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第四章:堪忍袋の緒は切れ、窓の外には英傑と怪異が座している

 「んじゃ、ひとっぷろ浴びてくるかなぁ」

 ヒカルは畳の上から気怠げに立ち上がると、凛が運んできたばかりの浴衣と真っ白なバスタオルをひょいと肩に担いだ。そして、部屋を出ようとする直前、何を思いついたのかニヤニヤと薄笑いを浮かべながら凛のほうを振り返った。

「ねえ、凛ちゃん。ここってさ、混浴とかあったりする?」

「ございません」

「じゃあさ、凛ちゃん。女湯ってワンチャンどこかから覗けたりする?」

「覗けません」

「じゃあじゃあ、凛ちゃん。良かったらさ、俺と一緒に温泉入る?」

「いいえ、結構です」

 一問一答のロボットのようにつれない返事を返す凛に対し、ヒカルはさらに調子に乗って距離を詰めてきた。至近距離で凛の目をじっと覗き込みながら、確信に満ちたホストの営業スマイルを浮かべる。

「あはは、凛ちゃん顔赤いじゃん。もしかして照れてるね?」

「……ムカついてるだけです」

 その瞬間、凛の頭の中で、プチリと音がして何かが完全に弾け飛んだ。

 今日一日、実家から神社で必死に働き、怪しげな三色の煙を見て怯え、挙句の果てにこんなバカを実家に連れてきてお茶まで淹れてやっているのだ。その結果が、このススキノ仕込みのロクでもないセクハラまがいの絡みである。

 凛の堪忍袋の緒は、とうとう限界を迎えてブチ切れた。

「うるせーんだよ、さっきからぁッ!!」

 自分でもびっくりするほどの大声量が、古い木造の客室にびりびりと響き渡った。

「バカなこととロクでもないことしか言えないのか、お前はーーーッ! 湖を海とか言うしネッシーとか言うし、本当に頭イカれてんじゃないの!?」

 突然の巫女のブチ切れ大絶叫に、さしものホストも「うおっ」と目を丸くして数歩後ずさった。

 当然、階下で作業していた凛の両親がドタドタと物凄い勢いで階段を駆け上がってきて、状況を察するや否やヒカルに対して床に頭がつく勢いで平謝りを始めた。その後、凛はバックヤードに連行され、父親からまるで頭上に雷が落ちたかのような凄まじい勢いで怒鳴り散らされる羽目になった。

 当のヒカルはといえば、そんな大騒ぎなどどこ吹く風といった様子で、「じゃ、温泉行ってくるね〜。凛ちゃん、布団よろしくおねしゃーす」と軽い足取りで一階の浴場へと消えていった。

「……はぁ。もう、最悪。マジで最悪……」

 一人、嵐が去った後の客室に取り残された凛は、肩を落として深く深いため息をついた。

 父親に怒られた理不尽さと、ヒカルへの怒りで頭がどうにかなりそうだった。凛は机の上に置き去りにされていたヒカルのアイコスを睨みつけると、衝動的にそれをひったくり、カチリと咥えて深く吸い込んだ。初めて吸う紫色の煙は、妙にブルーベリーのような甘ったるい味がして、余計に神経が逆撫でされる気がした。

「なんなのよ、あいつ……。今日の宿泊客、このバカ一人だけなのに……」

 ブツブツと文句を言いながら、凛は押し入れから重たい敷布団を引きずり出し、部屋の中央に敷き始めた。

 怒りをぶつけるようにシーツをパンパンと叩き、ふと、一息ついて顔を上げる。

 夜の帳が下り、深い霧が立ち込め始めた摩周の湖側の窓ガラスを、何気なく、本当に反射的に視界に入れた、その瞬間だった。

 凛の全身の血液が、一瞬で凍りついた。

「……え?」

 声にならなかった。

 部屋の中央にある木製のローテーブル。さっきまでヒカルがお茶を飲んでいたその場所の周囲に、部屋の明かりに照らされて、現実の物理法則を完全に置き去りにした「ありえない」影たちが、当然のような顔をしてちょこんと座っていたのだ。

 一人は、泥と硝煙の匂いを僅かに漂わせた、カチコチのカーキ色の九八式軍衣を着た帝国陸軍の軍人。腰には本物の軍刀を帯びている。

 もう一人は、部屋の隅の影に同化するようにして正座している、全身黒装束の不気味な忍者。

 そして――何より異常だったのは、テーブルの真ん中に座っている、艶やかな着物を着た一人の女だった。その女の首は、蛇のようにぐにゃぐにゃと天井に向かって長く伸び、驚くべきことに、その頭部だけが凛のすぐ目の前まで空中を泳いで迫ってきたのだ。

 都市伝説の怪異、ろくろ首。

 そのろくろ首の女は、長い首を傾げながら、驚きのあまり完全に腰を抜かして床にへたり込んでいる凛を見つめ、実に入りやすそうな優しい声で告げた。

「あの……私にも、お茶を一杯、下さいな」

 カーキ色の軍人が「うむ、自分も緑茶を所望する。喉が渇いた」と大真面目に頷き、忍者が影から「拙者も……」と呟く。

「ギャーーーーーーーーーーーッッ!!!???」

 凛は鼓膜が破れんばかりの悲鳴を上げると、そのまま白目を剥いて、畳の上に文字通りドスンと卒倒してしまった。

 ヒカルの背後に蠢いていた白、黒、紫の煙の正体。そしてパンダのぬいぐるみに隠されていた、凛の人生を完全に狂わせる「神聖にしてありえない者たち」との、最悪で最高の共同生活が、こうして強制的に幕を開けたのである――!

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