サリーナ、聞く
ルシオの父親と対面するのは、あのフィゲロ勝負依頼である。
あの時とは状況も雰囲気も違う。
二人の間の空気は穏やかだが、サリーナの心は騒めいていた。
ルシオの父親の言葉は、聞き逃せるようなものではない。
父親がカップを手に取った。
瞳が優しくなる。
「私は、ただ。ルシオのことを、よく見ておいて頂きたいだけですよ」
父親の言葉に、サリーナは瞬いた。
思っていたような話とは、方向性も内容も違いすぎて、頭の中まで言葉が降りてこない。
ゆっくりと呼吸をしながら落とし込む。
だが、その言葉の裏がわからない。
「その意図を、お伺いしても?」
「今アレは、ブレーキが効いていません」
何てことのない態度で、ルシオの父親はお茶を飲む。
深く息を吐いて、肩を竦めた。
「少し前までは、私の手の届くところにいたんですよ」
「今は違うと?」
「そうですね。何か目的があって、加速しています。それも、もの凄い速さで」
あっさりと告げられた言葉に、サリーナは息を飲んだ。
思い出すのは、先ほどまで手をつないでいたルシオの姿だ。
サリーナよりも少し低い体温が心地よかった。
「そ、れは」
いつから、どうして。
何も、変わらないと思っていた。
眼差しも言葉もよく知るルシオのもので、そんなことは気付きもしなかった。
「あなたにしか見せない顔もあるでしょうからね。よく見ておいて頂きたいんです」
ルシオが加速する程の、何かがあったとして。
それを、サリーナが気づかないとすれば。
否、ルシオが気付かせないようにしているとすれば。
「原因は、私、ですね」
唸るようなサリーナに、ルシオの父親は眉を寄せて笑った。
それが答えだ。
唇を震わせたサリーナの顔色が、一瞬にして白くなる。
その表情からどれほどルシオを大切に想っているかが伝わり、ルシオの父親は口の端をあげた。
「アレも男ですからね、婚約者には見せたくない顔もあるでしょう」
「ですが、私と出会っていなければ」
「過去は変えられません」
あっさりと重ねられて、サリーナは俯いた。
後悔して、いくら過去を振り返ったところで、なかったことにはできない。
それが普通の感覚だ。
だが、サリーナにはそれができる。
人生をやり直しまくったサリーナが手に入れた、異次元の魔力。
それを使えば、何もかもをやり直すことができる。
ルシオと全く関係を持たない未来を、サリーナだけは作ることができるのだ。
そこまで考えたサリーナだったが、振り切ってぎゅっと唇に力を込めた。
顔をあげる。
「よく見て。異変に気付いた場合は、どうしたらよいと思われますか?」
サリーナは、魔法は使わない。
過去からやり直すということは、ルシオとの日々をすべて捨てることになる。
それがルシオのためだとしても、サリーナ自身が受け入れられそうにもない。
たったら、出来ることを考える。
答えを自分で探そうとしないサリーナの質問ではあったが、ルシオの父親は気にすることなく肩を竦めた。
「声をかけてやってください。例えブレーキが壊れても、あなたの言葉なら届く」
柔らかな声で言う、父親の信頼が痛い。
サリーナは、ごくりと息を飲んだ。
ルシオの父親がここまで言うということは、サリーナならできると思っているからだろう。
変化に気付き、言葉で止めることができると信じているからこそ、わざわざルシオを遠ざけてサリーナに話をしてくれている。
その信頼に答えたい。
それがルシオにつながるとならば、絶対に。
そう思うのに、サリーナの口からは肯定的な言葉が出ない。
「お話は、わかりました。ですが」
サリーナは、一度言葉を切った。
ぎゅっと制服のスカートを握りしめて、そろそろと視線をあげる。
「私、は。ルシオ様の、些細な変化に気づける自信が、ありません」
せっかくここまで信じて、頼ってもらえているというのに、情けないと思う。
ルシオが大切なのに、何かあれば気づけるかと言われても、自信を持って頷くことができない。
今だって、ルシオの父親に教えてもらうまで、何も気づいていなかった。
表情も声も態度すら、サリーナの良く知るルシオだと思っていた。
サリーナの視線や指先一つを気にかけてくれるルシオに対し、サリーナは何も返せない。
手に触れるただそれだけが、どれほど難しいことか。
「私の声が届くかどうかも。お約束、できません」
サリーナは、基本的にはルシオの行動に口を出さないつもりでいる。
一方で、ルシオは、話の筋が読めないサリーナに対して、話を切ってしまうことがある。
