サリーナ、待つ
雲一つないすっきりとした空と違い、サリーナの心は沈んでいた。
沈んでいたというよりも、落ち着かなかった。
昨日はうまく眠ることが出来ず、朝食も昼食もあまり食べられなかった。
周囲に心配をかけてしまっているとはわかっている。
皆、今日はルシオが王宮に行くことを知っているので、そっとしておいてくれている。
「ルシオ様はしっかりとされておられますから、王家の方々も驚かれていらっしゃるに違いありませんよ」
そう言ってくれる執事の言葉はありがたいが、そこではない。
魔の巣窟としか思えない王家が、怖いのだ。
王家の裏はサリーナしか知らないのだから仕方がないのはわかっていても、一人だと耐えられそうになかった。
落ち着いてしまうと、自分の心が引っ張られるのがわかる。
怪しまれないようにと庭を歩いてもみたが、気づけば唇に力が入ってしまう。
コンラード商会の馬車が迎えに来てくれても、本店に到着しても、気持ちはモヤモヤとしたままだ。
迎えてくれた店長が、サリーナの顔を見てそっとほほ笑んだ。
執務室まで案内してくれた店長は、振り返る。
「お二人とも全力を尽くしておられます。待っているだけというのは辛いですが……私は戻られたときに笑顔で迎えられるように、と思っているのですよ」
そう口にする店長は、何をどこまで知っているのだろうか。
ただ自身も気になるだろうに、サリーナの気持ちに寄り添ってくれる優しさには感謝する。
サリーナしかいないルシオの執務室は、とにかく静かだ。
どうしたらいいのかわからず、とりあえず前回座ったソファに腰を下ろす。
あまり見渡すのも失礼な気がして、前を向く。
何やらたくさん物が乗っている机に目をやると、その一番上に、紙がおかれてあった。
お茶とお菓子、食べてね。
本もおいておきます。
机の上の書類は、意見を聞きたい案件です。
ルシオの綺麗な字が並んでいる。
サリーナの少し丸みのある字と違い、ルシオの字はお手本のようだ。
商人として、少しでも揚げ足を取られないようにしているのだろうか。
凄いなぁ、と純粋に思いながら、サリーナは机の上を見た。
横に置かれてある白い箱をそっと開けると、ティーセットとケーキが入っている。
積み重ねられた本の山と、まとめられた書類。
きちんと小分けにされている辺り、ルシオの性格が出ているなと思う。
「書類から、読もうかしら」
静かな部屋で一人は居心地が悪すぎて、思わず声が出た。
あまり動くのも迷惑になる気がして、サリーナはとりあえず書類を引き寄せる。
ルシオがサリーナに意見を聞きたいだなんて、珍しい気がした。
重なった一番上の書類を手にしたサリーナは、パッと飛び込んできた文字に目を丸くした。
思わずその下をパラパラとめくって追いかける。
やがて全体像が見えてきたところで、サリーナは思わず笑ってしまった。
それは、ルシオがサリーナと一緒に行きたいと考えている場所のリストだった。
「こういうところが、ずるいのよ」
何かが溢れそうになり、胸元をぎゅっと握る。
服越しに感じるネックレスが、ルシオを近くに感じさせてくれる。
大丈夫。
大丈夫だ。
深呼吸をしたサリーナは、ソファに深く腰かける。
そして、ぺらりと一枚紙をめくった。
途中で店長が「良かったら、ご一緒しませんか」とお茶に誘ってくれた。
ルシオが準備してくれたお茶もケーキも口にしていないサリーナだったが、もちろん頷く。
「本当は、執務室には入りたくないんですけどね。見たくもないものが、たくさんありそうでしょう?」
準備をしながら、他愛もない話をふってくれる店長には、改めて感謝である。
コンラード商会の店長をしているだけあって、話をするのも聞いてくれるのもとても上手い。
店長は幼い頃からルシオのことを知っているようで「内緒ですよ」といろいろと教えてくれた。
父親にフィゲロ勝負で負けてしまい、悔しすぎて夕食も取らずに一人で部屋にこもっていたこと。
その翌日、泣いたせいか腫れた目をして店長に教えを乞うてきた時には、負けず嫌いに驚いたそうだ。
サリーナは、聞いてはいけないものを聞いてしまったような気持ちになる。
目を真っ赤にしたルシオなど想像できなくて、何だか知らない一面を除いたようだ。
店長が話をしてくれているということは、聞いていい話なのだろうけれど、ドキドキと心臓がなる。
「あれからぐんぐんと腕をあげられ……今ではもう、私では太刀打ちできませんよ」
「自己研鑽を積まれたんですね」
「私も、見習わねばなりません」
苦笑いの店長に、サリーナは笑みを浮かべる。
「私も、ルシオ様にお相手をお願いしたことがあるんですよ」
「そうでしたか」
「何もできずに終わってしまったのですけれど」
