サリーナ、ルシオの父に会う 後編
柔らかく微笑んだ父親は、両手をパン、と叩いた。
空気が変わる。
「お茶を入れなおしますか? 落ち着きますよ」
「い、いいえ! 大丈夫です、ありがとうございます」
ハンカチを取り出したサリーナは手を振る。
二重底のティーポットは、恐ろしい。
一口も飲んでいないカップを見た父親は、瞬く。
「ルシオに何かやられましたか?」
咄嗟に返事に詰まったサリーナを見て、顔をひそめる。
「あのバカ。殴ります?」
「ち、違います。ルシオ様は、その……」
あれは、眠れていないサリーナのためにやったことだった。
もごもごと言いながらもルシオを庇おうとするサリーナに対し、父親は呆れたようにため息をつきながらカップを指す。
「私は何も仕込んでいませんよ」
「……はい」
ルシオに申し訳ないことをしてしまった。
小さくなりながらカップを手にして、一口飲んだ。
すっかりと冷えているけれど、すっきりとしておいしい。
冷えてもおいしい茶葉を選んでくれたのだろうことは、想像できる。
「サリーナ嬢」
同じくお茶を飲んでいた父親が、口を開く。
カップをおいて、身を乗り出した。
「ルシオのそばにいたいのなら、あなたも気づいたほうがいい」
少しだけ口の端をあげた父親が、黒い駒をひょいと動かした。
そのたった一手で、白い駒が窮地に陥る。
「気づいていました?」
「……いいえ」
素直に答えると、父親が笑ったのがわかった。
馬鹿にしている雰囲気はないので、そのままボードを見る。
父親が、今度は白い駒を動かした。
黒い駒を押しのけて、サリーナの陣まで入ってくる。
「あなたは、何故王家に狙われる可能性があると思われているのですか?」
「私が、王家の影について知りすぎているからかと」
「王家の影だけですか? 例えば王家そのもの、王や王妃、王子や王女のことは?」
重ねて問われ、口を閉じる。
眼下では、ルシオの父親が次々と駒を動かしていく。
明らかに黒い駒が劣勢だったはずだが、あの一手から白い駒と対等にやりやっている。
黒い駒が、白い駒を追い詰めた。
「ご存じなんですね」
そう言うルシオ父親の口調は穏やかなのに、すぐに答えられない。
切り替えなければと思うのに、心がおいついていない。
かわさねばと頭の奥で警鐘がなるのに、それが言葉としてまとまらない。
自分の気持ちが定まっていない。
この部屋に入ってきたときの他人行儀だった父親が、サリーナを追い詰めた挙句、なぜか今優しくこちらを見ているのだ。
本質がつかめず、どこに軸をおいていいのかわからない。
何も言わないサリーナを、父親は気にする様子もない。
「魔法についても同様です。独学であれば尚更際立つことでしょう」
サリーナは動けない。
頭の中で言葉が回る。
「あなたの持つ情報、その腕前こそが価値ですよ、サリーナ嬢」
「え……」
「先ほど、この身しか持ち合わせていないとおっしゃられていましたね。その言葉通り、あなたそのものに価値があり、利益となるんです」
きっぱりと言われ、サリーナは思わず顔をあげた。
思ってもみなかった言葉に、心臓が早鐘をならす。
その反面、頭の片隅で、すとんと、納得してしまった。
ルシオがサリーナに「そのままでいい」と言っていたことが蘇る。
黒い駒を持った父親は、ゆっくりと駒をおく。
「これで、黒の勝ちです」
その言葉に、思わずボードを覗き込む。
拮抗していたはずが、黒い駒が敵陣まで攻め込んでいた。
散り散りになってしまった白い駒の数が減っている。
ソファに背をあずけた父親に、何を言えばいいのかわからない。
父親はカップを手に、サリーナを見る。
「あなた自身に、多くの危険があることを自覚した方がいい。ルシオのタガが外れるとすれば、原因はあなたである可能性が高いんです」
