サリーナ、ルチアの父に会う 中編
部屋の中は、とても静かだ。
ボード上には、攻める気がまったくない白い駒と、細々と攻めているような黒い駒が並んでいる。
白い駒を片手に、ルチアの父親は肩をすくめた。
「サリーナ嬢は」
眉が少し下がる。
口調が穏やかになった。
「ルチアのことを、大切に想って下さっているのですね」
目を見開いたサリーナを見る父親の瞳が、細くなる。
その瞳が一瞬にして陰る。
「しかし、それだけでは困るんですよ」
「……え」
「ルチアは、あなたを最優先に考えるようになった。あなたのためなら平気で危険を冒すでしょう」
ぐっと詰まった。
先ほどとは違う、本音が透けて見える。
ルチアは、父親の持つスペースにサリーナを入れるようにと話をつけた。
リスクがあるにも関わらず、決断を迫った。
高いリスクすら吹っ飛ばして父親を動かしたルチアが、一体誰のためにここまで頑張ったかを考えれば、当然の考えだ。
白い駒が、サリーナの陣地に攻め入る。
「あなたのためなら、ルチアは今すぐにでも私を罠にはめるし、商会すら簡単に捨てますよ。その覚悟がルチアにはある」
「そんなこと、求めていません!」
「それはあなたの話で、ルチアには関係ない」
冷たく言われて、サリーナは言葉を失う。
落ち着かなくては、と思うのに体が震える。
父親が口にした言葉はおそらく、間違っていない。
ルチアならやりかねない。
「サリーナ嬢の番ですよ」
手で示され、唇を噛んだまま視線を下げた。
盤上を見るものの、思考が揺れる。
ルチア自身、後を継ぐのは自分でなくてもいいと言っていた。
だがそれはあくまで後継ぎの話で、商会を捨てるとなると話は全く別だ。
捨てるということは、目の前の父親も含めて家族とも切れることになる。
そんなことはサリーナの本意ではないし、ルチアに選ばせるようなことがあってはいけない。
「……私に何をお望みですか?」
何とか駒を倒すことなく動かして、サリーナは顔をあげた。
父親の細い瞳を見つめながら、両手を握りしめる。
それを眺めた父親は、首を傾げた。
「あなたは、何ができるんですか?」
静かな声だった。
ソファから体を起こして、考える間もなく白い駒を動かす。
父親は、もう一度口を開いた。
「そこまで覚悟したルチアに対し、あなたは何ができますか?」
「わ、たしは……」
視線だけ盤上に落とし、サリーナは声を震わせた。
サリーナは子爵令嬢だが、それは父親が子爵だからであってサリーナ自身が持っているものではない。
金銭もお小遣いとして渡されているけれど、それも子爵家のものでサリーナには関係ない。
サリーナが持っているものなど、何もない。
無意識に胸元に手が伸びた。
服の上から触れるペンダントトップを握り、必死に息を吸い込む。
肩を落とし指先で黒い駒を手に取った。
汗で滑り落ちそうな駒を、ぎゅっと握る。
ルチアの顔が浮かんだ。
伸ばされた手がよぎり、体温を思い出す。
「私には、何も、ありません」
傾きかけた駒を立て直し、手を放す。
他の駒にぶつからないようにするだけでも、一苦労だった。
右手を寄せたサリーナは、父親を見た。
「私にできることは、ルチア様のおそばにいることだけです」
自分で口にしておきながら、何とも情けない答えだと思う。
しかし、サリーナができることなどそれぐらいしかない。
「あなたにあるのは、本当にそれだけだと?」
「私は、この身しか持ち合わせていません」
白い駒が動くのを見ながら、サリーナはもう一度頷いた。
言葉にするたび、胸が締め付けられる。
「それがルチアのためになると思っているのですか?」
「……わかり、ません。私が、ルチア様のおそばにいたいと思っているだけですから」
黒い駒を動かして、手を戻す。
姿勢を正したまま、震える声でサリーナは言い切った。
サリーナがそばにいることが、ルチアのためになるかどうかはわからない。
ただ、そばにいることについては迷う必要などない。
ルチアはいつも「そばにいて」と言う。
何かあればいつも、サリーナに繰り返し告げていたあの言葉が、ルチアが本当に望んでいることなのだと信じている。
サリーナが持つ秘密よりも、あれこれ考えたプレゼントよりもずっと深いルチアの言葉がすべてだ。
あの言葉がある限り、サリーナはルチアのそばにいると決めている。
何もないけれど、それだけはできる。
父親が白い駒を手に取る。
「ルチアの気持ちがあなたから離れたら、どうなさるおつもりですか?」
「特に何も。何も言われなければおそばに、お邪魔であれば身を引くだけです」
