第七章:恋のアライは泥沼を呼び、二度目の閃光は和室に炸裂する
「うわ、マジでうまそう! これ、お父さんが作ったの? テンション上がるわぁ」
客室の大きなローテーブルの上に、弟子屈の恵みをこれでもかと詰め込んだ豪華な夕食がズラリと並べられた。
ジージージューと音を立てる新鮮なラム肉のジンギスカン、サクサクに揚がった地場産野菜の天ぷら、獲れたてで身が透き通った甘エビと肉厚なホッキ貝の刺身、出汁の香りがふわりと漂う茶碗蒸し、そして見事な包丁さばきで美しく盛り付けられた鯉のアライ。
料理を運んできた中居姿の凛と、母親の陽子に向かって、ヒカルは嬉しそうに手を合わせた。
「俺さ、実は室蘭の生まれだから、昔から海鮮とか魚にはうるさいんだけど、これマジで神だわ。お父さんに『リスペクトっす』ってよろしく言っといて!」
「あらあ、ヒカルさん室蘭の生まれだったのねぇ。ふふ、お口に合うと嬉しいわ」
陽子は完全に頬を上気させ、銚子を両手で抱えながら、ヒカルのお猪口にトトト……と地元の冷酒を注いだ。ヒカルはそれを一気に煽ると、これ見よがしにふぅと吐息を漏らし、陽子をじっと見つめた。
「いやー、こんな綺麗な女性にお酌してもらえるなんて、マジで生きててよかったわ。札幌から高速ぶっ飛ばして弟子屈まで来た甲斐がありましたよ。ありがとうね、お母さん」
「……やだぁ、もう、お母さんだなんて水臭いわよぉ……」
陽子はクネクネと身体をよじり、上目遣いで、蚊の鳴くような、だけど確実に本気のトーンで囁いた。
「……ヒカルさん、私のこと、これからは『陽子』って呼んで頂戴……?」
(……お母さん、何言ってんのよ、このバカホストにーーーーーーッ!!!)
凛は白目を剥きそうになるのを必死で堪えながら、脳内で絶叫した。実の母親が、自分の実家で、二十歳も年下のチャラ男に陥落していく地獄のような絵面。テーブルの向こうでは、関東軍参謀の柴崎少佐が軍刀の柄をギチギチと鳴らし、忍者の佐助は「菅原家の御台所が、よもやこれほど脆いとは……」と絶望し、ろくろ首のお菊にいたっては、あまりの破廉恥さに長い首を幾重にもとぐろ状に巻いて顔を隠していた。
しかし、ヒカルの進撃は止まらない。彼は箸で美しく透き通った鯉の刺身を一切れ持ち上げると、陽子に向かってウインクを飛ばした。
「この鯉のアライ、すっげえ美味しいね。……なんだか、俺と陽子さんの『恋のアライ』も、この弟子屈の夜にキレイに輝いてると思わない?」
「キャーーーッ! もう、ヒカルさんったら、情熱的ぃーーーっ!!」
陽子は完全にメロメロになり、顔を手で覆って悶絶している。
(ダメだ、このバカにお灸を据えないと、菅原家が家庭崩壊する……!!)
危機感を覚えた凛は、「お母さん!! 厨房でお父さんが呼んでるから!! 早く行って!!」と、半ば強引に陽子の背中を押して部屋の外へと引き摺り出し、襖をピシャリと閉めた。
ハァハァと肩で息をする凛の顔を見て、ヒカルは冷酒を口に含みながら、ニヤニヤと余裕の笑みを浮かべた。
「お、凛ちゃんジェラシー? 怒った顔も可愛いじゃん。大丈夫だって、俺のハートは広いからさ。弟子屈の夜は長いし、後でゆっくり可愛がってあげるよ」
ピキ、と凛の脳内で何かのリミッターが外れそうになったが、彼女は必死に両拳を握りしめて怒りを抑えた。今、聞くべきことを聞かなければならない。凛はヒカルの正面に座ると、その目をじっと睨み据えた。
「……アンタ、最近、何か悪いことでもした?」
「え? なんもないよ」ヒカルは心底不思議そうに首を傾げた。「俺みたいな、歌舞伎町にも負けないレベルの善人が、一体何をするっていうのさ」
「本当に何にも心当たりはないの!? 誰かに恨まれるようなこととかさ!」
凛が問い詰めると、ヒカルはお猪口を弄びながら、ふっと寂しげな、だけどこれっぽっちも反省していないナルシストの顔を作って天井を見上げた。
「あー……。強いて言うなら、俺があまりにも罪な男だからさ。気づかないうちに、たくさんの女性(お姫様たち)を泣かせてきちゃったかもしれないな。ススキノの夜の罪、ってやつ?」
キリッとポーズを決めるヒカル。
その背後で、あの「白・黒・紫」の煙が、彼の言葉に反応するように、ドロリと生々しい怨念の形を変えて膨れ上がるのを凛は見逃さなかった。
(……間違いない。やっぱりこのバカ、女の怨みを買って呪われてるんだわ!)
凛は怒りと焦りを覚えながら、声を大にして言った。
「あのね!! あなたの後ろにいるご先祖様たちも、みんなアンタのことが心配で成仏できずにここにいるんだよ!? 少しは真面目に考えなさいよ!!」
すると、ヒカルは真剣な顔で凛の胸元――中居の着物の合わせ目のあたりをじっと見つめ、実に興味深そうに身を乗り出してきた。
「ねえねえ、それよりさ、凛ちゃん。前から気になってたんだけど、中居さんとか巫女さんって、やっぱり着物着るときは『和装ブラ』ってやつ、つけてるの? 本当のところ、中身どうなってんの?」
……パァァァァァンッッ!!!
本日二度目となる、大日本帝国陸軍も凌駕する超神速のビンタが、夜の客室に鼓膜を破らんばかりの快音を響かせた。
ヒカルの身体は再び綺麗な放物線を描き、今度は和室の壁に飾られていた「摩周湖のペナント」ごと、壁の薄いベニヤ板へズドンと派手に埋まり、そのまま白目を剥いてずり落ちていった。
「ちょっと凛ーーーッ! また何やったのよーーーッ!」
一階の厨房から、再び陽子とお父さんの博史の怒号が階段を駆け上がってくる足音が響く。
ご先祖様一同が「見事な右の張り手ッ!」「あやつ、二度目なのに全く学習せぬな……」と呆れ果てる中、凛はジリジリと腫れ上がる自分の右手のひらをフーフーと冷ましながら、今度こそこのホストを摩周湖に沈めてやろうと心に誓うのだった――。




