サリーナ、元婚約者と歩く
学院の廊下に、二人分の足音が響く。
一言も口を開くことなく、サリーナはただ足を進めた。
少し前を歩くザイードの背中は、騎士として鍛えられているだけあって、がっしりとしている。
昔は、この背中を幾度となく眺めては、何度も振り返って欲しいと願った。
人生をやり直しまくった中でも、そもそもの始まりである最初の人生は、やはり蘇るものが多い。
ザイードの心が誰にあるのかを知っていながら、必死に振り向いてほしくて努力したあの日々を思い出す。
結婚してからも、ザイードの心だけはいつも遠かった。
ザイードとこの距離で歩くなど、婚約を解消してから初めてのことだ。
不思議な感覚に包まれながら、サリーナは肩の力を抜いた。
本来なら、格下のサリーナから話しかけるのは良しとされないが、ここは学園内なのでいいだろう。
「ご無沙汰しております」
小さな声だったが、ザイードは驚いたように振り返った。
その足が止まる。
「そう、だな」
よく知っている、低い声。
ふるりと震えた喉が、彼の緊張を物語る。
婚約を解消し、ただの他人となった二人の距離と話し方ではない。
それが許されているのは、二人が顔見知りであり、この場が学院の廊下だからだ。
「今日は、急にすまなかった」
「こちらこそ。素敵な時間を過ごすことができたこと、感謝しております」
嫌味ではなく素直に答えただけだが、ザイードは視線を彷徨わせた。
そのまま頷いて、歩き出す。
ザイードは、サリーナに合わせてゆっくりと歩いてくれる。
それが昔は、とても嬉しかった。
とても懐かしい気持ちになってしまうが、それに飲まれてはいけない。
ザイードは、フェアスーン王女が選んだあの苦い薬草茶を、一緒に飲んでいたのだ。
あの談話室で、彼は決して、サリーナに助け舟を出すことはなかった。
事前に知らされていて、彼もそれを受け入れていたのだ。
ただ、この謎の送迎に関しては知らされていなかったのだろう。
あの驚き方は、本物だった。
「何か、積もるお話がありましたか?」
少し前を行く背中に問いかける。
隠し事がとても下手な彼は、肩を震わせる。
歩くスピードが落ちたのに合わせて、サリーナは横に並んだ。
隣に並んだサリーナに、ザイードの瞳が驚いたように丸くなる。
「私は、ありません」
見上げると、ザイードが怯んだ。
明らかに様子のおかしい様子で、ぎゅっと眉が寄った。
「君は、変わったな」
静かな声に、サリーナは息を飲んだ。
ザイードの知る自分は、どのような存在だったのだろう。
正面を向いたまま、くすくすと笑った。
「私のことを、一体どのような女だと思われていたのでしょう」
今世でのサリーナは、最初の人生以来と同じようにザイードと婚約した。
だが一度目の人生とは違い、ザイードに対する気持ちなど湧いてこなかった。
一応婚約したのだからと、ただただ最低限の付き合いはしていた。
隣国からフェアスーン王女が留学してきてから、結局はあっという間にザイードの心は彼女に向いたのだから、それで十分だった。
あの目を見たときに、サリーナは決めた。
魔法を使って、婚約解消をしても問題ないように動くと決めた。
「変わったと言われればそうかもしれませんし、そうではないかもしれません」
サリーナは、ザイードに誘われれば出かけたが、自分から誘うことはしなかった。
最低限のプレゼントは送りあったが、それ以上の物は互いに渡してもいない。
簡潔な手紙のやり取りだけで、仲を深める努力はしようとさえしていなかった。
サリーナも、それに対して何も言わず、受け入れていた。
ザイードの言うことに微笑みを返し、楽しそうに笑うだけだった。
ただそれだけだったが、ザイードが踏み込むことはなかった。
サリーナは、ザイードを見ることなく口を開く。
「私こそ、驚きました」
「え」
ザイードがこちらを向いた気配を感じ、サリーナはふっと笑う。
「まさか、あのような茶番をお許しになるとは思っておりませんでしたので」
「ま、待ってくれ」
「私を誘い込むように、王女に提案をなさったのですか?」
「違う、俺ではない!」
サリーナは、足を止めた。
慌てたように振り返るザイードを、ひたりと見つめる。
提案をしたのがザイードでなかったからといって、何だというのだろう。
「ですが、最終的には受け入れたということでしょう?」
ザイードの目が、見開かれた。
この、嘘をつけないところが好きだった。
