サリーナ、対する 後編
サリーナの言葉を受け取ってくれたルシオに、安心する。
その様子を見ながら、ルシオは息を吐き、背筋を伸ばした。
ルシオには、どうしても確認しておかないといけないことがある。
「サリーナ」
問いかけてくる、ルシオの声が硬い。
緊張を無理やり押し込めて、もう一度口を開く。
「俺のこと、怖くない?」
「え」
「さっき、怖かったでしょ」
真剣な表情のルシオに、サリーナは戸惑う。
ただルシオの言う「さっき」が何なのかを体が感じ取り、力が入る。
サリーナを抱きしめているルシオが、それに気づかないはずがない。
「……だよね」
「え、いえ、違いますよ!」
ふ、と力なく笑うルシオに、サリーナは慌てる。
ちょっと待ってほしい、話は聞くべきだと思う。
「怖いというよりも、ただただ当惑したと申しますか。つ、ついていけなかったと言いますか」
「力で押さえつけたよ」
「そ、それは、そうかもしれません、けれど」
あれ、とサリーナは困惑する。
先ほどまで、とても穏やかな空気になっていたと思うのだが、一体どうしたことか。
何故かまた、言葉のやり取りが始まってしまっている。
「ごめん、待って。違う」
ルシオが、手で自分の口を塞いだ。
珍しい光景に、思わずまじまじと見上げてしまう。
言葉なく、ただ黙っていると、ルシオが大きく呼吸をした。
「俺が、触れても……いいのかってききたかったんだ」
「え」
すでに、ルシオの腕の中におさまっているサリーナに、何を言っているのだろう。
背に回った腕に視線を向けたサリーナに、ルシオが「そうじゃなくて」と言う。
「俺、さっき振り切れたから。怖くない?」
「……なったら、ここにはいませんよ」
ムッとした声になった。
サリーナのことを何だと思っているのだろう。
何もかも忘れて、腕の中にいるとでも思っているのだろうか。
とんでもない話である。
口元を押さえているルシオの手に触れる。
サリーナよりも体温の低い手が、今は少し熱いぐらいに感じる。
ゆっくりと外れた手を、自分の頬へと導いた。
一瞬力の入った指先に気づいたけれど、そのまま自分の手を乗せた。
「当惑しただけだと、言いました」
サリーナは、力の入った声で返す。
ルシオは「最後まで」と言っていたし、未遂におわったことをサリーナのおかげだと思っているようだったが、サリーナは違うと思っている。
だって、ルシオは唇にキスはしなかった。
以前に押し倒されたときも、ルシオはサリーナに唇だけは守るように言った。
あのときは訳がわからなかったけれど「スイッチ」と言っていたルシオの言葉の意味を、今では理解できている。
ルシオは振り切れたというけれど、サリーナからすればそんなことはない。
最初から、ちゃんとルシオはサリーナを守ってくれていた。
「ルシオ様に触れられることに、不安も何もないですよ」
ルシオは、サリーナを本当に傷つけるようなことはしない。
あのとき感じたことは、今でも変わらない。
「……そっか」
ルシオは納得したように言うけれど、唇が一度開いて閉じた。
まだ何かあるのかな、と思いつつ「ルシオ様?」と問いかけてみる。
頬に触れていた手が外れて、その手が握りしめられた。
「サリーナは、さ」
「はい」
「俺自身のことは、怖くないの?」
呟かれた声が弱くて、サリーナは何度も瞬いてしまった。
握りしめられた手に力を入れて、引っ張る。
まだ、そんなことを言うのか。
自然と口調がきつくなる。
「怖くないと何度も言ってます、当惑しただけだと」
「違う、そうじゃない」
「……え?」
ルシオが、サリーナの頭に自分の頭を乗せた。
黒髪しか見えなくなる。
「ルシオ様?」
「俺は、自分が怖いよ」
背中に回った手にも、繋いだ手にも、力が入る。
ルシオがとても弱く感じられて、サリーナは戸惑ってしまう。
「俺はさ。サリーナが思っている以上に、サリーナのことが大切で、そばにいてほしくて」
「え」
「離れる可能性があるだけで、多分、おかしくなると思う」
「は?」
「襲う可能性だってあるし、文字通り束縛して、閉じ込めるかもしれない」
「………んん?」
困惑が、そのまま漏れた。
ルシオの口から、とんでもない言葉が飛び出してきて、感情の振れ幅が酷い。
大切で、そばにいてほしいぐらいならば、嬉しくなって恥ずかしくなって終わったのに、変な項目が付いてきた。
「それが、俺にはできる。サリーナ、知ってるでしょ?」
当然のように問いかけられたルシオの言葉に、サリーナはどう答えたらいいのか迷う。
だが、いい言葉も浮かばず、諦めて小さく頷いた。
ルシオは小柄で細身だ。
体重というくくりにおいてはサリーナの方が上をいきそうだが、力ではかなわない。
触れた手だって大きいし、骨ばっていてサリーナとは全然違う。