「わ、私ですか?」
「そうです、サリーナ嬢。その一方でルシオを止めることができるのも、あなたしかいないでしょう。隣にいることを許された、あなただけの特権のようなものです」
サリーナは黙り込んだ。
随分と、恐ろしいことを言われている気がする。
ルシオの父親は、すっかりと荒れてしまったボード上の駒を動かしていく。
広がっていたボードは、すっかりと小さな白い箱へと戻ってしまった。
「ルシオが持つ気持ち悪い重さと、あなた自身の価値を理解してもらわないと、あなたの存在はルシオの弱点になってしまいます」
「それは!」
「私としても困ります。あなたはルシオの強みになってもらわないと。わかりますよね」
「はい」と小さくサリーナが頷いたのを確認し、父親は笑みを深くした。
ほう、と息を吐く。
「それはあなたも同様です。あなたも自分の気持ちと価値を考え、ルシオがいることで強くなってくださいね」
「……はい」
ルシオの父親の言われると、項垂れてしまう。
予想をしていたとはいえ、ルシオのこととなると動揺して揺らいでしまう。
ルシオに迷惑をかけないためにも、サリーナ自身が強くならねば、と口を結んだ。
しょんぼりと肩を落としたサリーナを、父親はほほ笑みながら眺める。
その意味が本当のところで理解できていなくても、頭に残れば十分だ。
ソファから背を離し、声音を変える。
「私からは以上です。何かご質問などはありませんか?」
カップに口をつける父親を、サリーナは不思議な気持ちで見つめた。
ルシオを引き合いに出してサリーナの気持ちを荒らすだけ荒らし、雨風を呼びよせて踏みつけておきながら、それでも最後は釘を刺したうえで、サリーナを受け入れてくれている。
サリーナがやり直しまくってきた人生の中でも、初めての相手かもしれない。
心が温かくなったサリーナは、ふんわりと笑った。
「お父様は、お優しい方なんですね」
「ぶ、っ!?」
げほ、とルシオの父親がむせた。
ごほごほと咳き込む父親に慌てたのはサリーナだ。
「だ、大丈夫ですか? 熱かったのでしょうか……」
「いや、違っ……」
カップを落とさないようと受け取り屈みこむサリーナを見て、父親は眉を下げた。
サリーナは慌ててハンカチを差し出すが、やんわりと断られた。
こほ、と小さく音が鳴った後、ぜいぜいと呼吸を繰り返した。
「なるほど、これか」
「え……」
父親は咳をしながらも、サリーナの手からカップを受け取り、机の上におく。
ソファに深く腰をかけたので、落ち着いたということだろうか。
サリーナはそっと父親を見る。
楽しそうな視線と目があった。
「いやはや、ルシオが気に入るわけだ」
「あの、だ、大丈夫ですか?」
「えぇ、大丈夫ですよ。ありがとうございます」
大きく深呼吸した父親は立ち上がり、サリーナに手を差し出した。
おずおずとその手を取って、立ち上がる。
「ルシオを呼んできますので、どうぞお座りになってお待ちください」
「は、はい」
ソファに腰かけたサリーナを、しゃがんだルシオの父親が見つめる。
ぱちぱちと瞬くと、父親は困ったように首を傾げた。
「本当は、もう少し落ち着いてからの方がいいとは思うんですけど、待たせすぎてルシオの首がにょきにょきと伸びる前に呼んだ方がいいかなと。よろしいですか?」
「もちろんです、私はかまいません」
「……まぁ、激高は甘んじて受けましょうかね」
何とも言えない顔をした父親が、ゆっくりと立ち上がる。
そのままドアノブに手をかけた父親は、「あ」と振り返った。
「良かったら庇ってくださいね」
「え……?」
意味が解らず首を傾げたサリーナの目の前で、ドアが開いた。
壁に背をあずけていたルシオが、顔をあげる。
「遅い!」
「お前、何なの、ずっといたの。忠犬なの?」
