第八章:軍法会議の雷鳴、そしてパンダに眠る旧姓の記憶
「あ、陽子さん大丈夫ですよ。凛ちゃんとちょっと、和気あいあいとふざけてただけだから。……てか、ご飯全部美味しくいただきました! マジ最高、ごちそうさまです! お父さんにお礼言っといて。あ、あとお酒のおかわり欲しいな〜」
壁に激突して鼻血を出していたはずのヒカルは、何事もなかったかのように畳の上に這い出てくると、再び陽子に向かってススキノ仕込みの極上スマイルを向けた。
すぐに陽子が「はーい、今持っていくわねぇ!」と、地元の希少な地酒の一升瓶と、コリコリとした新鮮なイカの刺身の皿を両手に抱えて戻ってきた。
「もう、ヒカルさんったら。お話し相手、うちの凛だけで退屈しなかったのー?」
陽子はお猪口にトトト……と酒を注ぎながら、ヒカルの耳元に顔を近づけて、小さく、だけど熱烈なトーンで囁いた。
「……私ね、こういうドキドキした気持ち、本当に久しぶりかも。……実はね、私、凛よりおっぱいが大きいのよ?」
「ちょっとお前は早く下に降りて皿洗いしろーーーーーーッッッ!!!(怒)」
凛は白目を剥きながら、実の母親の背中を全力で突き飛ばして部屋の外へ放り出し、襖をバシャリと閉めた。もう菅原家の尊厳はズタズタだった。
「あはは、陽子さんマジ最高。ねえ凛ちゃんも一緒に飲もうよ」
「あー、飲めばいいんでしょ、飲めば!!」
ヤケクソになった凛は、ヒカルのお酌を無視して一升瓶をひったくると、お猪口も使わずにコップにドボドボと注いでグイグイと喉に煽り始めた。
「お、いいねー! いい飲みっぷりだよ凛ちゃん、ウケる!」
そんな居酒屋の二次会のような凸凹コンビの姿を見て、とうとう、部屋の隅で耐え忍んでいた三人の珍客が本気で怒り出した。
忍者の佐助と、首を限界まで縮めて畳に正座したろくろ首のお菊が、諭すような、だけど心底呆れ果てたトーンでヒカルを睨み据える。
「お前……このままで本当に良いと思っているのか? 少しはしっかりしたらどうだ」
「そうよ。私水商売が悪いとは言わないけれど、もう少し将来を見据えて、堅実な仕事を探したらどうなの? いつまでも若いわけではないんだから。家庭を持つことも視野に入れなさい!」
まるで正月休みに実家に帰ってきたときに受ける、親戚からのガチ説教である。
だが、冷酒が入ってすっかり上機嫌のヒカルは、うるさそうに耳をほじりながら、目の前の見えない怪異たちに向かって言い放った。
「あー、かったりーな。死んだ奴らが偉そうに説教垂れてんじゃねえよ。俺、今ホストで稼いでるし、金には一切不自由してねーんだから、これでいいだろ!」
その瞬間――部屋の空気が、一瞬で絶対零度へと凍りついた。
ドゴォォォォォンッッ!!!
凄まじい衝撃波と共に、九八式軍衣を着た関東軍参謀・柴崎少佐が、怒髪天を衝く勢いで立ち上がった。彼の背後から、目に見えるほどの凄まじい怒りのオーラが爆発する。
「き、貴様ぁッ!! 今なんと言ったかーーーーーーッッッ!!!(怒)」
その、宿全体を根底から揺るがすような、地獄の底から響くような怒号に、冷酒を煽っていた凛も、調子に乗っていたヒカルも、思わず身体をビクッと硬直させてたじろいだ。
「日本男児として、恥ずかしくないのか貴様はッ! 我が柴崎家は、大東亜の戦いにおいて、自分の他にも二人のうら若き身内を英霊としてお国に捧げているッ! その我が血筋から、よもやこのような浮ついた態度、ロクでもない言葉遣いをする腑抜けた子孫が出ようとはッ! 戦時中なら軍法会議もので即銃殺刑だッ!! 貴様のその腐り果てた性根、自分が今から徹底的に叩き直してやるッ!!」
ガチリ、と柴崎少佐の手が軍刀の柄にかけられ、殺気(ガチの軍人のオーラ)が部屋中に満ちる。
その凄まじい迫力は、霊能力のないヒカルの肌にもビリビリと伝わったらしい。ヒカルはさっきまでのホストの余裕を完全に失い、まるで本物のヤクザ映画の修羅場に放り込まれたかのように、ガタガタと全身を震わせ始めた。凛も「ひぇっ……」と息を呑んで固まる。
しかし、恐怖で涙目になったヒカルは、柴崎少佐の怒号の中にあった「ある単語」を頭の中で反芻し、引きつった声でボソリと呟いた。
「……しば、さき……?」
ヒカルは、あの薄汚れたパンダのぬいぐるみを思い出した。
「柴崎って……。俺にそのパンダのぬいぐるみ、死ぬ前に買ってくれた……大好きなおばあちゃんの旧姓じゃん……!」
しーーーんと、怒号の余韻が残る客室が、今度は全く別の静寂に包まれた。
柴崎少佐は軍刀を握ったまま、ハッと目を見開き、そしてヒカルを睨みつける。
ススキノのバカなホスト、毎日ボソボソと喋りかけてくる呪われたパンダ、そして成仏できない帝国軍人。
摩周湖の深い霧の夜、バラバラだった「ありえない」点と点が、ヒカルの幼い頃の記憶を通じて、一つの切なくも温かい「血の絆」へと繋がった、衝撃の瞬間だった――!




