第三章:魔都のホストは湖を海と呼び、巫女の実家は温泉宿である
お祓いを終え、社務所を辞したヒカルは、境内の砂利をサクサクと踏み鳴らして黒いレクサスへと戻っていった。
運転席のドアに手をかけ、右手でアイコスの紫色の煙をふうっと吐き出しながら、ヒカルは思い出したように凛のほうを振り返った。
「ねえ、凛ちゃん。この辺にさ、いいホテルとかない? ネットで検索して予約するとか、マジでメンディー(面倒)だしさ。すぐ入れるとこ教えてよ」
相変わらずの軽いノリに、凛は一瞬、事務的に答えようとした。
「あ、この辺りで一番近いのは――」
そこまで言いかけて、凛はハッと息を呑んだ。
(あ、やばい……っ! なんで私、あそこを教えようとしちゃってんの!? こんなチャラチャラしたススキノのホストに、あそこだけは絶対に教えたくない!)
凛の突然の沈黙を不審に思ったのか、ヒカルはレクサスのドアに寄りかかりながら小首を傾げた。
「え? どこ? 一番近いホテルって、なんて名前?」
「あ、いや! なんでもないです!」
凛は激しく首を横に振り、大慌てで言葉をまくしたてた。
「そこ、すごく狭いし! 建物もボロボロで古いし! 掃除も行き届いてなくて汚いから、絶対にやめた方がいいですよ! ホストさんみたいな人が泊まるような場所じゃないです!」
「あはは、何それ。でもさ、俺そういうの全然大丈夫だし。この辺の土地勘マジでないから、そこでいいよ。そこ、温泉は出るんでしょ?」
ヒカルの屈託のない笑顔に押し切られ、凛は完全に逃げ場を失ってしまった。頬がみるみるうちに真っ赤に染まっていくのを自覚しながら、蚊の鳴くような声で、だけど白状するように言った。
「……実は、私の実家なんです。古い、小さな温泉宿なんですけど……」
それを聞いた瞬間、ヒカルは待ってましたとばかりにパッと目を輝かせた。
「マジで!? 巫女ちゃんの実家が温泉宿とか最高じゃん! サンキュー凛ちゃん、しばらく厄介になるわ。いやー、助かるわぁ」
軽い足取りでレクサスの運転席に乗り込むヒカルを見送りながら、凛はその場に呆然と立ち尽くした。
(……何言ってるんだ、私は。なんで自分の口から実家だってバラしちゃったのよ……!)
しかし、事態は凛の意思とは無関係に転がっていく。一部始終を社務所の影から見ていた神主の大道先生が、「凛、そのお客様の背後にある因縁を監視するためにも、今日はもう早退して実家の手伝いをしなさい」と、静かな、だけど拒絶を許さないトーンで促してきたのだ。
あれよあれよという間に、凛は私服に着替える暇もなく、巫女の正装(白衣に緋袴)のまま、ヒカルの高級レクサスの助手席に乗せられる羽目になってしまった。
高級車の革シートの匂いと香水の匂いに包まれながら、今朝出たばかりの、弟子屈の静かな山間に佇む古い実家へと戻る。
車から降りてきた凛とド派手なホストの組み合わせに、出迎えた凛の両親は目を丸くしていた。凛は死にたいような気持ちになりながら、「神主の大道先生からの紹介で、お祓いの続きをするために数日間滞在するお客様」と経緯を説明し、館内で一番日当たりの良い、摩周の自然が見渡せる二階の和室へとヒカルを案内させた。
「はぁ……。私、一体何やってんだろ……」
客室のドアの前で、凛は深いため息を吐いた。
だが、休む暇もなく、母親から「凛、お客様にお茶と浴衣、それからタオルを運んでいって頂戴」と命じられ、お盆を両手で抱えて再びヒカルの部屋へと向かう。
失礼します、と襖を開けると、ヒカルはすでにダメージジーンズのまま畳の上に寝転び、窓から見える摩周の山々と、その向こうにある深い水を湛えた湖を眺めながら、再びアイコスを吹かしていた。
「いやー、凛ちゃん。ここ、マジでロケーション神だね。……すっげえ綺麗な海じゃん!」
お盆を机に置いた凛は、その場でピキッと凝固した。
「……湖だよ! バカか!?」
思わず心の声がそのまま口から飛び出しそうになったのを、プロの巫女の精神力でギリギリ飲み込む。ここは弟子屈の山の中だ。海があるわけがない。
「お茶を淹れましたので、どうぞ……」
引き攣った笑みでお茶を差し出しながら、凛は館内の説明を続けた。
「温泉の浴場は、一階の突き当たりになります」
「あ、サンキュー。ねえ凛ちゃん、ちなみにビールとかってある?」
「一階のロビーに自動販売機がありますので、そちらでお買い求めください」
「お、自販機あるんだ、ウケる。あ、そうだ。凛ちゃん、この辺の湖って、あの有名なネス湖のネッシーがいるんでしょ? 俺、ワンチャン写真撮れたらブログのネタにしようと思ってさ」
ネッシー。イギリスの、あのスコットランドの、ネス湖のネッシー。
凛は三秒間、完全に無表情になってホストの顔を見つめた後、乾いた声で遮るように言った。
「……屈斜路湖の、クッシーです」
「あ、クッシーって言うんだ。ビミョーに名前違うのね」
あはは、と頭の後ろで手を組んで笑うヒカルを見ながら、凛の心の中のメーターは完全に「限界」を迎えていた。
さっき神社で見た、あの「白・黒・紫」の恐ろしい三色の煙の恐怖なんて、ヒカルの圧倒的なバカさ加減の前に、じわじわと呆れへと上書きされていく。
(……神主先生。私、霊気の監視をする前に、このバカの相手をするだけで精神が崩壊しそうです……)
等身大の二十歳の巫女・菅原凛の、突っ込みどころ満載の「ありえない」最悪で最高の夜が、静かに、確実に近づきつつあった――。




