ルシオ、堕とす
学院の騎士科に通うザイードは、資料を両手で抱えて歩いていた。
本来なら、放課後はフェアスーン王女殿下の元へと行き、彼女の御用聞きをしているころだ。
彼女の元へ行く途中で、見知らぬ女子生徒がたくさんの資料や書類を抱えてよろよろと廊下を歩いていたので、声をかけた。
すべて返却することだったので、一番重そうな資料一式を引き受けたのである。
資料室は学院の奥にあり、ただの倉庫なので薄暗い。
部屋の鍵を開けて、中へと入って電気をつけた。
少し煙っぽいものを感じ、こほ、と咳をする。
埃がたまっているのかもしれない。
掃除の提言をした方がいいなと思いながら、ザイードは手前にある机に資料を乗せた。
なくさないようにと、その横に鍵をおいておく。
一つ一つ確認をしながら、資料を戻す。
その耳に、ノック音が聞こえた。
振り返ったザイードは、入ってきた人物に目を見開いた。
「初めまして」
静かに挨拶する男とは、直接面識はない。
片付けをしようとしていた資料を片手に、動きを止める。
ザイードの元婚約者であるサリーナの、今の婚約者。
ルシオ・コンラード。
「私の事をご存じのようですね、話が早くて助かります」
薄い笑みを浮かべたルシオは、そのままドアを閉めて鍵をかけた。
ガチャリと部屋に響いた金属音に、ザイードは思わず身構えた。
一瞬、ザイードと同じように資料を片付けに来たのかと思ったが、明らかに違う。
「俺に、何か……」
「えぇ、少し」
伯爵令息であるザイードの方が立場は上のはずだが、平民のルシオは全く気にした様子はない。
机から回り込んだルシオは、じっとザイードを見つめる。
「先日は、私の婚約者が大変お世話になったようですので。そのお礼に参りました」
ぎくりと強張った。
口調はあくまでも丁寧だが、ルシオの瞳はまったく笑っていない。
「あなたもご存じの通り、私は彼女をとても大切にしております」
「そ、そのようだ、な」
「ですから、彼女を傷つける相手のことを、とても許せそうにないのです。何せ気が短いものですから」
困ったように笑っているが、瞳はひたりとザイードを見つめたままだ。
ザイードは、ごくりと唾を飲み込んだ。
騎士科の授業などの模擬戦相手とは違い、まとっている空気から冷たさを感じる。
「せ、先日は。いきなり彼女を誘ってしまい、申し訳なかったと思っている」
「約束もなく彼女を拘束し、挙句勝手な話を進めるのが王女殿下のやり方とは、知りませんでしたからね。あやうく口を滑らせそうになりました」
ザイードはぎょっとした。
この男は、何もかもを知ったうえで、ここにいる。
あの、とても褒められた行動ではない王女殿下の行動を、言いふらすこともできると告げているのだ。
そんなことが噂になれば、致命的だ。
真っ青になるザイードを見て、ルシオはふっと息を吐いた。
「あなたには、感謝しているんです」
「え」
「あなたのおかげで、彼女は私の婚約者なのですから」
ルシオは、そこに関してだけは、本当に感謝していた。
どれだけの女性と出会ったとしても、サリーナほど興味を惹かれる女性はいないだろうとさえ思う。
この男がサリーナを手放さなかったら、ルシオはサリーナに目も止めなかっただろう。
そう考えれば、一応、恩があるとも思えなくはなかった。
「そのお礼として、お伝えしておきます。フェアスーン王女殿下ですが、婚約が決まりかけていますよ」
「な!?」
「王女にのみ内密に伝えられているため、あなたを含めてご存じないことかと」
さらりと告げられ、目を剥いた。
誰も知らないような内密の話を、何故この平民は知っているのだろう。
「お相手は、貿易が盛んな、かの国の第二王子だそうです」
ルシオの口調がだんだん砕けてきたが、それを指摘する程の思考がザイードにはない。
言葉もなく立ちすくむザイードを見て、ルシオは目を細めた。
わかってはいたが、反応が遅い。
「元々は第一王子との婚約となるはずだったのが、年下の第二王子に変わったようですね」
「ということは、王太子となるのは第二王子なのか?」
「すでに第一王子が王太子として、活躍されています」
「そ、そんなバカな。フェアスーン王女殿下は、王妃教育の一環として留学してきたはずだ。婚約をするのなら、第一王子になるはずだろう。間違いじゃないのか?」
ルシオは首を振る。
「いえ、第二王子ですね」
「どういうことだ!?」
慌てるザイードを、ルシオは冷静に眺めた。