サリーナは薄く笑った。
考えたくないが、可能性はゼロではない。
例えルチアの気持ちがサリーナから離れたとしても、ルチアが何も言わない限りは、そばにいたいと思っている。
幸せであればそれで十分だと思ってしまうほど、サリーナにとってルチアの存在が大きくなってしまった。
黒い駒を動かす手には迷いがない。
これだけは、間違いないと自分で思う。
白い駒を振りながら、ルチアの父親は苦笑する。
「ルチアは重たいですよ。いつかあなたを潰しかねないほどに」
コンと白い駒が黒い駒にぶつかった。
転がる黒い駒を手にした父親は、それを自陣におく。
「それでも、本当にルチアのそばにいることを望みますか?」
「ルチア様が何もおっしゃられない限り、おそばにいます」
「……そうですか」
考える仕草を見せた父親は、白い駒をさらに動かす。
サリーナの黒い駒を追い出し、一気に攻める。
「それならば、別にあなたでなくてもいい」
「……え」
「そばにいるだけならば、その辺の石にだってできる、そうでしょう?」
「それ、は……」
「精神的な支えが必要なのであれば、こちらで準備できる。好みは把握しましたので」
サリーナは息を飲む。
父親の無表情に、言葉が見つからない。
自分の血の気が引いていくのがわかる。
父親は白けたように、駒を振った。
「あなたは結局のところ、ルチアに甘えているだけだ。婚約解消したところに伸ばされた手に、すがっているだけの御令嬢ですね」
「そんなことは」
「良ければ、ルチアによく似た令息をご紹介致しますよ。もちろん家柄も問題ない方を」
「やめてくださいっ!」
平坦な声にかぶせる様に叫んだ。
胸元をくしゃくしゃに握りしめて、サリーナは顔をあげた。
「私の婚約者は、ルチア様だけです」
同じ事を、繰り返し、繰り返しルチアが口にしていた。
婚約者はサリーナだと、その言葉に何度救われたか、わかっていない。
息を乱すサリーナを見た父親は、顔色を変えることなく胸元から何かを取り出す。
白い封筒を差し出されたサリーナは、目を見開いた。
「あなたなら、これが何かわかりますよね」
こくり、と頷いた。
見覚えのある、型押しで花が押された特別な封筒。
反対に向けた封蝋は、王家の紋章がしっかりと描かれている。
息が詰まる。
「王家から依頼があれば、こちらに不利がない限りは受けますよ」
もう、震えることもできない。
力を抜いたサリーナは、ソファに深く腰かけた。
ルチアはおそらく、この封筒の存在を知らない。
指先が冷えていく。
「登城にはルチアも同伴と指定があります。一応遠方の国の品を見たいとのご要望ですが、本音が違うことは明白でしょう」
きりきりと胃が痛む。
ルチアが一緒だということは、そこまで引き込むつもりなのか。
「あなたは、王家に狙われる可能性があるとか」
父親の言葉にぴくりと反応する。
告げたのは、ルチアだろう。
「命の危険がある中で、ルチアのそばにいる必要がありますか?」
静かな声だった。
握りしめたペンダントが、服の上からとはいえ手のひらに食い込む。
サリーナは、人生をやり直しまくってきた令嬢だ。
世界中に作用するだけの魔法を使うこともできる。
王家に殺されたところで、また人生をやり直すことになるだろうとも思う。
一方で、規格外の魔法を使えば、王家すら手の届かないところでルチアのそばにいることもできるとわかっている。
「わた、私はっ……」
落ち着かなくては、巻き込まれる。
動揺してしまえば、理性が働かなくなってしまう。
落ち着いて何かを返さなければと思うのに、何を言えばいいのかわからない。
苦しくなって、はくはくと口を開く。
魔法を使わないと決めたのは自分であり、死ぬことも今更怖くはなかった。
ただその結果、今までのルチアとの関係が壊れることだけが怖い。
真っ白な顔で震えるサリーナを、父親は気に留めることもない。
「ルチアでなければいけない理由など、ないでしょう?」
ふるふるとサリーナは首を振った。
気持ちが引っ張られる。
父親の冷めた瞳に、ただただゾッとする。
「あなたは安全なところにいればいい。ルチアのことはお気になさらず」
「や、めて、ください……」
「あなたもご自身には何もないと、おっしゃっていたでしょう」
ひきつれた喉が、焼けるように痛い。
父親の言っていることは、間違っていない。
サリーナには何もない。
ルチアのため、コンラード商会のためを思えば、離れた方がいいのかもしれない。
それなのに、どうしても口にできない。