貴族社会に生きながら、取り繕うのが苦手で一途な男を、愛おしいと思っていた。
かつて、その瞳が決して自分を見ないことが苦しくて、泣いていた自分が蘇った。
「お互い様です、きっと」
呟きが漏れた。
サリーナは、最初の人生こそザイードのことが好きで仕方がなかったが、それ以降は今日に至るまで、その背中を追いかけることはなかった。
サリーナの中のザイードは、一度目の人生のままである。
今目の前にいるザイードがどのような人物か、サリーナだって向き合っていないのだ。
あの王女のどこに惹かれたのか、正直に言えば今だってよくわからない。
もはや、知ろうという気持ちも生まれてこない。
「その程度の関係だったということです」
西日が差し込んで、ザイードの顔を照らす。
こうやって向き合うのは、いつ以来だろうか。
一度目の人生でさえ、なかったかもしれない。
もっと早く、言えば良かったのだろうか。
ザイードの心が誰に向いているかわかっていたので、サリーナは自分を見て欲しいとは言えなかった。
真正面から向き合うのを避けたのは、サリーナ自身だ。
締め付けられるような胸の痛みを堪え、踏み出した。
「コンラード商会のことは、私の範疇外ですよ」
ザイードを抜かしざまに声をかけた。
慌てて隣に並ぶザイードは、前には出ない。
サリーナも、その背中が見える位置には下がらずに歩く。
「王女殿下は祖国のことを考えるあまり、君に頼ってしまったのだと思う」
「やり方は随分と稚拙でしたが」
「それに関しては、否定できない。申し訳なく思っている」
即答してきたザイードに、サリーナは思わず力を抜いた。
あの訳のわからない談話をよくも受け入れたと思っていたが、盲目的になっているわけではなさそうだ。
ザイードは、言いにくそうに喋り始める。
「王女殿下は、その。君の新しい婚約者が、随分と君を大切にしていると聞いて……少しでも口添えをしてもらえたらと思っただけのようだ。」
「私が大切にされていることと、口添えをすることと、どのような関係があるというのですか?」
「他意はないんだ」
「本当に他意がないとすれば、それはそれで問題では?」
ぐ、とザイードが口を引き結んだ。
あのやり方が良くなかったことぐらい、ザイードだってわかっているのだ。
それなのに、何故止めることなく、決行してしまったのだろう。
嫌われたくなくて、黙っていたのだろうか。
「実は少し前になるが、商会で茶葉を購入したんだ。それが王女殿下にはとても相性の良いもので、大層気に入られたようなんだ」
「それは喜ばしい限りです」
サリーナは頷いた。
ルシオが徹底的に王女殿下について調べ上げ、サリーナも頭を捻りまくって選定した茶葉だ。
気に入ってもらえたのなら、何よりである。
「そのときに、祖国の薬草茶を思い出したそうだ。体に良いが味や匂いに問題があり、一部の貴族しか飲んでいない薬草茶……それを販売できる可能性を考えたとのことだった」
だから、とザイードは、言葉を切る。
サリーナはあえて黙ったまま、足を進めた。
「いきなり商会に話を持ち掛けるよりも、君の口添えの元で、薬草茶の改善を依頼できればと、話があがったんだ」
そう言うザイードの語尾が、小さくなっていく。
自分で言っておきながら、さすがに恥ずかしくなってきたらしい。
その気持ちを、もっと早く持ってほしかった。
「王女殿下のお考えは素晴らしいものですが、だからといって無理やり丸め込もうとするやり方はどうかと思います」
「その通りだ。本当にすまなかった」
ザイードが、小さく頭を下げた。
伯爵令息が子爵令嬢に謝ることなど普通はないが、それが自然と出来るのもまた、ザイードだった。
王女殿下は、サリーナを送るためにと、わざわざザイードを指名した。
元婚約者であるザイードに、どうにかサリーナが話を飲むよう説得してほしかったからだろう。
それはザイードもわかっているだろうに、彼は無理強いをせずに謝ってくるのだ。
「君の気持ちを、もっと考えるべきだった」
サリーナは、答えなかった。
気にしないでくださいとは、とても言えない。
これは、フェアスーン王女殿下とザイード、その取り巻きたちとも関係している。
婚約を解消したサリーナが、口を出すことではない。
サリーナが答えないからか、ザイードもそれ以上口を開くことはない。
二人して静かに廊下を抜けた。
右へ曲がれば、馬車を止めておくことができる広い広場が見えてくる。
その奥にあるのが、校門だ。