それがわからないのだから、この男はここにいるのだろう。
「……ご自分で考えることは、なさらないのですか?」
質問をすれば答えが返ってくるとでも、思っているのだろうか。
静かなルシオの瞳は、若干の軽蔑すら感じられる。
言葉を返せず黙り込むザイードに、ルシオは「そもそも」と告げる。
「隣国のすべての王女が留学しているわけではない中、何故王女殿下だけがこの国へ留学しているのかを考えたことはないのですか?」
「フェアスーン王女殿下であれば、双方の国の文化や考えを取り入れ、国を発展させられると考えられるからではないのか」
「それは、ご自分で調べられた故の発言でしょうか」
ルシオの問いかけに、ザイードは唇を震わせるだけだ。
誰に聞いてそう思っているのか、自分でもわからなかった。
ただ、楽しそうに笑うフェアスーン王女の顔が、ザイードの頭によぎる。
「私が調べた内容とは、違いますね」
ルシオの手が、トン、と机に乗った。
「フェアスーン王女殿下は、王女としてはとても幼く、利己的で周囲を顧みない」
「なっ……」
「教育を重ねても成果があがらないことから、自国への学校へ通わせることを断念。結果として、留学という手を取った」
「だ、誰がそんなことを!」
「妥当な評価だとは思わないのですか? あれほど人を振り回して、平然としている女性ですよ」
言い返すこともできないザイードに、ルシオは冷ややかに告げる。
「彼女に王妃は務まらないというのが、国の判断です」
だからこそ、フェアスーン王女は第一王子の婚約者にはなれない。
王妃としての教養も、貿易を行う国へと嫁ぐなら必要であろう外交術も、彼女にはない。
ただ一方で、彼女には普通の人が持たない物を持っている。
何故か周囲の人を惹きつけてしまう、魅了魔法のような雰囲気である。
フェアスーン王女の留学が決まったときに、護衛や友人関係の為にと彼女の取り巻きに選ばれたのは、皆身分も立場もしっかりとした令息や令嬢ばかりだった。
王女殿下の行き過ぎた行動を止め、道を正すことができるように、見定められてのことだった。
ザイードも、その一人だった。
ところがである。
気がつけば、皆そろってフェアスーン王女殿下に従順になり、傾いた。
サリーナへの無茶なアプローチをとめる人間さえ、いなくなった。
あれは、魔法でもなんでもなく、王女の生まれ持つ、ある意味とてもやっかないな力という奴だろう。
「かの国は、王女のその魅力を利用して、今以上に手広く貿易をしようと考えているんですよ。どちらの国にも利点があるこの話は、近々正式に発表となるでしょう」
「そ、そんなのは、政略結婚ではないか」
「それが何か、問題でも?」
婚約解消は簡単にできる。
貴族と平民の結婚だって、簡単だ。
その分恋愛結婚が広がっているだけで、政略結婚がなくなったわけではない。
王女ともなれば、よりその価値は高い。
「国同士のことです。今更、止められません」
ひくり、とザイードが肩を揺らした。
ルシオの紫色の目が射貫く。
「ただ。かの国は、男女ともに愛人を持つことが許されています」
「は!?」
「政略結婚だからということもあるのでしょう。婚姻の際に、連れてもいいことになっているようですよ」
正確にいえば、彼女の無意識に人を魅了する力に、第二王子までもが引っかからないようにするための措置である。
顔色悪く震えるザイードは、まさか自分の好意がルシオにバレているとは思っていないのか。
ルシオは人のよさそうな笑顔で、優しく告げる。
「王女殿下、手に入りますよ」
「ななっ、何を!」
「結婚相手にも、すでに第二夫人となるべき方がいらっしゃるようですし。王女殿下にも第二の夫となる方がいても、問題にはならないでしょう」
パクパクと口を開いては閉じる男は、ある意味真面目過ぎた。
それだけに、フェアスーン王女のハニートラップのようなどろどろした甘さに、簡単にはまったのだろう。
「良ければ、あなたがその第二の夫となれるよう、協力しますよ」
「そそそ、そんなことが、できるわけがないだろう! 何を言っているんだ!」
声を荒げたザイードに、ルシオはこてりと小首を傾げた。
さらりと黒髪が揺れる。
「何も、わかっておられないようですね」
不思議そうな顔は、とても幼い。
その顔からは想像できないほど、口調は冷ややかだ。
「この状況に、疑問を持たれないんですか?」
「え」