思い出したら、項垂れてしまう。
ついでに、あれこれ言われた恥ずかしさも蘇ってきて、サリーナは慌ててお茶で流し込んだ。
「サリーナ様も、フィゲロを嗜まれるんですね」
「嗜むと言うほどのものではありません。目下、練習中の身です」
弱すぎて、嗜むなどというレベルではない。
苦笑するサリーナに、店長は優しい瞳を向けた。
「とてもわかりやすい本を入手したんです。良ければ、お持ち致しますよ」
「そんな、とんでもありません。わざわざお手数をおかけするつもりはないのです」
「先日取り寄せたものになるのですが、好評なんですよ。ぜひご覧になってくださいませ」
そう言った店長に、話を流された。
お茶を片付けた店長は、その後フィゲロ本体と本を持ってきてくれる。
受け取ったサリーナは、眉を下げた。
「あの、お代はお支払い致します。後ほどでかまいませんでしょうか」
「お気になさらずに。こちらは、私どもからの贈り物とお考え下さいませ」
「そんなこと! 何もしていないというのに、受け取れません」
慌てた様子のサリーナを、店長は微笑みながら見つめる。
幼少期からよく知るルシオにとっての、たった一人の大切な婚約者。
この婚約者のためにルシオが何をしているのかは、ほんの少しだけ知っている。
女性に対して淡泊なルシオが、彼女のためなら手をかけることを惜しまない。
小柄で表情が豊かな彼女が持つ何かが、ルシオの原動力になる。
「また、お二人でフィゲロをする時間を取って頂ければ十分でございます」
「……え」
「あの方は、あなたと出会ってから、毎日とても楽しそうです。サリーナ様とのお時間は、かけがえのないものだと思いますよ」
本とフィゲロを見つめたサリーナは、そろそろと店長を見上げた。
その頬がゆっくりと染まるのを見ながら、店長は笑みを深めた。
この素直なところが、ルシオが彼女を大切にする理由の一つなのだろう。
貴族の御令嬢というよりも、育ちのいい箱入りの平民に近い感覚だ。
「ありがとう、ございます」
サリーナは頭を下げる。
店長は目を細めて、小さな頭を眺めた。
身分はサリーナの方がはるかに高いのに、こうやって丁寧にお礼を口にできるし、態度でも気持ちを表現できるのも、彼女の所以か。
いずれルシオと結婚すれば、彼女も商会に関わるのだろう。
元々従業員に対しても印象のいい彼女なので、溶け込むのは早そうだ。
思わず「練習相手にもなりますので」と言いかけた店長は、慌てて口を結んだ。
ルシオの機嫌が下がりかねないことは、やめておいた方が無難である。
頭を下げ廊下に出た店長は、閉めた扉を見つめて目を閉じる。
どうか、ご無事で。
皆、お待ちしております。
願うことしかできないのは、とても歯がゆくてもどかしいことだった。
執務室で再び一人になったサリーナは、本を眺めた。
出版元がこの国ではない。
サリーナのために、わざわざ取り寄せてくれたのではないだろうか。
ルシオなら、ありえる気がした。
本を見つめたまま、サリーナは先ほどの店長の言葉を思い出した。
「かけがえのない、もの」
ルシオがサリーナをどれほど大切にしてくれているかは、わかっているつもりだ。
数えきれないほど、たくさん助けてもらってきた。
サリーナの人生がルシオに出会って大きく変わったように、サリーナもルシオに少しでも返すことができていればいい。
ルシオには到底及ばなくても、一緒に楽しめるぐらいには強くなれるだろうか。
頑張ろう、と意義混んだサリーナは、ページをめくってみる。
とても大きなイラストで、ルールの説明から書かれている。
初心者向けの本の中でも、特にわかりやすいものを選んでくれたのではないだろうか。
感謝の気持ちを込めて、サリーナは黒い駒を手に取った。
おかしいな、と気づいたのはそれから大分過ぎてからのことだった。
一生懸命フィゲロと向き合っていたサリーナは、窓の方に目を向ける。
やけに外で鳥が鳴いている。
窓を見ても、ここからではよくわからない。
そろそろと立ち上がり、出来る限り周囲の物を見ないようにして窓に近づいてみる。
勝手に窓を開けるわけにもいかず、首を横にして空を見上げたサリーナは息を飲んだ。
王家の鳥だ。
見覚えのある、良く知る王家の鳥が数羽見えた。
その後ろから、何故か黒い鳥が追いかけているように飛んでいる。
「え? だ、大丈夫なのかしら」
思わず言葉が漏れてしまったのは、自分自身が王家の鳥をよく知っているからだ。
黒い鳥が集団になり、王家の鳥を追い回している。
こんな光景は、初めて見る。
あの黒い鳥は、どこから飛んできたのだろうか。
目を凝らして、素早く動く鳥を追いかけていたサリーナは「あ」と声をあげた。
