サリーナ、痛感する
サリーナの精一杯の思いを込めて口にした言葉は稚拙で、意味も途切れてしまった。
訳がわからないことを言っている自覚もある。
後付けしないと意味がわからないかも、と息をしたときだった。
「俺、が。甘えたら、どうするの?」
ルシオの言葉が固い。
それでも返事が来たことが嬉しくて、サリーナは微笑んだ。
「私にできることがあれば、嬉しいです」
「……疲れてたら?」
「お邪魔でなければ、お呼びください」
そう言いつつも、少しだけ不安になった。
もしかして、あまりサリーナの思いが伝わっていないのではないだろうか。
ルシオは、婚約者であるサリーナに甘えるのが嫌なのかもしれない。
確かに一般的に言えば、女性が男性に甘えることはあっても、その逆はあまり聞かない。
だが、誰しも疲れることはあるのだから、誰にどんな風に甘えたっていいではないか。
もしや、幻滅されるとでも思っているのだろうか。
どうしようかと思い、サリーナはルシオの手に頬を寄せた。
「おそばにいますから」
繰り返す。
一番わかっておいてほしいことを、もう一度。
甘えてきたとしても、疲れを見せたときでも、ルシオのそばにいる。
無理をしないでほしいし、一人で突っ切っていかないでほしい。
その気持ちが強すぎて、頬を触れた手にすり、と口元を寄せた。
瞬間。
「あの、さぁ!」
「え」
荒げた声と共に、ぐ、と手を引かれた。
ルシオの紫色の瞳が、ぐんと近くなる。
「サリーナ。危機感は?」
「き、きき、え?」
「俺、危機感持つように、言わなかったっけ?」
「え、と」
「危機感。持ってねって、言ったよね?」
棘のあるルシオの声が、低い。
明らかに口調の強いルシオを前に、サリーナは慌てて考える。
いつの話だろう。
すっかりとどこかへ行ってしまっていて忘れていたが、そう言えばそんなことを言われた記憶がある。
「あ、え、はい」
何とか引っ張り出したものの、いきなりすぎて話の筋が読めない。
サリーナは、自分が持つべき危機感については自覚している。
人生をやり直しまくって手に入れた情報や魔力のことである。
それが今、この場で出てくるのは何故だ。
何のことだろう、と口を開こうとして、慌てて閉じた。
じっと見つめられて、息を飲む。
ルシオの雰囲気が、おかしい。
「わかって、ないでしょ」
低く言われて、サリーナは思わず目を見開いた。
何度も言ってるのに、とその言葉の奥で聞こえた気がして、震える。
聞き分けのない、幼い子どもを見るような瞳だ。
どうして、とサリーナはルシオを正面から見返す。
力を抜くと何かが緩みそうで、思いっきり息を吸い込んだ。
「わかりま、せん!」
ひっくり返った声に、ひくりと喉が震えた。
紫色の瞳から目をそらさずに、未だに繋がれた手を引き寄せた。
「ルシオ様がおっしゃっておられる、危機感が! わかりません」
叫んだら、目元がじわりと痺れた。
精一杯自分の気持ちを伝えたにも関わらず、この言われようは納得いかない。
先ほどまでとは明らかに違う震えが、サリーナを包む。
「わ、私はっ、その、自分の持っている知識の危うさはわかっています。でもそれは今、関係ないですよね?」
自分の気持ちのどこに、危機感を持てと言うのか。
大切にしてきた気持ちを雑に扱われたようで、目元が熱くなる。
距離の近さなど気にせずに、サリーナは声をあげる。
「私は!」
泣きそうになるのを堪えて、ルシオの手を握りしめた。
離すつもりはない。
「ルシオ様の、おそばにいたいと、思っている、だけです!」
真っ赤な顔で、ぜぃぜぃと息をするサリーナと対照的に、ルシオは落ち着いて息を吐いた。
「へぇ」
ひゅ、と喉がなる。
先ほどまで包んでいた熱が、一気に散った。
ルシオの表情は変わらないが、声音が明らかに違う。
とても、平坦だ。
「そっか」
何かを抑えた声に反射的に引いた手を、引き戻される。
決して強い力ではないが、離せない。
「ルシオ、様?」
何事だろうか、とサリーナはそろそろと尋ねてみる。