「私とあなたと、二人。邪魔も入らず、今こうやって対峙していることが、偶然とでも思っているのですか?」
ザイードは、机におかれた資料をさっと見た。
偶然。
あくまで偶然のはずだ。
資料を手一杯抱えた女子生徒とすれ違ったのも、たまたまだ。
廊下を歩いていたときに、目を止めた。
その生徒に声をかけたのはザイードであり、手を貸すと決めたのもザイードであり、片付ける資料を選んだのもザイードだ。
「あの女子生徒は、君の差し金だったのか!?」
「彼女は何も知らない、片付けを頼まれただけの善良な一般人ですよ」
「で、では! この資料は……」
「資料はすべて実際に使ったものですし、片付けを頼んだのも教師ですよ」
だったら、何故ここに二人きりでいるのか。
考えていくにつれて、体中から熱が奪われていくようだ。
「偶然ではない、というだけです」
悪戯が成功した子供のように小さく笑うルシオを、ザイードは恐ろしい物を見るかのように、凝視する。
自分よりも小柄で、何の害もなさそうな平民の笑みが底知れない。
「わかって頂けました?」と問いかけられても、身震いしてしまって動けない。
その紫の瞳が、真っすぐにザイードに向けられる。
「できますよ、私なら」
何の根拠もないのに、何故か間違いなくできると感じてしまうほどに圧がある。
ルシオが口を開く。
「手に入れたくは、ないんですか?」
少し低くなったルシオの声が、ザイードの耳に滑るように入っていく。
じんわりと体の奥が、痺れていくようだ。
「もちろん、正妻としての義務は果たさなければならないでしょうが……彼女の権利を持つのはあなただ」
ぐらりと視界が揺れる。
紫色の瞳が、ザイードの心を捉えて離さない。
「手を貸しますよ」
ルシオの声は、あくまで穏やかだ。
それなのに、息ができなくなる。
「王女殿下の髪の一本一本から、声や足先」
「や、め…」
「その隠しているものがすべて、あなたのものになるんです」
声も出ないまま、気がつけば目の前にいた。
ザイードよりも少し背の低いルシオが、見上げてくる。
ふっと、口の端があがる。
「触れたくは、ないのですか?」
「それ、は」
「王女殿下に、ネックレスを贈られたことがありますよね」
購入したのは、コンラード商会だ。
ルシオが知らないはずもない。
「つけて欲しいと言われたとき。何も、感じなかったと?」
低く、囁くような声音に、肩が跳ねた。
何故そこまで知っているのか。
それを疑問に思うよりも早く、脳裏に王女の姿が浮かんだ。
ネックレスを手に喜ぶ王女の、ほんのりと染まった頬に手を伸ばしそうになった。
何とも可愛らしい願いを聞こうと、王女の後ろに立ったときのことは、忘れられない。
長い髪を右へとまとめ流して下を向けば、ザイードの目の前に白い肌が浮かび上がった。
普段は隠されている柔らかな首筋があまりにも無防備で、喉がなった。
やましい気持ちがなかったと言えば、嘘になる。
「お、俺は……」
「温もりを、感じたことは?」
いつも隣に立つザイードに、距離の近い王女殿下は何かと引っ付いてくる。
制服をまくった腕に絡められる指先は、細くて弱い。
よろけた王女を支えた手には、柔らかさと温もりが残っている。
「違う、そんな」
ザイードの瞳の焦点がずれる。
がたりと足を引くと、後ろの戸棚に背があたった。
ルシオが一歩踏み出し、下から覗き込む。
「彼女の」
一気に、引きずり込む。
「甘い声を、想像したことは?」
ひゅ、と息を飲み、見開かれた瞳が揺れる。
ザイードの拳に力がこもった。
ルシオは人差し指で、ザイードの胸元を指さす。
「触れてほしいと、願ったことは?」
ザイードの唇は震えるが、声は出ない。
ひゅーひゅーとした呼吸音だけが、静かな部屋に響き渡る。
「吐息も、指先も」
ザイードの頭の中で、フェアスーン王女が小さく笑う。
その唇が、やけに赤い。
「桃色に染まる頬も」
ルシオの掠れるほど小さな声が、頭の中でひたすら回る。
どろどろとしたものが、腹の中にたまっていく。
背を丸めてカタカタと震えるザイードの耳元に、ルシオは顔を寄せ、甘く囁く。
「細い首筋も」
堕ちろ。
「柔らかな肌も」
堕ちろ。
「丸みのある、膨らみも」
もっと、深く。
「ベールに包まれた、その奥も」
二度と這い上がれないほど、深く。
「欲せば、彼女のすべてが」
堕ちてしまえ。
「あなただけの、ものだ」
ぶるりと大きく震えたザイードは、熱のこもる息を一気に吐き出す。
