第九章〜最終章:ソープランドの訓戒、あるいは魔都のホストの更生について
「……去年亡くなった勝子は、俺の末の娘だ」
軍刀から手を離した柴崎少佐は、ふっと険しい目元を緩め、遠い時代に置いてきた愛娘の名前を愛おしそうに呟いた。その声には、先ほどの頑固な軍人とは違う、一人の父親としての深い響きがあった。
「だからわしは、貴様の曾祖父になるわけだな。……ふむ、代々我が柴崎家というのは、何かに『凝りやすい性分』のようだ。勝子はな、死んでからも貴様のことが心配で心配で、到底死にきれなかったのだな。……貴様、最近ふざけて『コックリさん』をやったであろう。あれは昔から大変に危険な遊戯じゃ。貴様の周りには今、そのせいで呼び寄せられたキツネの祟りがウヨウヨと群がっておる。勝子がそれを必死に心配し、そのぬいぐるみを依り代にして貴様に危険を報らせていたのだ。あの大道という神主は、最初からそれを見抜いていたのだろう」
少佐に突きつけられた言葉に、ヒカルはガタガタと震えながら項垂れた。
図星だったのだ。ススキノのホスト仲間と、店の営業終わりにノリと罰ゲームでやったコックリさん。あの夜から、あのパンダがボソボソと喋り始めたのだ。ヒカルの目に、みるみるうちに本物の涙が滲み、畳の上にポタポタと落ちていく。
「ごめんなさい……ひいおじいちゃん……、おばあちゃん……っ」
「……このろくろ首を見ろ」少佐は、隣で首を縮めて小さくなっているお菊を指差した。「我が一族の高祖母にあたる先祖だが、何かに憑かれてこのようになってしまった。貴様には、そんな風になって欲しくないのだ。せっかく親に大学まで出してもらったのだろう。その五体に、もっと感謝しなさい」
ヒカルはただただ涙を流して頷き、その様子を横で見ていた凛も、胸が締め付けられるようになってボロボロと涙を溢れさせた。チャラチャラしたおバカなホストだと思っていたヒカルの背後に、まさかそんな、時空を超えた家族の健気な守護の経緯があったなんて、知る由もなかったのだ。
「わしも、現役の頃は軍務には忠実であった」少佐は懐かしそうに胸の勲章を撫でた。「酒も浴びるほど飲んだ。だがな、仕事はしっかりやれ。そして、家庭は絶対に守れ。男の基本はそこだ」
「……はい。わかりました、ひいおじいちゃん」
ヒカルは涙を拭い、うつむいたまま、生まれて初めて「一人の男」としての真剣な返事をした。
誰もが、これでこの摩周湖の奇妙な怪異事件は大団円を迎えるのだと確信した。凛も、涙を拭いながら「いいお話だったな……」と感動に浸りかけた、その瞬間だった。
柴崎少佐は、ふっと豪快に口の端を釣り上げると、ヒカルの肩をバシバシと叩いて言った。
「まぁ、女が欲しいというのは男なら当然の摂理よな! わしも内地にいる妻や家族に内緒で、赴任地では毎晩のように慰安所に通い詰めたものだ! 貴様もな、これから沢山働いて、稼いだ金でどんどんソープランドに行けッ! ガハハハハハハッ!!」
静まり返った客室に、曾祖父の激しい爆笑が虚しく響き渡った。
……しーーーん。
凛は、涙で濡れた顔のまま、完全に空いた口が塞がらなくなった。脳の処理能力が完全に停止する。
(……え? 柴崎家って、一体なんなの? 曾祖父さんがひ孫に向かって、ソープランドに行けって大声で言う!? 結局……結局この血筋は、根っこからロクでもないバカの遺伝子だったってことじゃんーーーッ!?)
凛が心の中で激しいツッコミを入れ、あのお菊や佐助さえもが「あやつ、最後に台無しにしおった……」と頭を抱えた、その時だった。
ふと部屋の明かりが優しく明滅し、テーブルの周りにいた柴崎少佐、忍者佐助、ろくろ首のお菊の姿が、温かい光の粒子となって少しずつ薄くなり、消え始めていった。彼らの顔には、どこか子孫の未来を信頼したような、穏やかな笑顔が浮かんでいた。
ヒカルは畳の上に立ち上がると、消えゆく光に向かって、喉が張り裂けんばかりの大声で叫んだ。
「おじいちゃん! みんな! ありがとう! さようならーーーッ!」
夜の静寂が、再び客室に戻ってきた。
ヒカルの背後にあったあの不気味な「白・黒・紫」のキツネの煙は、ご先祖様たちの強力なお灸(と、ソープランドの熱気)によって、跡形もなく完全に消滅していた。
ヒカルは窓を開け、摩周湖から吹き込んでくる冷たい夜風を浴びながら、残っていたアイコスをふぅと力強く吹かした。そして、お父さんの淹れてくれた地酒をコップのまま一気にグイッと煽ると、窓の向こうの深い霧を見つめながら、ボソッと静かにつぶやいた。
「……よし。札幌に戻ったら、ホスト辞めて、これから堅気になるか……」
その横顔は、さっきまでのチャラついたおバカな男のものではなかった。自分の血筋のルーツを知り、少しだけ大人になった、一人の男の顔だった。
中居の姿のまま、凛はそのヒカルの姿をじっと見つめ、その大きな瞳をキラキラと、期待に満ちた輝きで輝かせるのだった。
バカの相手には疲れ果てたけれど、この弟子屈の長くて「ありえない」夜は、一人の男の人生を、そして凛自身の退屈だった日常を、最高に面白い方向へと変えてくれたのだから――。
(第一篇・摩周湖のキツネ憑き編 完)