だがルシオは何も答えないまま、サリーナから視線を外す。
その唇が、小さく動く。
「わかってないよ、やっぱり」
そう言いながら向けられた瞳を見たサリーナは、目を見開いた。
表情は穏やかなのに、瞳が冷えている。
「いいよ、サリーナ」
ルシオが静かに笑う。
確かに笑っているはずなのに、背筋を冷たいものが走る。
言葉が出ない。
何が、起きているのだろう。
目を見開いたまま固まって動けないサリーナの耳元に、ルシオは口元を寄せる。
わざと、低く囁く。
「じゃあ」
不自然なほどに、サリーナの肩が跳ねる。
細い首筋に、黒い髪が触れる。
「照らし合わせて、おこうか」
掠れた声に、サリーナが小さく息を飲んだのがわかった。
顔を起こすと、揺れる瞳と目が合う。
その瞳を見つめたままゆっくりと口の端をあげたルシオは、柔らかな頬にある手をするりと滑らせた。
「ルシオ、様?」
ルシオの様子がおかしい。
そうはっきりと分かったサリーナだったが、何故いきなりルシオの雰囲気が変わったのかがわからない。
思わず謝りたくなったけれど、先ほど思いっきり「わかりません」と言い切っただけに、堪えた。
とりあえずだけで謝ったとしても、ルシオは納得しないだろう。
「え、と」
にっこりとした笑顔のルシオを前に、サリーナはやっと声が出た。
ルシオの冷えた瞳はサリーナに向いたままだし、いつの間にやら手が腕をつかんでいる。
とりあえず、近い。
現実逃避をしたくなって、サリーナはそっと身を引いた。
だが、頬に触れていたルシオの手が、肩を押さえた。
「何で下がるの?」
「話を、するには。不適切な、距離、かと」
「自分から近づいてきたのに」
軽く笑っているルシオだが、距離を取るのは認めそうにない。
声音は穏やかでゆっくりとしているのに、底知れない裏を感じさせる。
どうしよう。
ルシオが近い。
いつもなら嬉しくなるのに、今正面にいるルシオは、何かよくない気がする。
何がしたくてこの距離なのかもわからず、サリーナは視線を彷徨わせた。
「サリーナはさ」
困り果てたサリーナの耳に、ルシオのゆったりとした声が聞こえた。
ぱっと顔をあげたものの、すぐにびくりと震えた。
声はよく知るルシオのものなのに、目が笑っていない。
澄んだ瞳が、真っすぐにサリーナを見ている。
「俺の言ってる危機感が、サリーナ自身のことだと思ってるの?」
「そう、です」
頷けば「ふぅん」と、ルシオが笑う。
どこか楽しそうにも見えるのに、冷たさを感じてしまうのは何故だろう。
明らかに様子がおかしい中、片方の手がずっとサリーナに触れている。
頭から頬をなぞり、髪まで滑る。
くすぐったくて、サリーナは小さく震えてしまう。
身を震わせるサリーナを見ながら、ルシオは「あぁ、そっか」と嘆いた。
「父さんのせいか」
「は?」
「サリーナの持っている知識が危険だって言ったの、父さんでしょ?」
サリーナは瞬いた。
そう言えば、そうだったような気がする。
だが、先ほどルシオの父親とは無関係だと頭の中で追いやったので「覚えていません」とだけ小さく呟いた。
それを知ってか知らずか、ルシオは目を細めた。
「やっぱり、一発蹴り飛ばしておくべきだったなぁ」
「る、ルシオ様!?」
思わず声をあげた。
冗談かと思ったが、サリーナを見つめる瞳には嘘がなく、本気でそう思っているのだとわかる。
サリーナは口をぱくぱくとさせた。
ルシオは静かに口を開く。
「俺、気にしないって言わなかった?」
「え」
「手を出せる範囲なら、何もないのと一緒だからって。忘れちゃった?」
「そういう、わけでは」
「じゃあ、サリーナの言う危機感は必要ないよね」
あっさりと言われてしまい、サリーナはだんだん混乱してきた。
サリーナの知識や魔力がもたらすものは、どう考えても危ないことは間違いない。
だからこそ、サリーナはむやみに垂れ流すことのないように気をつけてきた。
それを、ルシオは気にも留めていない。
本当に、全く気にする様子もなく、サリーナの手を取っている。
