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深淵の符呪師 ヨグソトースの息子  作者: ケロン藤野


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第17話 新たな拠点


 林の運転する軽トラックは、奥多摩を離れ、八王子市街へ入っていった。


 夕暮れの繁華街。


 道路は仕事帰りの車で混み合い、歩道には買い物客や学生、探索者らしき装備姿の男女が行き交っている。


 二郎は助手席から街並みを眺め、小さく息を吐いた。


「思ったより、人が多いですね。」


 林は穏やかに笑う。


「八王子駅周辺は、この地域最大の繁華街です。」


「探索者協会、商店街、病院、魚人街へ向かうバス停も近く、探索者が生活するには最も便利な場所ですよ。」


「なるほど……。」


 やがて軽トラックは一本裏通りへ入り、一棟の七階建て雑居ビルの前でゆっくりと停車した。


「着きました。」


 二郎は車を降り、建物を見上げる。


 一階には定食屋や居酒屋、小さな雑貨店。


 二階には美容室や事務所。


 三階から上は住居になっているようだった。


 駅から徒歩数分。


 夜でも人通りが多く、生活するには申し分ない場所だ。


「ここが今日から二郎様のお住まいになります。」


「思っていたより街の中心なんですね。」


「探索者は移動が多い仕事です。」


「駅にも探索者協会にも近い方が何かと便利ですから。」


 二郎は嬉しそうに頷いた。


「ありがとうございます。」


 ◇ ◇ ◇


 二人は荷台のロープを外し、荷物を降ろし始めた。


 家具。


 冷蔵庫。


 洗濯機。


 収納棚。


 寝具。


 生活用品の入った段ボール。


 そして、八木家から運んできた大切な符呪台。


 エレベーターで四階へ運び、部屋へ搬入していく。


 何度も一階と四階を往復し、汗を流しながら作業を続けた。


 約一時間後。


 最後の段ボールを運び終える。


「ふぅ……。」


 二郎は額の汗を拭い、大きく息を吐いた。


「さすがに疲れました。」


 林もタオルで汗を拭きながら笑う。


「引っ越しは体力を使いますからね。」


「少し休憩しましょう。」


 林はビルの外へ出ると、近くの自動販売機で冷えたミネラルウォーターを二本買って戻ってきた。


「どうぞ。」


「ありがとうございます。」


 二郎はキャップを開け、一気に飲み干す。


 冷たい水が火照った身体へ染み渡る。


「はぁ……。」


「生き返ります。」


 林はその様子を見て微笑んだ。


「新生活の最初の仕事は引っ越しですからね。」


 ◇ ◇ ◇


 休憩を終えると、林は一つの封筒を取り出した。


「こちらも薫子様からです。」


 二郎は受け取り、中を確認する。


 住民票と現金三十万円。


 銀行の通帳。


 そしてキャッシュカード。


「口座には七十万円入っています。」


「当面の生活費としてお使いください。」


 二郎は思わず目を丸くした。


「こんなに……。」


 林は穏やかな口調で続ける。


「安心してください。」


「この建物は八木家が経営する八木不動産の所有です。」


「家賃は必要ありません。」


「水道・電気・ガスなどの基本料金も、八木家で負担しております。」


「探索者として独り立ちするまでは、生活の心配をせず修行に集中してください。」


 二郎は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。」


「薫子様には、本当に感謝しかありません。」


 林は優しく頷く。


「ですが、一つだけ。」


「生活費は探索者として、自分の力で稼いでください。」


「それも立派な修行です。」


「はい!」


 二郎は力強く返事をした。


 ◇ ◇ ◇


 二人は部屋を見て回る。


「ベランダには物干し。」


「浴室は追い焚き機能付き。」


「収納も大きめに作られています。」


 そしてダイニングの一角を指差した。


「こちらは工房用のスペースです。」


「八木家から運んできた符呪台を、そのまま設置できるようになっています。」


 二郎は室内を見回した。


 生活しやすい間取り。


 広めの収納。


 工房として使えるダイニング。


 探索者の生活を考えて設計された部屋だった。


「……いい部屋だ。」


「ここなら頑張れそうです。」


 ダニッジも満足そうに頷く。


『工房もある。』


『寝床もある。』


『探索者の拠点としては申し分ないのう。』


 ◇ ◇ ◇


 林は時計を見て立ち上がった。


「それでは私はこれで失礼します。」


「何かあれば、いつでもご連絡ください。」


「腕輪型携帯端末機です、探索者用に軽装甲が施して、あります。使ってください。」


「ありがとうございます」と言って受け取る。


「今日は本当にありがとうございました。」


 二郎は深く頭を下げる。


 林も一礼すると、エレベーターへ乗り込み、その姿は見えなくなった。


 部屋は静寂に包まれる。


 二郎はゆっくりと窓を開けた。


 夕暮れに染まる八王子の街。


 遠くには高層ビルが並び、その向こうには鑓水方面の山並みが霞んで見える。


 人々が行き交い、車が走り、どこかで救急車のサイレンが鳴っていた。


 奥多摩とはまったく違う都会の景色。


 二郎は左腕の探索者端末を見つめる。


 画面には現在地と、八王子周辺のダンジョン群が青く表示されていた。


「ここが俺の新しい家か。」


「ここから全部が始まる。」


 ダニッジが静かに笑う。


『そうじゃ。』


『ここからは誰も、お前の代わりに生きてはくれん。』


『探索者・八木二郎。』


『いよいよ、お前自身の物語の始まりじゃ。』


 二郎は力強く頷き、夕暮れに染まる八王子の街を静かに見つめ続けた。


 ――新たな拠点から、新たな探索者の人生が始まる。

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