右に曲がったサリーナは、その奥に見えた馬車に目を見開いた。
見覚えのある色と形は、サリーナがよく知っているものだった。
思わず震える。
明らかに気配が変わったサリーナの様子に、ザイードも気づいたようだ。
「迎えが、来ていたのか」
「……はい」
何故か、胸の奥が熱くなった。
ぎゅっと、胸元を握りしめたくなる。
サリーナは立ち止まり、ザイードを見上げた。
「ここまでで、結構です」
「そう、か」
本来ならば馬車まで送って引き渡すものだが、さすがに相手が問題すぎた。
元婚約者と現婚約者が鉢合わせするなど、あまり見られたものではない。
「王女殿下の件は、もう少しそちらで話をしてください」
「……そうするよ」
視線が交わる。
こうやって二人で話をするのも、次はいつになるかわからない。
一生、来ないかもしれない。
「ネックレス」
ふ、とザイードが目を細めた。
サリーナの首もとに視線が落ちる。
「つけているんだな」
「は、はい」
いきなり、何のことだろうと戸惑ってしまう。
思わずネックレスのチェーンに触れるサリーナを、ザイードは眩しそうに見つめた。
「君も、彼のことが大切なんだな」
「え?」
「俺が贈ったものは、一度とてつけていなかっただろう?」
苦笑気味に言われ、サリーナは言葉を失った。
視線を反らしたザイードが、髪をかく。
「俺も、同じか」
サリーナは、ゆっくりと手をおろした。
ザイードからプレゼントされたアクセサリーは社交界用のものがほとんどだった。
それでも、誕生日には普段から使えるようなネックレスを送ってくれたこともある。
大切に箱にしまい続けたのは、サリーナ自身だ。
「幸せに」
ザイードの声が震える。
気付かないふりをしつつ、サリーナは両手を組んで頭を下げた。
「送って頂き、ありがとうございます」
顔をあげたサリーナは、ザイードを見ることなく背を向けて、歩き出した。
真っすぐに、馬車の元へと向かう。
顔をあげて、足を動かし続けた。
気を抜くと、涙がこぼれそうだった。
ぎゅっと力を入れることで、何とか耐える。
サリーナが近づくと、馬車から人がおりてきた。
急かすことなく、手を差し出してくれる。
「おかえり」
恐ろしいほど、優しい声だった。
引きずられるように、ふるりと唇が震えた。
何か言いたいのに声が出ず引きつったサリーナの手を、ルシオがゆっくりと引いた。
何も言わずサリーナの隣に座ったルシオは、握った手を離さない。
「サリーナ」
柔らかくて、甘い。
喉に息がつまり、瞼が引きつる。
きゅぅと胸元を握りしめたサリーナは、小さく背を丸めた。
ルシオに心配をかけてしまうと思うのに、震えがとまらない。
噛みしめた隙間から、声が漏れる。
「我慢しなくていいから」
ルシオは、何も聞かない。
体を小さくしてしゃくりあげるサリーナの手を握り、その背を撫でる。
「声、出していいよ」
「つっ、うっ……」
毒のように、ルシオの声がサリーナの体の力を抜いていく。
息を吸うたびに、嗚咽が零れる。
その体を、ルシオが抱きしめた。
あやす手は変わらないのに、体温だけが伝わった。
その温もりが愛おしくて、サリーナの目からは余計に涙がこぼれる。
今世のサリーナは、ザイードに対して何の気持ちも残っていないはずだった。
二度目の人生で王妃となったときに、ザイードへの気持ちは綺麗にさっぱりと消えてしまったと思っていた。
でも、違った。
心の奥の底、一番下の普段は全く気付かない所に、あのとき傷ついて苦しんで泣いたサリーナが、確かにいた。
それを、そっと両手で救い上げる。
小さくて震えているそれを、優しく包んで抱きしめる。
教えてあげたい。
ザイードに振り向いてほしくて頑張った結果は、あのときには出なかったかもしれない。
けれど、実はその先が待っていること。
いろいろとやらかして道を踏み外して迷子になりながらも、サリーナを大切にしてくれる人がいるということ。
今、とても幸せだということを、教えてあげたい。
人生をやり直しまくっているサリーナの、すべての始まりが救われた気がした。
すべてをなかったことにはできない。
それもまた、サリーナだけのものなのだ。
「ごめ、なさい……」
「謝らなくていいよ、大丈夫」
ぐしゃぐしゃの顔をあげられなくて、俯いたまま謝った。
ルシオからしてみたら訳が分からないだろう。
ザイードと会っても平気だと言った側から、これである。
だが、何も言わないルシオは、サリーナが落ち着くのを待ってくれている。
