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第一章:神の湖の巫女と、黒いレクサスから降り立った男

 神の湖、とアイヌの人々が呼んだ摩周湖の周辺は、十月の終わりともなれば、肌を刺すような冷気と濃密な原生林の匂いに支配される。

 北海道弟子屈町。観光客が押し寄せる展望台から少し離れた、鬱蒼とした木々の隙間に、その神社はひっそりと佇んでいた。鳥居の朱色は、長い年月を経てどこか厳かに色褪せ、背後に控える広大な森の深緑に溶け込んでいる。

 

 名前さえ広く知られていないこの小さな神社が、なぜか道内全域から深い悩みを抱えた人々を引き寄せるのは、ひとえに神主の血筋によるものだった。

 神主、大道智一(おおみち ともかず)。

 彼は、平安の昔から闇を祓い続けてきた高名な陰陽師の血統を現代に受け継ぐ、中年の男性である。彼の元に持ち込まれる依頼は多岐にわたるが、その八割以上は、現代の医学や科学では説明のつかない「霊的な異変」に関わるものだった。呪われた土地の清め、家系に付きまとう因縁の払拭、あるいは悪霊の調伏。道内の資産家や、時には警察の人間さえもが、人目を忍んでこの弟子屈の地を訪れる。

「――凛、そこ。少し箒の動かし方が雑だよ。神域の砂利はね、心を映す鏡だから」

「あ、すみません、先輩」

 菅原凛(すがわら りん)、二十歳。

 境内を掃き清めていた彼女は、先輩巫女からの優しい指摘に、小さく頭を下げて手を動かし直した。白衣に緋袴という巫女の正装に身を包んだ凛は、今日も朝から、神主である大道の厳かな仕事ぶりを遠巻きに眺めながら、神社の日常業務を覚えようと必死になっていた。

 この神社に持ち込まれるのは、およそ二十歳の娘の日常からは程遠いものばかりだ。

 不気味な影が写り込んだ心霊写真の処分、いわくつきの遺品の供養、夜な夜な動き出すと噂される古人形のお祓い。それが、この神社における「いつもの業務」だった。

 だが、当の凛自身は、スピリチュアルな世界や超能力の類には、これっぽっちも縁のないごく普通の人間である。

 高校時代、家から近くて時給が良かったからという単純な理由で始めた巫女のアルバイト。特に将来やりたい仕事も、都会へ出る野心もなかった凛は、高校を卒業した後も、そのまま流れで正規の巫女として雇ってもらっているだけだった。

 同僚の巫女たちはみんな親切で、職場としての居心地は悪くない。けれど、彼女たちが大真面目に語り合う「昨夜の霊気の流れ」だとか「お狐様の気配」といった目に見えない世界の話は、凛にとっては終始ちんぷんかんぷんで、いつも適当に笑顔で相槌を打つことしかできなかった。

 今日も、そんな「ちょっと不思議な、だけどいつも通りの日常」が、静かに流れていくはずだった。

 

 午前十時を回った頃。

 砂利を踏み締める、重厚なタイヤの音が境内に響いた。

 原生林に囲まれた静謐な空間に侵入してきたのは、その場に全くそぐわない、ピカピカに磨き上げられた黒のレクサスだった。ナンバーは「札幌」。遥々、道央の繁華街から数百キロの距離を走ってきたらしい。

 凛が箒を止め、怪訝そうに目を細める前で、高級外車の運転席のドアが開いた。

 降りてきたのは、一目で「堅気ではない」と分かる、異質な空気を纏った若い男だった。

 明るく染め上げられた茶髪は、ワックスできっちりとセットされている。両耳の耳たぶには、秋の木漏れ日を反射してギラリと光る大きなピアス。十月の弟子屈の寒さを舐めているとしか思えない薄手のブランド物のポロシャツに、膝が大きく露出した激しいダメージジーンズ。首元には、これ見よがしに太いシルバーのネックレスが揺れている。

 男の右手には、紫色の煙を細く吐き出すアイコス。

 そして――何より奇妙だったのは、その男の左手だった。

 男は、場違いなほど可愛らしい、小ぶりなジャイアントパンダのぬいぐるみを、まるで大切な赤ん坊のようにしっかりと小脇に抱えていたのだ。

 男はアイコスの煙を吐き捨てると、きょろきょろと境内を見回し、巫女の正装で行く手を阻むように立っていた凛の元へと、軽い足取りで歩み寄ってきた。

「ちわー。ここって、何でもお祓いしてくれるって噂の神社で合ってる?」

 香水の甘ったるい匂いが、冷たい山の空気を汚すように漂う。

 凛は内心の呆れを完璧なプロの微笑みの下に隠し、丁寧に応対した。

「はい、こちらは大道神社でございます。ご祈祷やお祓いのご用命でしょうか?」

 すると、男は凛の顔をじっと見つめ、品定めするような目を向けた後、白い歯を見せてニカッと笑った。

「へえ、巫女さん、結構可愛いじゃん。俺さ、ススキノでホストやってるヒカルって言うんだよね。源氏名だけど。ねえ、今度札幌来ることあったら、うちの店来ない? 俺が、最高に楽しませてあげるからさ」

 ――は?

 凛は一瞬、自分の耳を疑った。

 神聖な境内で、しかも巫女の正装をしている人間に対して、開口一番ホストクラブのキャッチをしてくる人間が存在するのだろうか。あまりのチャラさと、現実に目の前にいる男の浮きっぷりに、凛は完全に啞然としてしまった。

「……お気遣いありがとうございます。ですが、結構です」

 引き攣った笑みを浮かべながら、凛は冷ややかに男の誘いを一蹴した。

「それより、本日はどのようなご用件でしょうか。お祓いでしたら、受付はあちらになりますが」

 ヒカルと名乗った男は、凛の冷たい態度に怯む様子もなく、小脇に抱えたパンダのぬいぐるみをぽんぽんと叩きながら、少しだけ声を低くした。その瞳の奥に、チャラついた態度では隠しきれない、本物の「怯え」のような色がかすかに混じるのを、凛は見逃さなかった。

「あー、ごめんごめん。キャッチは冗談。でさ、本題なんだけど、ここに凄い神主さんがいるって聞いてわざわざ札幌から車飛ばしてきたわけ。その神主さん、今いる?」

「神主の大道は、あいにく今は別のご家族の来客対応中となっております。お急ぎでしたら、私が御用件をお伺いいたしますが……」

 凛がそう告げた瞬間、ヒカルは左手のパンダのぬいぐるみを、まるで爆弾でも扱うかのように、おそるおそる凛の目の前に差し出してきた。そのぬいぐるみは、至る所の縫い目が酷くほつれ、どこか薄汚れていて、長年誰かに執着されていたような、妙に生々しい不気味さを放っていた。

「これさ……夜になると、喋るんだよね。」

 ススキノのホスト、チャラい外見、そして不気味なパンダのぬいぐるみ。

 霊能力など一切ない普通の女の子、菅原凛は、この時のんきにも「また変わった相談客が来たな」としか思っていなかった。

 この目の前の男と、彼が抱える呪わしいパンダのぬいぐるみが、この平穏な弟子屈の日常を、そして自分自身のこれからの人生を、跡形もなく狂わせていくことになる異世界の巨大な陰謀の引き金だとは、まだ夢にも思っていなかったのである――。

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