額には、汗が浮き出ている。
紅潮した頬が、ひくりと動いた。
「手を、貸しますよ」
囁くように再度告げるルシオに、ごくり、とザイードの喉がなる。
不自然な震えと汗止まらない。
よろよろと体を起こす。
「本当に……可能なのか」
「あなたが望めば、必ず」
静かな笑みを浮かべたルシオに、ザイードは熱い視線を向ける。
胸元がぎりぎりと痛い。
「何故、そこまでしてくれるんだ」
「言ったでしょう、お礼だと。あなたには幸せになってもらわねば」
「幸せ……」
呟くと、自分の手を取る王女が浮かんだ。
柔らかな笑顔に、思わず自分の頬も緩む。
「そうです、幸せのために」
ルシオの優しい声が、麻薬のように脳裏に広がっていく。
すがりたくなるほど、熱い。
乱れていく息を必死で整える。
目の前に、ルシオが手のひらを出してきた。
「必要では?」
ザイードは、のろのろと顔をあげた。
脳裏で「落ち着け」と呟く自分と「ここを逃したら、二度と王女は手に入らない」と叫ぶ自分がいる。
だが、とろりとした紫色の瞳を見た瞬間、ルシオの手を握っていた。
そんな自分自身に驚いた様子のザイードに、ルシオの瞳が弧を描く。
「では、そのように」
バチン、と二人の間で火花が散る。
驚きで目を丸くするザイードを見て、ルシオはうっすらとほほ笑んだ。
「ただの、契約魔法ですよ」
「な、なん……」
「口約束ほど、あてにならない物はありませんから」
手を離したルシオが、一歩引いた。
「私はこれから、あなたの望みを叶えるために動きます」
「あ、あぁ……」
頷けば、ルシオが頭を下げた。
そして、気づいたように「あ」と声をあげた。
「私の要求を、お伝えしていませんでしたね」
思わぬ言葉に、ザイードは小さく「え」と口をあける。
ルシオはそのまま踏み出して、ザイードとの距離を詰めた。
下から見上げるルシオの紫色の瞳が、ぐっとかげる。
「手を貸す代わりに」
そう口にしたルシオの雰囲気が、一気に変わる。
一瞬にして、表情がごっそりと抜け落ちた。
ザイードの背中に、ぞわりとした寒気が走る。
「二度と。二度と、サリーナに近づくな」
「な」
「王女も、その取り巻きも。彼女の周囲に近づくのは許さない」
息を飲むザイードを、ルシオは睨みつけた。
地を這うような低い声が続く。
「望みを叶えたければ、王女と取り巻きどもを手中に収めろ」
「え、あ」
「契約を破れば、害が及ぶ。死に物狂いで守れ、いいな」
初めて対峙する恐ろしいほどの威圧に負け、ザイードはただただこくこくと頷いた。
あまりの恐怖に、体の震えが止まらない。
冷や汗が背中を滑り落ちた。
ザイードがしっかりと頷いたことを確認したルシオが、ふっと力を抜いた。
体を起こして、にっこりと笑う。
「では。どうぞ、お帰り下さい。王女殿下がお待ちでしょうし」
「え」
「残りの片づけは引き受けますので、お気遣いなく」
「な、なに…」
「余計なお世話なのは重々承知ですが、早く着替えた方がいいのではないでしょうか」
心配そうに告げると、ザイードの肩が跳ねた。
黙って手で出口を示すと、ザイードは音をたてながら、駆けだすように出口に向かう。
がちゃがちゃと鍵を開けて飛び出していくザイードを見送ったルシオは、開け放たれたままのドアを閉めて鍵をかける。
そのまま棚の奥へと歩いた。
「さすが、単細胞にはよく効くな」
屈んで、魔道具を引っ張り出した。
薄く煙をはいている魔道具の裏を触って、スイッチを切る。
ルシオはそのまま窓を開けて、深く呼吸をした。
ザイードが残していった資料を、手早く片付けていく。
この魔道具は、二つの効果を持つ煙をはいていた。
一つが、思考を鈍らせる魔法。
もう一つが、本能を刺激する魔法。
変な影響が出ても困るので、かなり薄く焚いた。
それでも、精神に作用する魔法や薬に耐性があるルシオとは違い、不慣れなザイードには効果的だっただろう。
「サリーナにバレるかな」
ルシオは、制服から覗く手首に触れる。
ザイードとの契約は、手に触れた瞬間成ったため、手首に痕が残った。
たいした内容ではないので薄いけれど、痣のような赤黒い線がわかる。
「言い訳を考えないとなぁ」
サリーナならば、見た瞬間にこれが何か気づくだろう。
おそらく心配をしてくると予想されるので、何か言い訳を準備しておかなくては。
一方のザイードが気づくのは、いつになるだろう。
ひっそりと笑うルシオに声をかける者は、誰もいなかった。




