サリーナ、報告を受ける 前編
机の上を無駄に綺麗にそろえてしまったところで、やることがなくなった。
ソファに腰をかけて行儀よく手を組んだものの、視線だけが彷徨ってしまう。
ソワソワしながら待つこと数分、ノック音が聞こえた。
震える声で「はい」と返事をしながら無意識に立ち上がったサリーナの目の前でドアが開き、黒髪が揺れる。
サリーナのよく知る瞳がこちらを向いて、ぱっと笑顔が浮かぶ。
「ごめん、遅くなって」
いつもと変わらない、柔らかな声。
「サリーナ?」
「つっ、る……」
名前を呼ぼうとしたのに、息が詰まった。
はしたないと思いつつも駆け寄ったサリーナは、驚いた様子のルシオの頬にそろそろ手を伸ばす。
何故か触れるのが怖くて、ぎこちなくなってしまう。
すっかりと冷えた指先がルシオの頬に触れた瞬間、胸が締め付けられた気がして唇がわなないた。
「何っ、で!」
叫ぶような声が聞こえて、ぐ、と引き寄せられる。
さらさらの黒髪が頬に寄せられて、目を見開いた。
「何で、そんなふうに触れるの」
耳元で、ルシオが小さく嘆いた。
苦しそうな声に、サリーナはうろたえてしまう。
ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、サリーナは言葉すら出ない。
「ルシオ、様」
自分の声が、震えて擦れている。
溢れてくる何かを必死に押さえつけて、サリーナはルシオに顔を押し付けた。
「おかえり、なさい」
ぴくりとルシオの肩が跳ねた。
腰に回された手に、さらに力がこもる。
「おかえりなさいませ」
もう一度告げると、ルシオがのろのろと顔をあげた。
寄せられた眉は、少し困ったようにも見える。
「お待ちしていました」
今度は迷うことなくその頬に手を伸ばしたサリーナは、はっきりと聞こえるように口にする。
頬に伸ばした手に、ルシオの手が重なった。
驚いて手を引こうとするサリーナより早く、ルシオがその手を取る。
「うん」
小さくルシオが頷いて、サリーナの手の甲をなぞった。
「ただいま」
瞳をゆるりと細めたルシオの指が、サリーナの手のひらを滑る。
ぱちりと瞬いたサリーナの目の前で、ルシオはその小さな手のひらに唇を寄せた。
「え」
柔らかな感覚にぽかんとしたサリーナは、何が起きたのか理解できていない。
ルシオは薄く笑い、もう一度繰り返す。
「え、えぇ!?」
手から聞こえる音に我に返ったサリーナは、急いで手を引こうと引っ張った。
だが、ルシオはその手を離さない。
「る、ルシオ様!?」
腰にも手が回っているので、身も引けない。
恥ずかしくて真っ赤になったサリーナは、懸命に手を引くが動かない。
もう一度名前を呼ぼうとしたサリーナは、ひくりと固まった。
黒い髪の隙間からじっとこちらを見つめる紫色の瞳が、甘い。
反らさなければと思うのに吸い込まれそうで、指先が痺れていく。
見つめる先で、ふ、とその瞳が細くなった。
「可愛い」
低い声に、ぞくりと背筋に何かが走る。
甘さが残る声の奥に、一瞬だけうかがい知れない何かを感じる。
頭の奥で警鐘がなった。
「ルシオ、さま?」
ルシオがサリーナを傷つけることありえないと思っているのに、何故か焦る。
握られた手もそのままに、サリーナは、ただただその名前を呼んだ。
そのまま動かなくなったルシオに、何かあったのだろうか、と心配になってくる。
「え!?」
どうしたら、と体が傾きそうになっていたサリーナの腰を、ルシオが引き寄せた。
何事かと目を見張るサリーナを、もう一度ルシオが抱きしめた。
先ほどとは違って、力が思いっきり入っているわけではない。
「どうか、されましたか?」
囁くように問いかけると、一瞬だけ力がこもった。
引き付けるように抱きしめられると、ゆっくりとその腕が抜ける。
「うん、大丈夫」
「え」
「もう、平気」
顔をあげたルシオの瞳がいつも通りで、サリーナはぱちぱちと瞬く。
一体何が起きてどうなって、今に至るのか、まったく想像もできない。
「平気、なんですか?」
「そう、平気」
ルシオは頷いて、サリーナの手を離す。
その手が、サリーナの髪に触れた。
指先に髪を通しながら、ルシオは瞳を細めた。
「サリーナのおかげです」
そう言いながら、ルシオはサリーナの手を引いてソファまで誘導する。
座るように促されて腰を下ろしたサリーナの横に、ルシオも座った。
