だ。
サリーナは、左手でルシオの服の袖をつかんだ。
力が入っていないので、つかむというよりもひっかかっているようだ。
「る、し」
名前を呼ぶのも辛い。
顔を見ることができなくて、サリーナは首を振る。
「ご、ごめん、なさい」
やっとまともな言葉が出た。
カタカタと震えながら、もう一度「ごめ、なさい」と絞りだす。
「サリーナ、何について謝ってるの?」
ルシオは薄く笑う。
力の入っていないサリーナの手から腕を引き抜いて、その手をそっと握る。
「黙っていたこと? 魔力のこと? それとも」
握った手に、力が入る。
軽く引っ張っただけで、サリーナの体が寄った。
「時を、戻そうとしたこと?」
繋いだ手に、一瞬だけ力がこもる。
息を飲んだサリーナは、ぎゅうと目を閉じた。
ルシオに伝えていないことはある。
それは、ルシオの「言いたくなければ言わなくていい」との言葉に甘えていただけだ。
人生をやり直しまくっていること。
恐ろしいほどの魔力を持ち、それを使いこなせること。
だけど、そのどれよりも今、ルシオに伝えなくてはいけないことがある。
「魔法を、使おうと、しました、今、私っ。私、今」
途切れる言葉を何とか繋ぐ。
「ごめん、なさい」
「……うん」
頷いたルシオの声に、サリーナはぎゅっと手を握った。
いつもサリーナが謝ると「何で謝るの?」と言ってくれるルシオだ。
それが、そっと頷いたことに胸が痛くなる。
ルシオはそれ以上責めることも、認める言葉も言うことがない。
その事実だけが、サリーナを締め付ける。
自分は今、恐ろしいことをしようとした。
時を戻すということがどういうことなのか、嫌というほど知っているはずなのに。
「枷は。わかるようにかけないと、意味がないのか」
俯いて唇を嚙みしめたサリーナは、ぽつりと聞こえた声をぼんやりと聞いた。
枷?
サリーナが握っていた袖が外れ、代わりにルシオがサリーナの顔に手を伸ばした。
頬を包まれて、上を向く。
ルシオは怒っているどころか、困ったように笑っている。
「どうしたら、いいのかなぁ」
ルシオが小首を傾げて嘆いた。
頬に触れていた手があがり、親指が目元を優しくなでる。
「る、しお、さま」
思わず名前を口にすると、引き寄せられたかのようにルシオが目元に唇を寄せた。
柔らかい物が当たり、サリーナは「え」と目を丸くする。
さらりとした黒髪が触れている。
「サリーナさ。俺と会うよりも前に、戻そうとしたでしょ」
聞こえてきた声に、ぎくりと肩が震えた。
耳元で、ルシオが低く笑う。
「サリーナは、それでいいんだ」
「……え」
「俺がサリーナのことを忘れて、婚約もなかったことになって。それで、いいんだ」
「そんなこと!」
叫ぶが、ルシオは「あるでしょ」とだけ返す。
「だって、サリーナ。時を、戻そうとしてたよ」
平坦な声に、ゾッと体から血の気が引く。
ルシオの言うことは、間違っていない。
正しい。
サリーナは確かに、時を戻そうとした。
ルシオと婚約するよりも前、サリーナと出会うよりも前に、戻そうとした。
それが、何を意味するのか。
無意識とはいえ、ルシオからすれば関係ない。
「駄目、だよ」
低い声が聞こえた瞬間、ルシオがサリーナの腰を引き寄せた。
驚いて息を飲むと同時に、襟元に生暖かさ触れる。
「え」
首に埋まる、ルシオの頭が見えた。
ちり、と小さな傷みが走る。
「え、え」
少しだけ顔をあげたルシオが「綺麗についたな」と口の端をあげる。
訳も分からず見下ろしたサリーナは、ぎょっと目を見開いた。
「な、んっ……」
小さく残る赤い痕。
制服の襟元ぎりぎりのところに、はっきりと痕が残っている。
それが何なのかわからないほど、子どもではない。
「何、え」
声をあげると、首筋に生暖かい感覚が走る。
慌てて体を引き離そうとするが、がっちりと掴まれていて身動きが取れない。
押さえつけられた右手すら抜けない。
「な、ま、ルシオ、ひゃっ!」
ルシオの腰に回った手が、制服の上から背中をなぞる。
驚いて跳ねたサリーナの耳元で、ルシオの掠れた笑い声が響く。
「はは、可愛いなぁ」
「何、で」
ぽろぽろと涙が零れた。
その雫すら舐めとったルシオが、吐息を漏らす。
「何で、って」
一度瞬くと、ルシオがうっそりと笑う。
影になっていて、瞳の奥が見えない。
「覚えておいてもらおうと、思って」
「……え」
「時を戻したら。俺はサリーナを忘れるだろうけど。サリーナは違うでしょ?」
大きな丸い瞳が瞬くたびに、透明な雫が零れる。