加えて、すでに人を押さえ込む方法を知っているだろう。
そして。
コンラード商会の裏を、魔法で調べまくったサリーナは知っている。
レンガ造りの部屋が、本店と支店からつながってはいるものの、本当は全く別のところにあるということ。
その奥にある、いくつものドアの存在を。
「俺、自分が怖い。いつか、本当に、何かしてしまう気がする」
「ルシオ様」
「押さえられなくなりそうで、怖いよ」
ぎゅっと抱きしめられて、サリーナは驚いた。
ルシオに対して失礼かもしれないとわかっていても、ただただ驚いた。
以前、ルシオの父親にも話したことがあるけれど、ルシオはいつも落ち着いていると思う。
けろりとしているし、サリーナにとっては恥ずかしいようなことも平気で言うし、やってくるし、とにかく近いし、楽しそうに笑っている。
慌てるのはいつもサリーナばかりで、ルシオは冷静だ。
その、ルシオが。
焦りそぶりすらを見せたこともない、ルシオが。
今、サリーナのことで、こんなにも弱々しくなってしまっている。
そう言えば、いつかルシオの父親が言っていたではないか。
ルシオに、婚約解消したいと言ってみたらどうか、と。
そう口にすれば、ルシオが確実に慌てふためくと。
あのときは、ルシオが本当に婚約を解消したらどうしようと、サリーナの方が慌ててしまったが、よくよく考えれば、この状況は似ている気がする。
慌てふためくルシオなど想像もできなかったけれど、ある意味父親の台詞は当たっていたということなのか。
ルシオのこんなに辛そうで苦しそうな姿を見るのは、初めてだ。
「サリーナを傷つけたくないのに。俺、最近泣かせてばかりだ」
力の入った腕の中で、サリーナは首を伸ばして顔を出す。
何とか息を吸い込んで視線を精一杯動かすと、ルシオの耳が見えた。
肩口に埋まった顔は、髪が邪魔で表情まで見えない。
それが、酷くもどかしい。
思わず「泣き虫で、申し訳ありません」と言いかけたのを堪えた。
べそべそ泣きまくった記憶もないが、そこまで泣いていたと思われているのも恥ずかしい。
その辺りは難しい判断なのはさておいて、ルシオに泣かされたとは思っていない。
ただ、それを口にしたところで、どうにもならない。
ルシオこそ、自分のせいだと責めるのをやめないのだろう。
「……ルシオ様」
見える耳に届くように、サリーナはゆっくりと声をかけた。
黙り込んでしまったルシオは、全く動かない。
どうしたらいいのだろう。
何を言えば、ルシオに届くのか。
あれこれ考えたサリーナは、ルシオの気を引けそうな一言を口にする。
「あの、別に、閉じ込めてもいいですよ」
「……何言ってるの?」
動かないルシオだったが、恐ろしいほどの低音の返事だけはあった。
自分でも何を言っているのだろうと、思わなくもなかったけれど、今はとりあえずルシオから返事が来たことが嬉しい。
言葉を選びながら、サリーナは頭をルシオに預けた。
「えぇと、その。大丈夫ですから」
「何が? 大丈夫なわけないでしょ」
「大丈夫ですよ。ルシオ様が私を強姦しようとしても、縛って監禁しようとしても、逃げようと思えば逃げられます」
サリーナは、あえてはっきりとした言葉を選ぶ。
到底貴族令嬢の口から出る言葉ではないことも、わかったうえだ。
言葉にすると、ルシオが一瞬震えた。
こんな言葉に反応するなんて、やっぱりルシオは優しいと思う。
「もしもルシオ様に何かあって、押さえられなくなったとしても、大丈夫ですよ」
すり、と頭を寄せた。
ルシオが気にかけるようなことは、何もない。
「私に、お任せください」
サリーナは、魔法が使える。
それも、時を自在に操れるほどの魔力と、その術を持っている。
ルシオがどんなに手酷いことをしようとも、時を止めれば終わりである。
吹っ飛ばしてもいいし記憶を改ざんしてもいいし、どうにでもできる。
ルシオを正気に戻すことなど、サリーナには簡単なことだ。
「ルシオ様。私には、それができるんです」
さきほどのルシオの言葉を真似して、サリーナも繰り返す。
伝えていなくても、サリーナが過去へと戻れる魔法を使えることを知っているルシオである。
サリーナが嘘をついていないことぐらい、わかるだろう。
人生をやり直す中で、サリーナはそれはそれはやりたい放題やってきた。
魔法が使えたので、どこまでやれるのか試したかった意味もあったが、よくよく考えれば身に余るおもちゃを手に入れた子どもと変わらない。
だからこそ、今世では過ぎた魔法は使わないと決めて、生きてきた。
とりあえず、ザイードとの関係も良好になるように働きかけてきたが、結局は無駄だった。
彼は王女殿下に付いたし、やっぱり一度目の人生と同じく彼女へ思いを寄せた。
