サリーナ、ワガママになって甘えてみて 前編
あれ、と違和感に包まれた理由を、サリーナは説明できない。
ただ何かがおかしい、と感じた。
自室で本を開いたまま、サリーナはため息をつく。
本の内容が、一向に頭に入ってこなかった。
「……何か、あったのかしら」
呟きが漏れた。
今日は、ルチアがサリーナの家、シュベルグ家の邸宅に来ている。
平民ではあるがマナーがしっかりと身についているうえ、サリーナに対する態度も良いルチアは、シュベルグ家からの信頼が厚い。
魔法石付きの文房具を手掛けている関係から、最近は父や次期子爵でもある兄との交流が増えた。
今日だって学院から一緒に帰宅した後、ルチアはサリーナの兄と一緒に話をするために出ていった。
それは、別にいい。
ルチアがサリーナの兄と交流しているのは、いずれ王家に縛られる兄を守るためだ。
助けてもらっているのはこちらの方なので、むしろ感謝している。
ただ、気になってしまう。
隣を歩くルチアの声か、態度なのか、何かが違う気がした。
「また何か、お一人で抱えていらっしゃるのかも」
サリーナは、慌てて本を閉じる。
先日、ルチアの父親に指摘されるまで、何も気づかなかったサリーナである。
そのサリーナが違和感に気づくぐらいなので、相当おかしいのではないだろうか。
「どどど、どうしましょう」
立ち上がったサリーナは、うろうろと部屋の中を歩き回る。
何かできることはないだろうか。
だが、先日は頑張った結果、むしろルチアに迷惑をかけてしまった。
頑張ったのだ、サリーナは本当に頑張った。
手を握ってみたし、恥ずかしくてたまらなかったけれど、自分の言葉を口にした。
ルチアの父親の助言通り、自分の存在を一生懸命アピールしてみせた。
そして、自滅した。
一連の流れを思い出したサリーナは、しゃがみ込む。
むぎゅむぎゅと体を小さくさせて、頭を軽く振る。
記憶を追い出そうとしてみても、蘇るのは沸いた熱だった。
「嫌だわ、はしたない……」
朱に染まった顔を、手で覆う。
貴族令嬢であれば、呼吸一つで冷静さを取り戻しただろうが、人生をやり直しまくってきたからか、感情があちこちに飛ぶ。
「今は、ルチア様よ」
自分は婚約者なのだから、と心で呟きながら、サリーナは顔をあげた。
窓から差し込む光が眩しい。
ルチアと話をして、探らねば。
そう決意したサリーナだったが、すぐに行き詰まった。
ニコニコと人当たりの良さそうな笑みを浮かべたルチアをちらっと見ながら、サリーナはお茶を飲み込んだ。
同じようにカップに口をつけたルチアが、顔を上げた。
「サリーナ様、いかがなさいましたか?」
「お茶の香りを楽しんでおりました」
こちらも笑顔を貼り付けて答える。
余所行きの顔に、頬が引きつりそうである。
兄との時間を終えサリーナの部屋に来てくれたルチアだが、いつもの通りとはいかない。
ここは子爵であるシュベルグ家の中だ。
ドアは開いているし、お茶はメイドが運んでくれたし、後ろにも前にも人がいる。
この場でサリーナが態度を崩すわけにはいかなかった。
ルチアと二人で話がしたいのに、これではとても声をかけられない。
白々しい顔をして、当たり障りのない会話しかできない。
もどかしくて、サリーナはカップのハンドルをきゅっと握る。
「では、私はこれで失礼させて頂きます」
このままでは、ルチアが帰ってしまう。
門の前まで見送るためついてきてはみたものの、後ろには人がいて、こそこそと話もできない。
サリーナがこっそりと耳打ちしても、咎められるのはルチアになってしまう。
門まで来たところで、ルチアが振り返った。
「今日は、ありがとうございました」
「もう少し先までお送り致します」
無理やりそう言うと、ルチアがぱちりと瞬いた。
後ろに視線を向けて、口の端をあげる。