それが反射して綺麗だな、とルシオがどことなく思った。
ルシオは、魔力も何もない。
サリーナが自在に時を操れる可能性があるとわかったとき、いくつか対策はしておいた。
だが、サリーナが本気を出してしまえば、どれだけ準備をしても負けるだろう。
時を操れるほどの魔力と術を持つということは、そういうことだ。
この世界の誰よりも何よりも、サリーナの方が勝ってしまう。
サリーナの魔法から、ルシオは逃れられない。
そうやって、過去に戻って。
ルシオは何もかもを忘れて、生きていく。
何もかも知らなかったことになり、何事もなかったかのように過ごすだろう。
だが、サリーナは違う。
すべてを覚えているサリーナは、こうやってルシオが触れたことを決して忘れない。
忘れられない。
忘れさせない。
「サリーナ、好きだよ」
かかる髪をのけて晒された耳に、染み込ませるように囁く。
唇を寄せて、わざと音をたてると、肩が大きく跳ねた。
先ほどまでとは違い、真っ赤になったサリーナの吐息が熱い。
「サリーナ、可愛い」
訳が分からない様子のサリーナを見ながら、過去に対する優越感が沸く。
「サリーナ」
何度も何度も、ルシオはサリーナの名を呼ぶ。
優しく、甘く、柔らかく、とろけるように名前を繰り返す。
名前を呼んだ唇を、柔らかな素肌に幾度となく落とす。
小さく音を鳴らして、そっと舐めた。
「る、しっ……」
名前を呼ぼうとしているようだが、それすら言葉になっていない。
乱れた呼吸で喘ぐサリーナを、ルシオはじっと見つめた。
忘れさせるつもりはない。
ルシオの声も、体温も、指先も。
吐息の一つに至るまで、絶対に忘れさせない。
背中に触れた指先を少しずらせば、細い腰に当たる。
そっと上へと撫でたら、甘い声が漏れた。
「可愛い声」
サリーナの頭がパンクするほど優しく触れて、焦らして、甘く溶かして、溺れればいい。
そうすれば、サリーナは決してルシオのことを忘れない。
過去に戻ったとしても、また自分のもとへと来るように。
枷をかけてしまえば。
「待っ、や……」
ふるふると首を振るサリーナに、すでに力はない。
涙が止まらず息が乱れて、ルシオが支えていないと崩れ落ちそうだ。
ゆらりと体を起こしたルシオが、サリーナの頬に手を当てた。
霞む視界の中で、紫色の瞳だけがやけにはっきりと見える。
「時を戻したら。もう、こうやって触れることもないのかなぁ」
楽しそうに聞こえるのは、何故なのか。
何とか肩で息をしていたサリーナは、背中のシャツを引っ張られて息を止めた。
「るし、お、さっ……」
制服のシャツのすき間から、ひんやりとしたルシオの指が触れた。
ぶわりと熱が広がる。
離れたいのに、ルシオが力を込めているせいで、ぴくりとも動かない。
背中に触れるルシオの指先だけに、感覚がすべて引っ張られる。
ぞくぞくとしたものが湧き上がるのを、ぎりっと歯を噛みしめて逃す。
「駄目です、これはっ……」
叫ぶような声に、ルシオの動きがぴたりと止まった。
背中に回った手が、そのままサリーナを引き寄せる。
「何で?」
歪んだ視界の先で、ルシオが不思議そうに首を傾げる。
息すら上手く吸えず、答えられないサリーナの頭に、こつんと頭がぶつかる。
あまりの近さに、吐息が肌を掠めた。
「だって、俺は何もかも忘れるんでしょ?」
「そ、れは」
「だったら、一緒だよ。過去に戻った俺は、もう今の俺じゃない」
「ルシオ様!」
「どうせ忘れるなら、枷になる方を取るかな」
軽く笑ったルシオは、押さえつけていた右手から手をどかす。
力いっぱい押さえていたせいか赤みが残るサリーナの右手を、優しく包んだ。
「ルシオ、様……」
「そばにいたいって、言ってたのに」
包んだ手から、指が絡む。
親指が、人差し指を撫でた。
瞬いたことで涙が流れたせいか、視界がはっきりとしてくる。
困ったような顔をしたルシオが、じっとサリーナを見ていた。
「俺の側にいたいって、言ってたよね」
そう言うルシオの瞳が、きゅっと細くなる。
堪えたような顔に、サリーナは目を見開いた。
「る、しお様」
そばにいたい。
ルシオのそばに、いたい。
それは、サリーナが何度も口にした言葉だった。
サリーナが持つ、まぎれもなく心からの願いだ。
震えるサリーナは、ルシオの唇がゆっくりを開くのを見た。
「サリーナの」
いつもより低い声。
心臓が、どくんと大きく音をたてる。
「……嘘つき」
ぽつりと落ちた言葉は、じわじわと静かに脳裏に広がっていった。