サリーナが困惑しているのがわかっているのに「それでいいよ」と切ってしまうルシオに、自分の言葉がどれほど届くのかなんて予想もできない。
何もかも、希望的観測すぎる。
「ルシオ様は、いつも落ち着いていらっしゃいますから」
「んん?」
「焦って慌てるのはいつも、私、ばかりで」
こんな、情けない話は言いたくない。
幻滅されただろうか、とそろそろと視線をあげると、目を丸くした父親がいた。
「あいつ、そんな感じですか?」
「え?」
「そんなに落ち着いてます?」
意味が分からない様子の父親に、驚いたのはサリーナだ。
訳もなく瞬いた。
「ルシオ様は、いつも落ち着かれていると思います」
「いつもですか?」
「そう、ですね」
「……慌てたところは見たことがないと?」
「全くない、とは言いませんが。常に冷静でいらっしゃるので」
「ほーぅ、そうですか」
ルシオの父親は、サリーナから視線を外す。
右手を口元に持っていき、何かを考えている。
父親にとって、ルシオは息子だ。
そして、サリーナにとってルシオは婚約者である。
立場が違えば見方も変わるので、二人の印象が違っていても当然だ。
サリーナが思わず「すみません」と口を開こうとしたときだった。
「あなたの言葉が、どれほどあいつに響くか試したことはあります?」
「は?」
「ないですよね?」
確信めいた表情で言われて、サリーナは頷いた。
恥ずかしがるのはサリーナばかりで、ルシオにどれほど響いているのかわからない。
父親はにやりと笑う。
意地の悪い笑みだ。
「婚約解消したいって言ってみたらどうです? 確実に慌てふためくと思いますよ」
「ほほ、本気だと受け止められたら困ります!」
サリーナは引きつった。
ルシオがあっさり「わかった、いいよ」と言ったらどうしてくれるのか!
慌てて「嘘です」等と否定したところで、元に戻れるはずもない。
一度崩れた信頼関係の修復は、絶望的である。
両手を握りしめてぶるぶると震えるサリーナを見て、父親は目を細めた。
「えぇと。懸念事項はそこですか?」
「そんなことを信じてしまわれたら、どうしたらいいのか……」
「その場合は、何よりも先に、身の安全の確保が必要だと思いますけど」
「そこまで嫌われる可能性が!?」
「んー? そういう認識なんですねぇ」
ルシオの父親は、椅子に背を預けた。
顔色の悪いサリーナを見ながら、そういうことかと、自分の息子を脳裏に思い浮かべた。
これは我が息子かサリーナか、どちらに問題があるのやら。
意図しているのは息子だろうな、と父親は嫌そうな顔をしている息子を頭から追い払った。
そんなルシオの父親に気付かず、サリーナは震える口を開いた。
「例え、嘘であり冗談だとしても。そういったことは口にしたくはありません」
サリーナは、実際に婚約解消をした貴族令嬢である。
その手続きのやり方も簡単さも、どうすればいいのか実際に知っている。
一度実行したことがある人間の言葉は、重みが違う。
「私自身、正面から口にされたら、とても……」
サリーナはぐっと唇を結んだ。
ルシオが冗談で口にすることを想像しただけでも、とても苦しい。
一方で、サリーナのためにと考えてくれた、ルシオの父親の提案を蹴ってしまったことへの罪悪感も残る。
「申し訳、ありません」
「いえいえ、謝らないでください。今のはサリーナ嬢のお気持ちを考えなかった、私に問題がありました」
軽率すぎたな、と父親の方が、頭をさげた。
サリーナはふるふると首を振りながら、もう一度口を開く。
「今の私では、自信を持って頷くことはできませんが。お言葉、胸に止めておきます」
ルシオをよく見ておくこと。
何か違和感があったときに声をかけられるよう、しっかりと見ておかなくては。
「そこまで背負うようなことではないですよ」
体を固くするサリーナに、ルシオの父親が優しく声をかける。
ぐいっと高級茶を飲み干して笑う。
「こちらでも引っ張りますので。ただ、互いに見えている面が違う以上、手数は多い方がいいというだけです」
「……ありがとうございます」
「あまりに捕らわれすぎると、ルシオに違和感を持たれかねませんしね。頭の片隅にでも入れておいていただければ、十分です」
「はい」
頷いたサリーナの顔色は、今でもやはり青白い。
ルシオの父親はそんな彼女を眺めながら「うーん」と唸る。
素直さが一周回って、深刻に捉えられてしまっている。
自分自身を発端に、ルシオが突っ走っているのがそんなにショックだったのか。
原因がサリーナなのは事実なので否定はしないが、ルシオは好きで加速しているだけなので、父親としてはその辺りは気にしていない。