「疑ってる?」
「そんなことは、ないです、けれど」
「俺と父さん、どっちを信用するの?」
綺麗な笑みで言われて、サリーナは詰まった。
ルシオはもちろんだが、ルシオの父親のことだって、特に何かを疑ったりはしてない。
先ほどだって、ルシオの父親はルシオのことを心配してくれていた。
そんな相手をルシオと比べるなんて、と思う。
だが。
「ルシオ様、ですからね」
サリーナは、声を絞り出した。
頬から降りてきたルシオの指先を、ぎゅっと握る。
「私は、ルシオ様の婚約者ですよ」
サリーナの答えなど、わかっているだろうに。
わかりきったことをわざと聞いて言葉にするなんて、意地が悪いと思う。
自然と眉が寄った。
「そういうところだよ、サリーナ」
サリーナはムッとしているのに、ルシオは小さく笑った。
少しだけサリーナが握った指先を、ルシオが絡めとる。
口調は軽く穏やかなのに、言葉にできないほど苦しくみえる意味がわからない。
サリーナは、引き寄せられるように口を開いた。
「ルシオ、様が、おっしゃっている」
するりと言葉がもれる。
「危機感とは、何のことですか?」
数回瞬いたルシオが、目を細めた。
一瞬ピリッとした空気をまとった後「そうだね」と微笑んだ。
少しだけ、言葉が切れる。
「サリーナ、立てる?」
「は、はい」
ルシオに手を引かれて、サリーナは立ち上がる。
椅子に座ったままのルシオが、下からサリーナを見上げてきた。
不思議な光景だな、とサリーナは場違いなことを考える。
ルシオは絡めていた指をほどき、右手で奥を差した。
「あそこ、座って」
ルシオの指先を追いかけたさきに、ベッドがある。
意味が分からずにルシオを見るが、薄く笑ったルシオはそれ以上何も言わない。
そろそろとすき間を抜け出して、サリーナはベッドの横まで歩く。
もう一度ルシオを見るが、変わらない。
「失礼、します」
とりあえず、とサリーナは体を小さくしてスカートを折る。
そのまま、浅く腰かけた。
「あの、これが何か?」
ルシオが何も言わないので、こちらから声をかける。
わざわざ声をかけたというのに、ルシオは小さく息を吐いて、困ったように眉を寄せた。
「……何で、座っちゃうかなぁ」
何で?
何でと、言われても。
「ルシオ様が、おっしゃられたのでは……?」
サリーナの口から、つぶやきが漏れた。
ルシオが座れというから座った挙句、何でと言われるとは思ってもみなかった。
さすがに理不尽すぎる気がする。
「いくら私でも、行儀がよくないことぐらい、わかっておりまし、た、よ?」
「うん、そんな認識だろうと思っていました」
言葉が途切れたのは、ルシオがゆっくりと近づいてきたからだ。
反射的に立ち上がろうとしたサリーナの肩を、ルシオの手が上から押さえた。
「行儀、ねぇ」
そう言ったルシオの瞳がかげる。
口元は笑っているのに、まとっている空気が重たい。
ルシオの名前を呼びたいのに、声が出ない。
「そうじゃ、なくてさ」
とん、と肩を押さえていたルシオの手が、サリーナを押した。
いきなりのことに、ぐらりと傾いたサリーナは、そのまま後ろに倒れ込む。
くるりと視界が回る。
「え」
背中に柔らかいものがあたる。
目を開けると、視界には薄茶色の天井がめいっぱい広がっていた。
「え、な」
起き上がろうとしたサリーナは、目を見開いた。
ルシオの両手が、サリーナのそれぞれの手首を押さえている。
「え、え?」
「ここ、俺のベッドだよ」
「そう、ですね?」
この部屋がルシオの私室ならば、ベッドはルシオのものだろう。
それが今、何の関係があるというのか。
ぐ、と手に力を込めてみるが、全然動かない。
「無駄だよ、サリーナ」
サリーナの上に、影が出来た。
見下ろすルシオは、子供に言い聞かせるように、優しく「無駄だよ」と繰り返す。
押さえ込まれたサリーナは、口を震わせた。
「どど、どうされたんですか?」
「どうって。わからないみたいだから、ちょっとね」
「ちょっと!?」
人を突き飛ばしておいて、ちょっと?