このままいけば結婚に至ってしまうので、婚約の解消だけは魔法を使った。
互いに、自由に生きるための魔法だ。
それ以降は、この異次元すぎる魔法は使わないと決めていた。
人の人生を揺るがす魔法はサリーナにとっては簡単だが、何か引き起こせば、それを起因にしてまた別のところに歪みが生まれる。
その決意は覚えているけれど、ルシオが絡むならば話は別である。
ルシオが大切なのだ、優先するのは当然だ。
「ルシオ様、ご存じですよね?」
問いかけても、ルシオは何も言ってはくれない。
歯がゆくなってくるが、サリーナは決して急かすようなことはしない。
もう一度落ち着くよう心を込めて、「ルシオ様」と名前を呼んだ。
「……何で、そうやって受け入れちゃうの?」
相変わらず、声が細い。
少しでも苦しい気持ちが消えているといいけれど、とサリーナは小さく笑う。
「わからないんですか?」
意地悪く問いかけると、ぎゅっと抱きしめられて声が出た。
わからないルシオの嫌がらせだろうと、サリーナはふふっと笑う。
「これはですねぇ、あれですよ」
抱きしめられて近づいた耳に、サリーナは口元を寄せた。
この感情をどう表現すればいいのか、サリーナは知っている。
笑みが零れてしまうのを、止められない。
「惚れた弱みってヤツですよ、ルシオ様、わぁ!」
一瞬息が詰まるほど抱きしめられて、驚いた。
それなりに痛くて、慌ててしまう。
「るるる、ルシオ様、何で、え」
「……もう、ヤだ」
「何故!?」
嫌がるようなことは、口にしていないはずだが。
おまけに思いっきり酸素が吸えず、けほ、と小さな咳すら漏れた。
その音を聞いたからか、腕の力が緩む。
サリーナを潰しそうな勢いで抱きしめるようなルシオには、絶対に力ではかなわないな、と頭の片隅で考えた。
痩せたはずなのにこれでは、力だけではサリーナに勝ち目はなさそうだ。
とりあえず、ルシオが嫌がっていることを何とかしなくては。
「何か、ご迷惑でしたか?」
「迷惑も何も。俺、もう駄目かも」
「えぇ!? ど、どうされました!?」
「そうやってさ。サリーナは俺を甘やかして、どんどん溶かして、駄目にしていくんでしょ」
「……酷い中傷を受けている気がします」
以前サリーナがやられたことへの意趣返しのつもりだったのだが、まさかの中傷を受けてしまった。
しかも、やっと目が合ったかと思えば、少し拗ねたような顔をしているのは解せない。
一瞬気持でも悪くなったのかと思って心配したこの気持ちを、どうしたらいいのか。
「俺が溶けて駄目になったら、どうしてくれるの」
「え、と。か、型に入れて、固めるというのはいかがでしょうか」
「俺のこと、手のひらで転がす気?」
「言い方に、悪意がありますよ!」
あまりの表現に思わず叫ぶと、ルシオが少しだけ笑った。
ルシオの口調が、戻ってきている気がする。
甘やかしているつもりもないが、ルシオがそう思うのならそう感じているのだろう。
止めた方がいいのかもしれないが、サリーナとしては変えるつもりはない。
甘やかして、甘えて。
それが出来るのは、サリーナだけだと思う。
だから、止めるとは言えない。
言うつもりもない。
「サリーナ」
「はい」
サリーナは、名前を呼ばれたら返事をする。
少し高めのルシオの声が、名前を呼ぶのが好きだ。
真っすぐに目が合うのが嬉しくて、思わず笑ってしまう。
拗ねたような表情はルシオを幼く見せて、サリーナの心を締め付けた。
初めて見る表情に、心の奥で嬉しさが沸く。
辛そうで苦しそうな顔よりも、ずっといい。
ルシオは何故か、一度きゅっと唇を結ぶ。
ほころんだ顔のまま黙ったまま待っていると、やがて困ったように笑った。
「……そばに、いてね」
「はい、ずっと。ずっと、おそばにいます」
ずっと。
ずっと、そばにいる。
それは、二度と魔法を使って過去に戻ることはないという、サリーナにとっての誓いだ。
今世は、ルシオと共に生きていく。
言葉にすれば、気持ちが強くなる。
「おそばに、いますからね」
そして、ルシオにも伝わるように、付け加える。
例えルシオがサリーナに何かしようとしても、大丈夫だ。
何かが壊れて外れてしまったとしても、サリーナはそばにいる。
魔法を使うかどうかはその時になってみないとわからないが、今はどうでもいいことだ。
それをそのまま口にするのは憚られるが、ルシオはその言葉をちゃんと捉えてくれる。
「うん、ありがと」
ルシオの瞳が柔らかくなる。
久しぶりに見た気がして、胸がぎゅっと締め付けられる。
ルシオが何も言わないのをいいことに、サリーナは少しだけルシオに近づく。
そのままそっと、シャツを握りしめた。
気づいたルシオが軽く笑って、引き寄せてくれる。
やっぱり安心するなぁと、サリーナはほっと息を吐いた。