冷静にならなければ、と言葉を探す。
「わ、私がっ……私が、おそばにいたいんです」
声が震えて擦れ、途切れる。
必死に息を吸い込んで、かき集める。
心の奥が焼けきれそうだ。
「ルチア様が、大切です。誰よりも……大切なんです」
「大切ならば、離れるのも手では? さきほどルチアが邪魔だと言えば身を引くとおっしゃっていましたよね」
そう言った、確かにそう言ったのはサリーナ自身だ。
それができると思い、ルチアの父親に言い切った。
だが、改めて考えると本当に身を引くことができるのだろうか。
「ルチアから離れることができるのなら、それが今でも問題ないでしょう。違いますか?」
重ねて問われ、首を横に振ることしかできない。
ペースがつかめない、乱されている。
父親は、ルチアとサリーナを離そうとしていることだけはわかる。
それを子供のように嫌だと言うだけでは、何も伝わらないだろう。
先ほどまで保てていた気持ちが戻らず、どう言葉にすればいいのかまったくわからない。
ふと、ルチアが脳裏によぎった。
優しく名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
ふわりと、その体温すらよみがえった錯覚すら感じる。
「申し訳、ありません……」
思わず漏らす。
ペンダントを痛いほど握り、俯く。
「嘘です、嘘を、つきました……離れたく、ないです」
「何故そこまで?」
「ルチア様がっ……」
ゆっくりと問われ、反射的に顔をあげた。
父親の冷淡な瞳を目の当たりにし、溢れた気持ちが消えそうになる。
目頭が熱くなるのを堪え、気持ちを伝えようと口を開いた。
「ルチア様が、好きなんです。とても……本当に、とても」
言葉が零れ、視界が歪む。
もっと良い台詞があるだろうに、口から出たのは何とも頼りないものだった。
他に言い方があると頭の片隅で思うのに、言葉が引きずり出される。
それが今のサリーナには精一杯で、せりあがってくるものを飲み込んだ。
体を丸めて、息を吸う。
「あの薄情者の、どこがそんなにいいんですかねぇ」
心底不思議そうな声がした。
声が漏れるのを耐えるだけで必死なので、返事ができない。
涙を零すわけにはいかない。
「顔、なわけないですよね、平凡すぎますし。背はむしろ低いし、体格だって細身ですし」
なかなか酷い言われよう過ぎて、サリーナは首を振りまくった。
顔とか、背とか体格とか、そういうところではない。
父親は続ける。
「性格だって、別に特段良いってわけでもないでしょう? すぐに人のことを蹴落とそうとしますし、疲れた父親を労わる気持ちの欠片もない。情のない息子ですよ」
何となくそれは本当かもしれない、と思ってしまい、少しだけ力が抜けた。
溢れた涙をバレないようにさっとぬぐい、顔をあげた。
「言葉に、でき、なければ。何も、伝わりませんか?」
ルチアのどこか好きかなんて、考えたことがなかった。
サリーナを呼ぶ声、甘い瞳、少し冷たいけれど優しい手、楽しそうに笑ってサリーナをからかうところ、全部好きだなと思う。
震えて堪えるサリーナを見つめていた父親が、ふっと息を吐いた。
「……息子は幸せ者ですね」
「え」
「あなたのような素直な方が、ルチアには必要なんでしょう」
「え?」
「そのお気持ちを、決して忘れないでください。あなたがどうしたいのかを、一番に考えていいんですよ」
父親の瞳が柔らかい。
訳が分からずサリーナが瞬く。
あふれて零れた涙を、伸ばされた大きな手が掬い取った。
「ルチアが何を言っても、そばにいたければいたらいいんです」
ひくりと震えたサリーナを見る瞳が優しい。
先ほどとは雰囲気が全く違う父親を、サリーナはまじまじと見つめた。
その視線に気づいている父親は、苦笑いを見せる。
「何かあれば、相談してください。これでも一応、ルチアの父親なので」
「……ありがとう、ございます」
口から言葉がこぼれ出た。
ふと、ルチアが父親のことを「やっかい」と言っていたことを思い出す。
その言葉通り、とらえどころのない、不思議な雰囲気が漂っている。
これが、コンラード商会の会頭であり、ルチアの父親なのか。
この部屋に来る前に、ルチアと話をしたことを思い出す。
「第三者が相手なら、いくらでもやり方がある」とルチアに言ったのは自分だ。
最初こそ探り合いだったのである程度合わせられたが、サリーナのレベルではとてもかなう相手ではない。
自分の考えがどれほど甘かったのかと思い知らされる。
もう少し冷静にならねばと思いながら、サリーナは目元を押さえた。