サリーナはルシオをそろそろと見るが、本当にいつもと変わらないように見える。
よくわからないけれど、ルシオが「平気」というのならいいのだろうか。
「つまらなかったでしょ。待っていてくれて、ありがと」
「い、いいえ! いいえ、そんなこと!」
まさかのセリフに声をあげる。
この場所に呼んでもらえたこと、ルシオを待っていられたこと、こうやってすぐ近くにいられることが、サリーナには嬉しいことなのだ。
勢いよく首を振ったサリーナに、ルシオは小首を傾げた。
「待つのも、大変だったでしょ」
「私は、何もしていません。ただ、座っていただけです」
待っていただけだ。
気を紛らわせるために、ルシオも店長も気遣ってくれた。
ルシオはサリーナの頭を撫でる。
「座っていただけでも、疲れるよ」
「そんな。ルシオ様に比べたら、何てことありません」
本当に大変だったのは、ルシオでありルシオの父親なのだ。
何もできないサリーナよりも、はるかに疲れただろう。
だが、ルシオはむっと眉を寄せる。
「そういうのは、人と比べるものではありません」
きっぱりと言い切る。
その声に、柔らかさが戻った。
「待っていてくれて、ありがとう」
「……はい」
サリーナは、素直に頷く。
お礼を言われるようなことは何もしていないのに、ただ嬉しいと思ってしまう。
ルシオの声には力もあるし、元気そうだ。
ホッとしながらも、話を変えようとそろそろと問いかける。
「あの、お父様も戻られたんですよね?」
「父さん? あぁ、ちょっと頭のネジが飛んだみたいだけど、無事じゃない?」
「だ、大丈夫なんですか!?」
「放っておけばいいよ、無駄に元気だってだけ」
何かを思い出したのか、ルシオの眉が寄る。
そのまま父親の話は終わりだと言わんばかりに、片手をひらひら振った。
その指先が、サリーナの目元を撫でる。
「眠れなかったの?」
驚いて顔をあげる。
クマが出来ていたので誤魔化したのだが、見抜かれてしまったか。
ルシオの口調は優しいのに、その瞳はこちらを見透かすように澄んでいる。
言葉に詰まるサリーナに、ルシオの目が据わる。
「睡眠導入剤、仕込んでいいですか?」
「よくないです!」
反射的に叫んだサリーナに、ルシオが吹き出した。
からかわれたのだと口をパクパクとさせるサリーナに、ルシオは優しい瞳を向けた。
「じゃ、報告聞いてよ。きっとよく眠れるから」
何か言い返そうと言葉を考えていたサリーナは、考えを止めた。
握りしめていた手をスカートの上に乗せ、頷く。
「はい、お願いいたします」
雰囲気が変わったサリーナを、満足そうに眺めたルシオは立ち上がった。
まさか立ち上がると思っていなかったのか、驚いたサリーナを振り返る。
「お茶、飲んでないんでしょ? 入れるよ」
そう言ったルシオは、机の上におかれてある白い箱を開けた。
小さくサリーナが「あ」と言ったが、ルシオは気にしない。
ルシオが準備しておいたお茶もケーキも、準備したそのまま、箱の中にある。
サリーナとしては、一人もぐもぐとケーキを食べる気持ちになれなかったのだが、手間をかけて準備してくれたルシオからしてみれば、悲しくなるかもしれない。
「すみません、あの。一人で頂く気持ちにならなかっただけでして」
「俺は何も気にしてないよ。ほら、一緒に飲もう」
カップをもう一つ取ってきたルシオが、ティーポットを手に取った。
薄い朱色のお茶がカップに注がれる様を見ながら、サリーナは泣きたい気持ちになった。
こうやって、また一緒にお茶をできることがたまらなく嬉しい。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
勘のいいルシオに気づかれたくなくて、サリーナは少しだけ俯いてカップを受け取る。
口をつけると温かくて、緊張が解けていくようだった。
ほぅ、と息を吐くと、体から力が抜ける。
お茶を少しずつ口にするたびに、落ち着いてきた。
ゆっくりとカップを机においてルシオを見上げる。
隣に座ったルシオも、同じようにカップをおいた。
「結論から言いますと」
いきなりの本題である。
真剣に話を聞こうと、サリーナは背筋を伸ばす。
「王家は、俺にもサリーナにも手を出せません」
「……え」
「王族でくくったから、本当に誰も」
「え、え?」
「だから、大丈夫だよ」
大丈夫、とは?