あの黒い鳥は、コンラード商会の子飼いだ。
しかも、ただ追い払おうとしているわけではない。
くるりと旋回して隙を見せて、商会に近づこうとしたら猛攻をかけている。
連携もとれていている相手に、王家の鳥は太刀打ちできない。
「何かあったということ……?」
サリーナは、建物の隙間を飛び交う影を、じっと見つめた。
王家は、それぞれ個人で鳥を飼っているが、細かく操ることができるのは、王と王妃だけだ。
ここまで追跡をしてきた鳥たちが、襲われながらも逃げずにいるのは、操られているからだろう。
ここまでして追跡をかけているということは、何らかの思惑がある。
一方のルシオの父親も、対策をうっている。
コンラード商会の情報網は、人だけで成ってはいない。
その事実をサリーナが知ったのは、いつかの人生で大人のルシオと出会ったときだ。
その人生ではサリーナも、ルシオと同じく商会を運営していた。
規格外の魔法を容赦なく行使して、好き勝手に自由にやっていたわけである。
コンラード商会は、そのときのサリーナにとっては商売敵であり、煙たい存在だった。
とにかく正確な情報を手に入れるのが早く、多岐にわたる情報網に何度もしてやられた。
悔しくて情報源を調べて知ったが、当時ルシオが主に使っていたのは、動物だった。
鳥やネズミ等、様々な動物を、魔法石で調教するのだ。
もう、驚きである。
サリーナ自身、王妃時代には鳥をつかってやり取りをしていたので納得できるが、犬や猫は聞いたことがなかった。
ましてや、ネズミは問題外である。
貴族であればネズミは害獣の一種として認識しており、邸宅には害獣除けの魔道具をおくほどだ。
コンラード家の子飼いたちは、そんな魔道具など気にすることなく、人がとても入れないような隙間や場所にするすると入り込み、情報を得てくるのだ。
サリーナも魔法で妨害をしたことがあるが、相手が動物なので把握が難しく、すり抜けられたことが何度もあった。
もちろん、第三者の協力者もいる。
動物と人と魔法をうまく組み合わせて、コンラード商会の情報網は成り立っているのだ。
あれだけ魔法を使いまくったサリーナが手をこまねいたコンラード商会の子飼いを、王家の鳥が抜けられるとは思えない。
「ケガをする前に、諦めてくれたらいいのだけれど」
思わず声が出るが、無理だろうことはわかっている。
命令を下された王家の鳥は、その命が取り消されない限りは、忠実にそれを守ろうとする。
空を見上げていたサリーナの耳に、馬の鳴き声が聞こえた。
「あ」
ぶわり、と体温があがり、思わず身を乗り出す。
何も見えないし馬車の音も聞こえないけれど、確かに馬の鳴き声がした。
「戻られたんだわ」
ぱっと振り返ったサリーナは、慌ててソファまで戻りすとんと座る。
今更心臓が痛くなってきた。
特に何かをしていたわけでもないのに、フィゲロを片付けて机の端に置く。
本を手にして考える。
店長は贈り物だと言っていたのだから、気にしなくていいのだろう。
頷いて、鞄の中に乱雑に押し込んだ。
書類も本もまとめて重ね、整理する。
「……心臓が、痛い」
手のひらに汗が滲む。
じっとしているのも辛いけれど、いつ誰が入ってくるかわからない今動くのもためらわれた。
しばらくして、ノック音がする。
驚きすぎて、ぴょんと飛び上がったサリーナは、慌てて「はい!」と声をあげる。
顔を出したのは、店長だ。
「今、お二方とも戻られました。もう少々お待ち頂ければと思います」
「もちろんです」
「とてもお元気そうですよ」
店長の顔にも、ホッとしたような安堵さが見て取れた。
自然の笑みが零れる。
「お忙しい中、わざわざ教えてくださってありがとうございます」
逸る気持ちを抑えながら、サリーナは頷く。
帰宅したことがわかっただけでも、十分だ。
閉まったドアを見つめる。
サリーナは吐息をつきながらソファに沈み込んだ。
ふ、と呼吸を整えて気づく。
鳥の声が聞こえない。
反射的に窓を見るが、よくわからなかった。
二人が戻ってきた途端に消えた、鳥の鳴き声。
ごくりと息を飲んだ。
役目が終わったからか、勝負がついたからか、どちらだろうか。
そこまで考えたサリーナは、頭を横に振った。
胸元のネックレスを握りしめて、ぎゅぅと目を閉じる。
大事なのは、そこではない。
先ほど見た店長の表情は、本物だ。
ルシオも父親も、無事なことは間違いないだろう。
今一番気にかけるべきことは、ルシオとルシオの父親のことだ。
無事に戻られた。
本当に、良かった。
震える呼吸を整えながら、サリーナはどこともわからない神に感謝した。
早くお会いしたい、と思う。
うるさくなってきた鼓動を抑え、サリーナは大きく息を吐いた。