サリーナは慌てて、首を右へと向ける。
押さえつけられた手は、抜けそうにない。
ぐいぐいと、サリーナは腕を動かした。
「ルシオ様! 退いて下さらないと、起き上がれないです!」
「わざわざ押し倒してるのに、退くわけないでしょ」
「押し倒っ!?」
あまりの言葉にぎょっとした。
慌てて視線を横へと向ければ、押さえつけられている右手首が見える。
上へと向ければ、口元だけ笑っているルシオがいる。
かぁっと、サリーナの顔が赤く染まる。
「う、え!? ま、待ってください!」
「今更?」
「ここここ、この態勢はよくないです、よくないですよ!」
ルシオの言葉を無視して、サリーナは必死でルシオの腕から抜け出そうともがく。
押し倒しているのだ、ルシオが。
そのルシオに押し倒されているのは、自分だ。
「ルシオ様!」
首をあげて、さらに引きつった。
ルシオの体は半分ベッドに乗っている。
これ、は。
「何、で」
「さぁ、何でだろうね」
涙目になってきたサリーナを見て、ルシオが艶やかに笑った。
楽しそうにサリーナを見下ろす。
「そんなに動くと、めくれるよ」
「なっ!」
そう言えば、スカートだった。
右足がベッドに乗っている感覚に、ぴたりと動きを止めた。
「ルシオ様、こんな。どう、して……」
「俺はねぇ。ずっと、ずーっと」
そこまで言ったルシオが、困ったように笑う。
声のトーンが、すとんと落ちた。
「危機感を持ってほしいと、思ってたよ」
この状況で、何を言い出すのか。
ルシオの静かな瞳が自分を見下ろしていて、サリーナは身震いした。
「俺、男なんだよ」
そんなことは知っている、とサリーナはこくこくと頷いた。
とても「知っています」とは、口に出来なそうにない雰囲気に呑まれた。
薄く笑うルシオは、恐ろしく艶がある。
息を飲むサリーナを見つめる瞳が、ゆっくりと細くなる。
「男なんだよ、サリーナ」
紫色の瞳が瞬いた瞬間、その奥にとろりとした熱を感じた。
それをはっきりと知覚し、サリーナは唇を震わせた。
さぁっと血の気が引く。
まさか。
「き、危機感、という、のは」
この状況は、どう考えても危ない。
顔色の変わったサリーナを見て、ルシオは満足そうに微笑んだ。
「そうだね」
ルシオが手に力を込めた。
押さえつけられた手首が、布団に沈む。
「本当に無防備に煽ってくるからさ。俺は、どうしたらいいのかわからなかったよ」
「ち、違います、そんなつもりはなかったんです!」
「うん、それもわかってる」
口調は穏やかなのに、ルシオの瞳は甘くサリーナを見つめる。
その熱が、サリーナの動きを奪っていく。
「でも、何度も危なかったよ」
何度も。
衝撃すぎる事実に、サリーナは呆然としてしまう。
そんな予兆、どこにあったというのか。
驚いているサリーナを見て、ルシオは苦笑した。
「警戒されても困るけど。危機感は、持ってもらいたかったなぁ」
ゆったりと言いながら、動けずにいるサリーナの右手を取り、サリーナの口元へと持っていく。
そのまま、サリーナの手ごと押さえて、口をふさいだ。
「ごめん、サリーナ」
訳が分からずにそのままになっているサリーナの手を、優しくなでた。
「ごめん、俺……」
そう言われても、何のことだかわからない。
口を押えているので言葉も出せずにいると、ルシオの瞳が近づいた。
「手、離したらダメだよ」
「え」
「声は出してもいいけど。手を離したら、それがスイッチになるから」
ぎくり、とサリーナの肩が跳ねた。
それをゆるりと確認したルシオは「絶対に、離さないでね」と告げて、そのままサリーナの首を舐めた。
「ひっ」
小さな声が漏れた。
逃げようとする顔を片手で押さえつけて、ルシオは唇を落とす。
「る、え!?」
止めようとした声が、かき消された。
首もとの感覚に思考があちこちに飛んで、消えていく。
ぎゅぅ、と目を閉じて、サリーナは口元を覆う右手に顔を押し付けた。
体が跳ねる感覚を、サリーナは知っている。
これは。
この、感覚、は。
漏れる声を必死にこらえ、サリーナは頭を振った。
逃れようともがくが、ルシオの方が、力が強い。
そうしている間にも、ぶわりと浮き上がる感覚に、力が抜けていく。
サリーナは、押さえつけた手のすき間から何とか息を吸い込もうと、肩を揺らす。
この感覚に身を委ねてしまったら大変なことになると、それだけで耐える。
押さえつけられた左手にルシオの指が触れ、握り込まれる。
それにすがりながら、サリーナはとにかく息を吸った。
じんわりと頭の奥が痺れる。
それがゆっくりと広がっていく頃、ルシオの吐息が耳を掠めた。
「可愛い」
口から、くぐもった声が漏れた。
ルシオの手が、サリーナの頭をなでる。
さらり、と髪が揺れるのを感じて、サリーナは漏れそうになる声を堪えた。
混乱している頭では、何も考えられそうにない。