「まだ明るいので、ご心配には及びません」
「そう、ですか」
「お気遣い頂き、ありがとうごございます」
自分でもおかしなことを言っているとわかっているサリーナは、それ以上は何も言わずに身を引いた。
ルチアが頭を下げ、自然な流れで指先を動かした。
下からサリーナを見上げ、自身の胸元をとん、と一度叩く。
サリーナは目を見張った。
後ろには見えていないだろう仕草と、どことなく楽しそうな瞳に、心臓が大きく跳ねた。
ルチアはゆっくりと微笑んだ。
「では、また」
何度か振り返って頭を下げるルチアに小さく右手を振りながら、左手が胸元に伸びた。
指先が固い物に触れる。
「……また」
口から出た自分の声が、震えている。
ほんの少しのことが嬉しくなってしまうのは、止められそうにない。
その日、サリーナは夕食を終えてすぐに、湯につかった。
サリーナの兄がルチアとの話を楽しそうに語っているのを聞きながら、とにかく早く一人になりたくてソワソワとしてしまった。
湯船につかりながらネックレスを指先に引っかけると、お湯に反射して光が見える。
「ルチア様だわ」
急いで体を起こしたものの、サリーナはネックレスを握りしめるだけに留めた。
以前にバスルームから連絡をした際、今後は絶対に部屋から連絡を入れように言われたからである。
急がなくちゃ、とサリーナは立ち上がった。
ルチアからもらったネックレスが通信機になっていることなど、誰も知らない。
ただ、絶対に外さないので「大切にされているんですね」と笑われるのを横目で見ながら、サリーナは逸る気持ちを押さえつけた。
何かおかしなところがあればその分遅くなってしまうので、サリーナなりに気をつける。
早めに休むとだけ告げて部屋に一人になったサリーナは、胸元からネックレスを引っ張り出した。
通信機として使うのは、本当に久しぶりだ。
そんなものが必要にならないほどルチアと会っていたのだと思うと、体温があがる気がする。
サリーナは石をねじって防音の魔法を確認してから、石を押し込んだ。
鈍い音がしている中で、サリーナは「ルチア様?」と声をかける。
『大丈夫、聞こえてるよ』
当たり前のようにルチアの声が聞こえて、ホッとした。
久しぶりすぎて、緊張していたらしい。
「今、お時間等、問題ありませんか?」
『うん、平気』
通信機の向こうで、ルチアが小さく笑ったのが聞こえた。
気取ったものではなく、二人の時のルチアだ。
「ルチア様、今日はありがとうございました」
『急に、どうしたの?』
「兄が感謝しておりました。とても有意義な時間を過ごせたと聞いています」
『そっか、それは良かった』
「はい、ありがとうございます」
石に向かって頭を下げると、ルチアが動いた音がした。
『お礼を言うのはこっちの方だよ。魔法石を加工するときに出る欠片を、格安で売ってもらえることになったからさ』
「そうでしたか」
ルチアが手をつけている、クズ石付きの文房具。
クズ石は掘り出された自然由来のものもあるが、安定した供給のためには、加工する工程で出てしまう欠片を使う方がいい。
魔法石の加工と、その石への魔法の付与といえば、シュベルグ家だ。
今はまだサリーナの父親が当主となり仕切っているが、兄に代替わりする日も遠くはない。
少しずつ業務を任されている兄とルチアの関係が、サリーナを挟んでの関係ではなく、取引先となったようだ。
「ルチア様」
サリーナは、口を開いた。
ルチアは魔法石の欠片を売ってもらえると言っているが、本当はそんなことをする必要はない。
文房具につけるクズ石は個数が知れているし、効果が切れたとしても付与しなおせばいいだけのことだ。
新しく入手するメリットなどルチアにはないだろうに、わざわざ取引をしてくれている。
そこまでしてサリーナの兄と接触してくれているのは、兄のためであり、サリーナのためだろう。