父親があくまでサリーナに声をかけたのは、勝手に一人で突っ走っているルシオの足を止めるために過ぎない。
父親が壁になって止めてもいいが、嫌な顔をされて振り払われるだけだろう。
ルシオ自身が気づいて立ち止まるためには、サリーナに協力してもらうのが一番早いというだけだ。
「サリーナ嬢」
名前を呼べば、サリーナが顔をあげた。
不安そうな瞳の奥に、決意が灯っているのがわかる。
息子は本当に、バカだと思う。
彼女にいろいろなことを隠し、こちらには黙ったまま速度をあげたせいで、自分の首を絞めている。
そんなことをしているから、父親がサリーナに接触する隙間を作ってしまったのだ。
顧みる重要さを、ルシオは理解した方がいい。
「私から話をしておいて今更ですが、本当にルシオを気にかけて頂ければ十分なんですよ」
とりあえず、繰り返しておく。
サリーナの瞳が揺れた。
「ルシオ自身が、サリーナ嬢が気にかけていることを認知すればいいんです。そのきっかけは、言葉でも態度でも。要は、何でもいいんですよ」
「……それで、プレーキがかかるものでしょうか」
「かかりますよ、間違いなく」
ゆったりと告げられた言葉に、サリーナは視線を彷徨わせた。
いかにも簡単そうに聞こえるが、あえてどうすればいいのかと考えると難しい。
加速しているルシオが、足を止めるような言葉も仕草も思い浮かばない。
自分があまりにも不甲斐なくて、悔しい。
サリーナは、きゅっと眉根を寄せた。
「具体的な、ことが。今すぐには浮かびませんが、考えます」
「そうおっしゃらずに。どうぞ、もっと力を抜いてください」
向けられたルシオの父親の視線が優しくて、サリーナは戸惑ってしまう。
期待に答えられるような返事はしていないのに、ルシオの父親はサリーナを責めたりしない。
父親が、小さく笑う。
「一つ。助言としてお伝え出来ることが、あるにはあります」
「え」
「方法はあなた次第ですし、その結果は自己責任ですけれど。お聞きになりますか?」
「もちろんです!」
サリーナは食い気味で叫んだ。
一人で考えてもわからなくておかしな方向にいくよりも、ルシオの父親の手を借りる方が、きっとルシオには近い。
だが、ルシオの父親は苦笑する。
「私は責任を取りませんよ。重ねて申し上げますが、あくまで自己責任です」
「……はい」
「絶対に私の名前は出さないと、お約束して頂けますか?」
サリーナは戸惑う。
そこまで言われると、少し怖くなってきた。
相手はあのルシオの父親だ、何もないのにこんなことは言わないだろう。
何か恐ろしいことだったらどうしよう、と考えるサリーナの前で、父親は「誤解をなさらないでくださいね」と、右手を振った。
「私が口添えをしたことを、ルシオには秘密にして頂きたいんです」
「そんなに」
「いい気はしないというだけですよ。どうするかは、聞いてから決めれて頂ければ」
「…………はい」
自然と、ごくりと喉がなった。
ルシオの父親がここまで自己責任と言うことは、多少なりともリスクはあるのだろう。
それでもルシオのためにできることは、知っておきたい。
「方法は二つありますけどね、結局のところ着地点は同じですよ」
揺れるサリーナの心を読んだように、父親がそっと口の端をあげる。
そのセリフはとても短く簡単なように聞こえるけれど、あまりにも衝撃的なものだった。
ルシオの父親は言いたいことを告げた後、てきぱきとティーセットを片付け始めた。
そして、自分の痕跡を消すことも忘れない。
「私は、この部屋には来ていませんからね」
そう言いながら、手早く自分の痕跡を消していく。
仲がいいのか、悪いのか。
頷きながらも、サリーナはそれを邪魔しなかった。
ルシオと父親の関係性は、サリーナにとって不思議そのものである。
机の上を綺麗に片付けた父親は、今度はサリーナにだけお茶を入れる。
「ティーセットはおいておきます。ルシオが戻ってきたら一緒にどうぞ」
「ありがとうございます」
「持ってきたのは、支店長ですよ」
「はい」
とりあえず、ルシオの父親と話をしたことは秘密にしておかねば。
サリーナはルシオの父親には会っていない、ということで頭の中に整理をつけた。
部屋の中、また一人となったサリーナは、ドアを見つめた。
心配を焦燥と不安と、いろいろなことが胸中で混ざって落ち着かない。
眉根を寄せたまま、サリーナは机の上にあったカップに手を伸ばす。
考えなくては。
ルシオが、戻ってくる前に。
冷えた指先に触れたカップは、温かかった。