ルシオの説明があまりにも結論すぎて、サリーナにはその前後の話も見えてこない。
「安心した?」
安心等という問題ではない。
端的すぎる話に、頭の中が大混乱である。
「良かった、です……?」
良かったはずだ、本当は。
だがいまいち意味が分からずに、思わず問いかける形になってしまった。
王家は、ルシオにもサリーナにも手を出せない。
しかもそれは、一生涯だという。
何事にも、絶対などありえない。
確証がないことを明言することを避けるルシオが、ここまではっきりと言いきることができる理由。
サリーナは、ゆっくりと目を見開いた。
ルシオもルシオの父親も、商人だ。
まさか。
「まま、魔法を使って契約されたんですか?」
あわあわとした口から出た言葉は震えていた。
きょとんとしたルシオの表情からはわからないけれど、それしか考えられない。
互いに制約をかけることにより、契約書の効力を飛躍的にあげることができる魔法。
「うん、そうだよ」
あっさりと頷いたルシオに、サリーナの顔色がさっと変わる。
魔法での契約は、そんなに簡単にするものではない。
破れば相応の罰が容赦なくくだるので、契約書の内容は絶対順守が基本である。
「ど、どなたが……?」
「え、俺だけど」
一瞬ルシオの父親かと思ったら、まさかのルシオだった。
魔力の強い王家の行動を縛るほどの強い契約だ。
王家を相手にそこまでの契約を結ばせたとなると、ルシオも同等の物を差し出したことになる。
「ななっ、何を。ルシオ様は、何を提示なさったのですか!?」
真っ青になったサリーナの問いかけに、ルシオは口の端をあげる。
サリーナは「どうして」とか「どうやって」とか、きいてはこない。
あくまでルシオの行動を受け入れたうえで、確認をとってくる。
こういうところがサリーナだなと思ってしまい、ルシオはたまらなくなる。
気持ちを落ち着かせるように、息を吐いた。
「俺は、情報提供しかしませんよ」
「し、信じませんよ! 王家の行動を縛る契約で、それだけとは思えません!」
「えー? 本当なのに」
「そんなはずが!」
サリーナの声は、もはや悲鳴である。
震えるサリーナと違い、肝心のルシオはまったく気にも留めていない。
温度差が広がっていく中、ルシオはのんびりと口を開く。
「あのね、契約したのは俺と第一王子だよ。俺は、第一王子にしか情報は渡しません」
「第一王子!?」
「決して欺かず、裏切らず。彼が道を間違えず王である限りは、彼の要望に応えるつもり」
いきなり出てきた第一王子に、サリーナの頭はパンクである。
今日は王と王妃と顔を合わせるとは思っていたが、まさか第一王子とも接触したということだろうか。
しかも、王である限りと言えば、ルシオの一生を縛りかねない契約だ。
もはや驚きが重なりすぎて、どこへ向いているのかわからない。
ルシオは、顔色が悪く、引きつったように喉を震わせるサリーナを眺めた。
思ったような反応が返ってこないので不思議に思う反面、よくよく考えればこれが普通かもしれない。
これはやっちゃったなぁ、と視線を遠くに向ける。
拝謁が、思っている以上に自分の精神に影響を与え、傾いていることに気づく。
サリーナが相手だと、こういうときに気持ちが緩むのかもな、とルシオは他人事のように頭の中をまとめる。
「えーと。いろいろと聞きたいことがあると思うけど、大事なことだけ言うね」
仕切り直しだと、ルシオは大きく息を吸った。
戸惑った様子のサリーナと瞳を合わせ、安心させるように笑う。
自分と第一王子が、魔法をつかった契約を結んだこと。
第一王子の契約は「王家も王族もルシオの大切な人には、第三者への依頼を含めて手を出さないこと」。
一方のルシオは「第一王子を決して欺かず、裏切らず情報の提供を行うこと」。
これは、お互いが道を踏み外さない限りは有効であること。
「だから、俺もサリーナも、父さんも、安全だって話」
ぱちぱちと瞬いたサリーナの顔色が戻ってきているのがわかり、ルシオは目を細めた。
サリーナの視線が下を向き、ゆっくりとルシオへと戻ってくる。
「ルシオ様の大切な人というのは、随分と不明瞭ではありませんか?」
「王子がそれで頷いたんだから、いいってことなんじゃない?」
「道を踏み外さないという表現も、契約通りでしょうか」
「そうだね」
「その内容についても、詳しく明記はしていないと」
「うん、そう。第一王子がそれで頷いたから、そのまま放置だよ」
ルシオの返事は軽い。
カップに手を伸ばすルシオを見ながら、サリーナは黙り込んだ。
魔法での契約という割に、契約内容が曖昧過ぎる。
普通はもっと細かく決めて、穴がないように埋めていくものなのだ。
ルシオの言葉が本当だとすれば、とにかく穴しかない。
第一王子ともあろう人が、そんな穴しかない状態で、魔法での契約を結ぶとは思えない。
「わざと、残したんでしょ」
ルシオがカップから口を離して、サリーナを見た。
細かく穴をつぶすような契約書は、契約者をぎちぎちに縛る。
第一王子は情報提供の幅にも、道を踏み外さない例えにも、口を挟まずにいた。
自分が持つ後ろ暗いこと、これから行うかもしれない政治が道を踏み外すことにつながらないよう、あえて不分明のままにして触れなかった。
「まぁ、それは。こちらも同じですけどね」
ぐいっとお茶を飲みほしたルシオは、空になったカップを机に戻す。
話はここからだと、息を吐いた。