ルチアには、全く関係がない。
「いろいろとお気遣い頂き、ありがとうございます」
このルチアの優しさを、忘れてはいけない。
『お礼なんて言わなくていいよ。俺が、好きでやってることなんだから』
笑いながら言われ、サリーナは切なくなった。
こうやって、いつもルチアはサリーナが気にしないでいいようにと言葉をくれる。
優しさが苦しいけれど、それを口にするのは憚られた。
代わりに、紫の石を見つめた。
「今日は、お会いできて。嬉しかった、です」
『え?』
「多くの目がある中でしたが、お話ができて楽しかったです」
そう言いながら、自分の胸元がぎゅっと締め付けられるのがわかる。
できれば畏まったルチアではなく、いつものルチアと話がしたかった。
シュベルグ家で会う以上は難しいとわかっていても、本当は声をかけたかった。
だからこうやって通信機越しでも、普段のルチアと話ができることは嬉しい。
ソワソワしてしまうぐらいだったというのに、今の気持ちは全然違う。
今、ルチアは何をしているのだろう。
どんな表情で、話を聞いてくれているのだろう。
自然と、ペンダントトップを持つ手に、力が入った。
「通信機越しだとお顔が見えなくて、寂しいですね」
ポツリと漏らした言葉は、完全に無意識だった。
耳が捉えた言葉が自分の言葉だと気づいたサリーナは、ぎょっとした。
「ち、違いますよ! 違います、あの、えっと。違いますから!」
『え』
「本当ですよ」
恥ずかしすぎて真っ赤になったサリーナは、片手で熱くなった頬を押さえる。
言い訳をしなくては、と焦って、考える。
「寂しくはなくて、あの。大丈夫ですからね」
『……寂しくないの?』
「え、そ、そうですね。寂しくないです」
寂しくなんかない、寂しくなんてない。
必死に内心で言い聞かせて頷いていると、ルチアが『そうなんだ』と言った。
こくこくと頷いていると「うーん」と、ルチアの声が続く。
『でも俺は、会いたいよ』
「へぁ!?」
『本当は、こんな魔法石越しじゃなくて。会いたいなって思うけど』
ごくごく自然に言うルチアに、サリーナは息を飲んだ。
ぱくぱくと口を開いても、言葉は出てこない。
『俺は、寂しいって思うよ』
遠くから聞こえてくるような静かな声に、サリーナは小さく震えた。
ぶわりと背を何かが駆け抜け、力を奪っていく。
「る、ちあ様」
声が震える。
通信機の向こうで『何?』と答えてくれるルチアの声の穏やかさに、喉が痛くなる。
ぎゅっと目を閉じた。
「わ、たしも。お会い、したいです」
『そっかぁ。一緒だね』
帰ってきた声が優しくて、サリーナはほっと目を開けた。
ルチアが笑っている姿が浮かぶ。
柔らかい瞳がサリーナに向けられるのが、たまらなく好きだ。
小さく笑っているルチアに、サリーナは瞬く。
「ルチア様、どうかされましたか?」
『んー。何か、ちょっとね、やっぱり違うなぁと思って』
『何がでしょうか』
そんなに楽しい話をしていなかったような気がして、サリーナは首を傾げる。
不思議そうなサリーナの声に、ルチアがもう一度声をたてて笑う。
『サリーナ、気づいてないでしょ』
「え、と」
『会いたいってサリーナが言ってくれたの、多分初めてだよ』
「えぇ!?」
思った以上に大きな声が出て、慌てて口を塞ぐ。
そろそろと手を離して、紫色の石を見つめる。
「そう、でしたか?」
『やっぱり、気づいてなかったんだ』
誤魔化すことなくあっさりと肯定されて、恥ずかしくなった。
紫色の石の向こうにルチアの瞳がある気がして、手の中に包み込む。
会いたいと思っている。
そして今、ルチアが目の前にいないことが、寂しい。
『俺としては、もっと言ってほしいなと思うけど?』
耳に聞こえる楽しそうな口調が、余計に胸に響く。
無性にルチアに抱きしめもらいたくなってしまい、サリーナはブンブンと首を振った。