「いいからどけ……サリーナ?」
父親に食ってかかったルシオが、視線をこちらへと向けた。
その瞳がぎょっと見開かれた。
「何、でっ!」
ぎりっと音がしたと思ったら、ルシオが駆けてきた。
しかめられた顔にサリーナが驚くよりも早く、しゃがみ込んだルシオが手を伸ばす。
頬に触れた手が優しい。
「あいつに何されたの」
「あ……」
押し殺したような声に、ひくりと喉がなる。
目元に触れられ慌てた。
小さく震えたサリーナを見たルシオの目が、剣呑に光る。
「あの、え。これは……」
どう説明すればいいのかわからず、おたおたしてしまう。
何も言わず、ルシオは触れた手を離した。
「ルシオ様?」
ゆらりとルシオが立ち上がった。
父親を振り返り、ゆっくりと口を開く。
「つぶす」
「怖いわ!」
「黙れクズが」
「ちょっと待て! こうなるとは思っていたが、ヒドイなお前!」
「わかっていたようで何よりだ、とりあえず新規はすべて停止だな。国内貴族分は手を回してあるから心配ない。食料関係だけはキツイが在庫分だけで後に回せる」
「ルシオくん、ルシオくん。一体何を言っているのかな?」
「安心して心置きなく引退しろ。母さん連れて、さっさと避暑地にでも引っ込め」
「お前はホントに、何言ってるの!?」
「あぁ、くそ。最初からこうしておけば良かった」
言い切ったルシオは髪をかきあげ、しゃがみ込んでサリーナの手を取った。
ゆっくりと頭を撫でる手はとても温かみがあるのに、雰囲気は氷のようである。
「ごめん、サリーナ」
「え、えぇ……?」
何が何やら。
訳が分からずに思わず父親を見上げると、ルシオが舌打ちした。
むぎゅ、両手で頬を挟まれ、覗き込まれる。
紫色の瞳の奥に、恐ろしいほどの熱が見えた。
「あのクズに何かあるの」
「あにょ、でひゅね。何もしゃれて、いませんにょ」
「はぁ?」
声を荒げたルシオは、自分の父親が「クズ」になってしまっている。
涙がこぼれたのはサリーナが感情をコントロールできなかったせいで、ルシオの父親のせいではない。
何かされたわけではないと伝えたいが、これで伝わったのだろうか。
だが、「庇うの?」と呟いたルシオの眉がさらに寄った。
変なオーラが見える。
全然伝わっている気がしない。
「るる、ルシオ様!」
サリーナは頬を挟むルシオの手を握った。
ひんやりした手が、気持ちがいい。
ルシオの力が緩んだすきに、その手を取って前へと戻す。
「えぇと。ほ、本当に何もされていないんです。本当です、嘘ではありません」
「……じゃあ、何で」
「これは、私が未熟ゆえのものです。お父様のせいではありません」
「違うでしょ、そう仕向けられたんでしょ。あのクズのやり方だ」
探るように言われ、一瞬言葉に詰まってしまった。
それに気づかないルシオではない。
ぶわりと不穏な空気が湧きだした。
このまま父親に殴り掛かりそうな気がして、サリーナは慌てて両手を少しだけ広げた。
どうにか注意を自分に引きつけねば、ルシオの暴走が止まらない。
「ルシオ様! 私、頑張りました! おおお、お約束、しましたよね!」
「は?」
「だっ、だだっだ、抱きしめてくださると。お、お約束……しました、よね?」
話を変えてしまおうと選んだ話題が、思いっきり自分の首を絞めつけた。
唖然とした顔をしているルシオを見て、サリーナの方が真っ青になる。
間違えた、とんでもないことになってしまった。
動揺を巻き込み叫んだものの、だんだん恥ずかしくなってくる。
少なくとも、ルシオの父親がいる前で口にすることではない。
だが、今更言葉を撤回もできない。
小さく広げた手が震えるけれど、降ろすこともできずに堪える。
恥ずかしくなって下を向いていたサリーナは、何も返事がないことに顔をあげた。