「あ、の。誤解、しないで、頂きたい……のですが」
震えながらハンカチを取り出して、顔に押し付けながらサリーナは声をあげた。
大事なことは、最初に言っておかなければ。
「何も、ないです、からね」
「うん」
「これ、は。泣いてしまったのは、昔の……かつての自分の、ものでして」
「うん」
「だから、何も、なくて。本当に、何もないんですよ」
言いながら、サリーナは頭を捻った。
よくわからないことを言っているなと、自分でもわかっているだけに混乱してきた。
人生をやり直しまくっていることを知らないルシオに、通じるとは思えない。
サリーナは、つないている手に力を込めた。
「ルシオ様、だけですからね」
言いたいことは、結局これだけだった。
胸元を握りしめたサリーナは、手元に当たるネックレスの感覚を確かめる。
このネックレスは、通信機だ。
だからこそ身に着けていると思われているかもしれないが、それだけではない。
例えこれがただの何の特徴もないネックレスだったとしても、サリーナは身に着けていただろう。
ルシオが選んでプレゼントしてくれたことが、嬉しかった。
一度大きく息を吐いて、呼吸を整える。
「ルシオ様がいてくださって、良かったです」
「……そっか」
「ありがとうございます」
ルシオの手が、背中からサリーナの頬に伸びた。
ひんやりとした手が、気持ちがいい。
思わず見上げる。
「頑張ったね」
ルシオの瞳が、慈しむような甘さを持っていた。
へにょりと笑ったサリーナは、その胸元に頭を寄せた。
騎士として鍛えているザイードとは違う、細身のルシオの体は薄い。
おでこを寄せると、よく知っているルシオの香りがした。
この人が、好きだ。
「詳しくは、また後日聞くからさ。今日は、遠回りして帰ろう」
「……お願いします」
迷惑をかけているなと思いつつ、サリーナは目を閉じた。
耳に低く響くルシオの心音に、強張った体が溶けていくようだった。
ぐっしょり泣いていたサリーナは、指先一つで魔法をかけて、その痕跡をすべて消して見せた。
すっきりとした顔つきのサリーナを邸宅に送り届け、ルシオは馬車へと戻る。
動き出した馬車の中で、ルシオは髪をかきあげた。
「はぁ……」
サリーナの小さく震えていた姿を思い出し、顔をしかめる。
彼女が身につけているネックレスには、いくつもの魔法がかけられている。
伝えていないので知らないだろうが、そのうちの一つを使って、ルシオはすべて聞いていた。
振り払うようにぎゅっと一度目を閉じたルシオは、ゆっくりと目を開けた。
その瞳は、氷のように冷ややかだ。
「アイツ、邪魔だな」
恐ろしいほど低音である。
ルシオの脳裏に、華やかな笑みを浮かべる王女が浮かぶ。
そしてその後ろに立つ、サリーナの元婚約者の男。
サリーナは謎の博愛精神を持ち合わせているようだが、その範囲は意外に狭い。
誰でも彼でも幸せになれるとは思っていない彼女のその範疇に、あの元婚約者が入っていることがルシオは気に入らなかった。
普段は忘れ去られているほどの外側にいるくせに、思い出すと近い距離にいるあの男の存在を、ルシオは跡形もなく消し去りたくて、仕方がなかった。
だからこそ、あえて放置した。
このまま接触がなければ変わらないのはわかっているので、何か動けばいいと思った。
上客だということを理由に接触を持つよう誘導したし、煽ったりもした。
その結果、サリーナと元婚約者のザイードは二人きりになった。
「あの、女」
ルシオの瞳から、光が消える。
握りしめた手から、ぎりっと音がした。
まさか、あの王女の常識のなさが、ここまでだとは思わなかった。
いくら何でも元婚約者と二人きりにするなんて、通常では考えられない。
サリーナを送るようにとザイードに声をかけたとき、さすがのルシオも呆然とした。
ルシオは、二人きりにするつもりはなかった。
そうならないように画策したのに、あの王女のせいですべてが狂った。
サリーナと元婚約者との会話自体はたいしたことはなかったが、やはりサリーナの心の奥には、あの男の存在がいつまでもくすぶっている。
消え去ってほしい男が居座っていることを感じ取ることになるとは、失態もいいところである。
今日の様子から何やら変化があったようだが、思い出として残り続けることは間違いない。
それが分かった今、ルシオの選択肢は一つだ。
「もう用はないし。消すか」
低く呟いたルシオは、だるそうに椅子に沈み込んだ。