「す、すみません」
『サリーナ?』
「何だか私、駄々を捏ねる子どもみたいで……」
寂しくなって。
会いたくなって。
抱きしめて欲しいだなんて、子どもだ。
音が聞こえない。
呆れてしまっただろうか、と唇をきゅっと結ぶ。
何か言わなければ、と考えるよりも早く、ルチアの声が聞こえた。
『もしもそれが本当だとしたら、俺は嬉しいです』
「うぇ!?」
『だってサリーナ、全然俺に甘えてくれないでしょ?』
「そんなことはないですよ!」
『あるよ。ワガママだって言ってくれないし。だから、駄々を捏ねてくれたとしたら嬉しいなぁ』
その声が、本当に柔らかくて、サリーナは返す言葉が見つからない。
だんだんと、くすぐったくなってくる。
その温もりに身をあずけ、サリーナはくすくすと笑う。
「嫌に、なりませんか?」
『ならないってわかった上で、聞いてるでしょ』
向こう側から聞こえてくる声も、楽しそうだ。
何となく、優しく目を細めているルチアの姿が浮かんだ。
通信機越しなのに、ルチアの表情まで想像できるのは不思議だと思う。
あぁ、とサリーナは吐息を漏らした。
ずっと、ルチアの言う「ワガママ」がどんなことを意味しているのかわからなかった。
サリーナの考える「ワガママ」は、宝石やドレスのような金銭的な物をねだったり、ルチアの都合を考えずに振り回したりと、身勝手なイメージが強かったのだ。
そのせいでどうしてもいい印象を持てなくて、ずるずると引き延ばしてきた。
だけど、もし。
会いたい。
手をつなぎたい。
抱きしめて欲しい。
側にいたい。
寂しい。
サリーナの心の中にあるこの気持ちを満たせるのは、ルチアだけだ。
そこには、ルチアの意思など関係ない。
間違いなく、全部サリーナのワガママだ。
ワガママだとわかっているのに、ルチアが嫌がることも、断るようなこともないと思っている。
その根拠もない。
「るち、あ、様」
サリーナの心音が大きくなった。
宝石に触れる指先が震える。
何だか、これは。
凄く。
「あ、の」
『サリーナ?』
不自然に言葉が切れたのを不思議に思ったのか、ルチアが名前を読んだ。
紫色の魔法石が、やけに光って見える。
自分の心に沸く言葉に、下から頭に向かって一気に血が巡るようだ。
「今度ではなくても、いいのですが。その、お会いしたら」
するりと言葉が滑る。
頬が熱い。
「抱きしめて、頂きたい、です」
それを口に出来たのは、通信機を挟んでいるからかもしれない。
こちらの気持ちを見透かすような紫色の瞳を思い出して、サリーナは手に力を込める。
「ワガママ、です」
息が詰まりそうになりながら、サリーナは最後まで言い切った。
自分の心臓の鼓動がうるさすぎる。
震える呼吸の中、一言も聞き漏らすまいと耳を澄ませた。
『えっと』
ゆったりとした声だ。
一度、大きく息を吐く音がした。
『それが、サリーナのワガママなの?』
「そうで、す」
『へぇ、そっかぁ』
ルチアの声が耳に響くたび、ふわふわとしてくる気がする。
小さく笑いながら『だったら、全力で応えないとなぁ』と言ってくれて、胸が熱くなる。
ワガママだ。
そして、ルチアに甘えている。
サリーナは、ルチアの父親を思い出した。
ルチアに甘えるなんて、どうしたらいいのかわからなかったけれど、思えばいつだってルチアに甘えていた。
何か理由があるわけではない。
何もないのに受け入れてもらえると、そう確信がある。
でなければ、自分が抱えている王家のことや家のことなど、話せるわけがない。
ルチアは嘘だと決めつけることも、無理やり聞き出すこともせずに、ただ話を聞いてくれた。
それがどれほど嬉しかったことか。
甘えることで、サリーナの方が助けてもらっている。
改めて「好きだなぁ」と気持ちが溢れてきて、じっとペンダントを見つめた。