「ルシオ様?」
「あー、うん」
何故かルシオが肩を落として、伏せている。
後ろに見える父親は、こちらも何故か背を向けている。
体を丸めて震えているのが見えた。
「な、何か……?」
どうしたというのだろう、まったくわからない。
混乱してきたサリーナの前のソファに、父親がどさりと座った。
「く、苦しっ……」
そう言う父親は、お腹を抱えて笑っている。
堪えられないように噴出して、また体を震わせる。
一方で、ルシオはのろのろと立ち上がり、サリーナの隣に座った。
まとう空気が戻っている。
広げたサリーナの片手を取ったルシオが、父親に向けて口を開く。
「随分楽しそうだな」
「い、や……ぶふっ」
「窒息したいのか、良かったな」
唸るルシオに対して、それでも父親はひぃひぃ笑いまくっている。
先ほどとはまた全然違う姿に、サリーナは頭がパンクしそうだ。
本当にいろいろな面を持っているのだと、感心さえしてしまう。
ぎゅ、とルシオがサリーナの手を握った。
ルシオの口元が「あとで」と動いて、弧を描く。
嬉しくて思わず笑みがこぼれるサリーナの前で、父親が未だに体をよじっていた。
苦しそうに息を吐いて、目じりに涙まで浮かんでいる。
「お腹、痛った……つりそう」
「そうか、おめでたい話だな」
すぱんと返すルシオを無視して、体を起こした父親は何故かサリーナを見た。
まだ呼吸が落ち着いていないようだが、眩しそうに目を細める。
「サリーナ嬢だけの、特権だと言ったでしょう?」
「……あ」
先ほどの言葉がよみがえる。
ルシオを止めることができるのは、サリーナだけだと。
瞬くサリーナを見たルシオが、眉をひそめる。
「何の話?」
「お前、父親にまで嫉妬してどうするの」
「引退後は、一人で引っ込むということでよろしいですか?」
にっこりとルシオが答える。
せっかく穏やかになったかと思ったのに、またバチバチである。
ルシオの父親は、うんざりとした視線をサリーナに向けた。
「サリーナ嬢。本当にコレでいいんですか、重たすぎません? もっといい男は山のようにいますよ」
「黙れ、この」
「はい、ルシオ様がいいんです」
声をあげたルシオに被せて、サリーナははっきりと答えた。
ぽかんとしたルシオを見て、父親へと視線を返す。
未だにつながれた手を、ぎゅっと握った。
「それは、もう十分にお伝えできたかと思っていましたが」
「……そうでしたね」
父親は肩を竦めた。
サリーナはあえて視線を前に向け、何か言いたそうなルシオのことは見なかったことにする。
今何か言われたら、うまく答えられる自信がない。
不自然に口を噤むサリーナに何も言うことなく、ため息をついたルシオがソファに背をあずけた。
「で? 結局どうするんだよ」
「そうだね。このままだと笑い死にそうだから、本題に入ろう」
ルシオが睨みつけるのも気にせず、そう言った父親は、胸元から白い封筒を取り出す。
サリーナは「あ」と小さく声をあげた。
父親がひっくり返して見せた封蝋を、ルシオは黙って見つめる。
「サリーナ嬢には伝えたけど、これが昨日王家から届きました」
「報告・連絡・相談はどこいった」
「タイミングの問題だな」
ルシオの棘のある言葉にけろりと返した父親は、封を開けながらサリーナを見た。
瞳が優しい。
「サリーナ嬢。これからの話はあなたにも関係があることです。何かあればおっしゃってくださってかまいませんよ」
「はい」
しっかりと頷いたサリーナを見た父親の瞳が、ゆっくりと細くなる。
その表情が、ルシオにとても似ているなと思い、サリーナは慌てて視線を反らした。
落ち着いて、と呼吸を整える。
この話は、とても大切なものだ。
この人たちの思いにこたえられる人でありたい、とサリーナは背筋を伸ばした。




