第二章:背後に揺らめく三色の煙、あるいは見えないはずの覚醒について
「これさ……ガキの頃、上野動物園で買ってもらったやつなんだよね」
ヒカルはそう言うと、小脇に抱えたパンダのぬいぐるみの頭を、自嘲気味に、だけどどこか愛おしそうに何回か撫でた。二十四歳になるというススキノのホストの指先は、そのチャラついた外見には似合わず、かすかに震えている。
「なんかさ、どうしても捨てられなくてさ。実家を出て札幌で一人暮らし始めてからも、ずっと部屋に置いてたわけ。……なのに、なんか最近、夜になるとこいつの目が変に光るんだよ。で、なんかボソボソボソボソ、毎晩毎晩、何事か話しかけてくるんだわ。マジで頭おかしくなりそうでさ……。そしたら昨日、店の太客のお姉さんに『弟子屈にヤバい神社がある』って聞いてさ。もう、そのままレクサスぶっ飛ばしてここに来たんだよ」
毎日、夜中に薄汚れたパンダがボソボソと喋りかけてくる――。
想像するだけで鳥肌が立つような不気味な話だったが、凛はこれまで通り、事務的な巫女の対応を崩さずに深く一礼した。
「左様でございましたか。大変な思いをされましたね。……それでは、どうぞ中へお入りください」
凛はヒカルを促し、境内の奥にある厳かな社務所の広間へと案内した。畳の香りが凛と漂うその部屋に、ちょうど来客の対応を終えた神主の大道智一が、静かな足取りで姿を現した。
大道は、ヒカルの派手な茶髪やピアスに一切眉をひそめることもなく、ただ穏やかな眼差しで彼を迎え入れた。そして、ヒカルが机の上に置いた、少し黒ずんだパンダのぬいぐるみを、鋭い観察眼でじっと見つめた。
大道の手が、おもむろに懐から取り出した大麻を振る。シュッ、シュッ、と白い紙垂が空気を割る音が、静まり返った広間に厳かに響き渡る。パンダに丁寧なお祓いを施した後、大道はいつもの慈愛に満ちた優しい笑顔を浮かべ、緊張で固まっていたヒカルの顔を見つめた。
「安心してください、ヒカルさん。このぬいぐるみはね、あなたを呪おうとしているのではありません。むしろ……あなたを必死に守ろうとしてくれているのですよ」
「え……? 守ってる……? こいつが?」
ヒカルは、予想外の言葉に完全に唖然とした表情を浮かべた。
「ええ。子供の頃から、あなたがこの子を本当に大切にされてきた思い出と愛着が、このぬいぐるみには深く、深く刻まれています。この子は、あなたの元に迫りつつある『邪悪な霊』や『恐ろしい魔物』の気配をいち早く察知して、あなたに何か重大な危険を伝えようと、必死に声を振り絞っていたのですね。私には見えますよ。このパンダの背後に、あなたを健気に護ろうとしている、いくつかの神聖な者たちの強力な守護の光が」
大道の重みのある言葉を聞いて、ヒカルは放心したようにパンダのぬいぐるみを見つめ直した。
「そっか……。じゃあ、お祓いしてもらったから、こいつはそのまま持って帰っても大丈夫なんだよね? 俺、やっぱりこいつと離れたくないわ」
「ええ、大丈夫ですよ」
大道は優しく頷いた。
「しかし、あなたに憑こうとしている因縁が少し根深いようだ。より確実にあなたを守るために、もう少しだけ時間をかけて、念入りなお祓いを施す必要がありますね」
「そっか、わかったよ。じゃあさ、今日はこの辺の川湯温泉かどこかの温泉宿にでも泊まるかな。札幌の仕事が忙しくて全然休めてなかったし、久しぶりにのんびりするわ」
元の調子を取り戻したヒカルが、財布を取り出しながら「お祓いの料金っていくら?」と呑気に話し始めた、その時だった。
ピキ、と。
凛の脳裏に、冷たい氷がひび割れるような奇妙な感覚が走った。
(……え?)
息を呑む。
ヒカルの背後。彼が座る畳のわずか数センチ後ろの空間から、まるで生き物のように不気味にくねりながら、「白」「黒」「紫」の、おどろおどろしい三色の湯気のような煙が、ゆらゆらと立ち上っているのが見えたのだ。
その煙は、まるで意思を持っているかのように、ヒカルの首元へ向かってじわじわと触手を伸ばそうとしている。
あまりの禍々しさに、凛の全身にぶわっと鳥肌が立った。心臓が早鐘のように脈打ち、冷や汗が背中を伝う。
だが、目の前で話しているヒカル自身は、自分の背後にそんな恐ろしい煙が漂っていることなんて、一ミリも気づいていない様子で笑っている。
それだけじゃない。隣にいる、あの偉大な陰陽師の血を引く神主の大道先生さえも、何事もない顔でヒカルと書類のやり取りをしているのだ。
(嘘でしょ……!? 誰も気づいてないの!? 大道先生にさえ見えてないの!?)
見えているのは、この部屋の中で、霊能力なんて一切ないはずの自分、ただの腰掛け巫女だった菅原凛、ただ一人だけ。
(いや、ありえない……! 私、今までオバケの気配なんて一回も感じたことないのに……! なんでこれが見えちゃうの!? 私、そっち側の『見える人間』になっちゃったの――!?)
ヒカルの背後で、紫の煙がピクンと跳ね、まるで凛の視線に気づいたかのように、そのドス黒い先端を凛のほうへとゆっくりと向け直した。
凛の二十歳の平穏な日常が、摩周湖の深い霧の向こうにある、底知れない怪異の深淵へと、強制的に引きずり込まれた瞬間だった――。




