第16話 旅立ち
一年に及ぶ基礎訓練を終えた翌日。
朝食を終えた二郎は、猪俣に呼ばれ、薫子の部屋へ向かった。
障子を開けると、白い髪に青い瞳を持つ薫子が静かに座っていた。
「失礼します。」
「入りなさい、二郎。」
二郎は正座し、深く頭を下げる。
薫子は優しく微笑んだ。
「林から聞きました。」
「一年間、本当によく頑張りましたね。」
「ありがとうございます。」
「最初は腕立て伏せ五十回で倒れていた子が、ここまで成長するとは思いませんでした。」
二郎は照れくさそうに笑う。
「林さんが厳しすぎたんです。」
その言葉に、ダニッジが笑う。
『逃げなかったのはお主だ。』
薫子も静かに頷いた。
「努力した者だけが強くなります。」
「その努力を続けたことを、私は誇りに思います。」
薫子は一枚の書類を机へ置いた。
「二郎も生まれて六年になります。」
「そろそろヨグ=ソトース様の導きが、夢となって現れる頃でしょう。」
「その時に備え、自分の力で生きる準備を始めなさい。」
ダニッジも静かに頷く。
『十分あり得る。』
『父上は夢を通じて語り掛けることが多い。』
薫子は続けた。
「これからは八王子で暮らしなさい。」
「まずは八王子ダンジョンで探索者として経験を積みなさい。」
「符呪師として技術を磨き、多くを学び、自分だけの道を見つけるのです。」
机の上へ封筒を差し出す。
「探索者登録に必要な書類です。」
さらに銀色の鍵を一つ置いた。
「八王子駅近くに、あなたの住まいを用意しました。」
「家具や生活用品など、最低限の物は揃えてあります。」
「ありがとうございます。」
「そして——」
薫子は細長い木箱を差し出した。
「一年間努力した褒美です。」
二郎はゆっくりと蓋を開ける。
中には一本の術式スクロールが収められていた。
表紙には、
『火炎符呪術式』
と書かれている。
「これは……。」
「火属性付与の符呪術式です。」
「武器へ炎の力を宿すことができます。」
「今のあなたなら十分扱えるでしょう。」
二郎の表情がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
薫子は優しく微笑んだ。
「ただし、驕ってはいけません。」
「符呪は人を守るための技術です。」
「決して力を誇示するために使ってはなりません。」
「……はい。」
二郎は真剣な表情で頷いた。
⸻
部屋を出ると、二郎は待ち切れずスクロールを広げた。
ダニッジが笑う。
『覚えてしまえ。』
『術式は紙に残すものではない。』
『頭へ刻むものだ。』
二郎はスクロールへ魔力を流す。
羊皮紙に描かれた複雑な術式が赤く輝き始めた。
次の瞬間。
無数の文字が光となって二郎の頭へ吸い込まれていく。
「あっ!」
数秒後。
術式は完全に消え、羊皮紙は真っ白になった。
「消えた!」
『それでよい。』
『術式は記憶へ刻まれた。』
『もう忘れることはない。』
二郎は目を閉じる。
頭の中には鮮明な火炎符呪術式が浮かんでいた。
「すごい……。」
「これで火属性符呪が作れる。」
『また一つ、お前の武器が増えたな。』
⸻
その日の午後。
林が軽トラックを車庫から出してきた。
「荷物を積みましょう。」
「お願いします。」
二郎は自室へ戻り、荷造りを始める。
符呪台。
初めて作った火かき棒。
火炎符呪術式を書き留めた研究ノート。
極小型魔力電池シリンダー三本。
簡易ベッド。
小型冷蔵庫。
毛布。
衣類。
作業着。
安全靴。
スニーカー。
投げナイフ三本。
スリングショット。
予備の鉄球。
工具箱。
リュック。
ショルダーバッグ。
ベルトポーチ。
一つひとつ確認しながら箱へ詰めていく。
最後に電動三輪自転車を荷台へ積み込み、林が手際よくロープで固定した。
「これで大丈夫です。」
「ありがとうございます。」
二郎は住み慣れた屋敷を見回した。
一年。
短いようで長い時間だった。
何もできなかった自分を、ここまで育ててくれた場所。
猪俣が近づき、小さなお弁当包みを差し出す。
「道中でお召し上がりください。」
「料理長・角田が腕によりをかけて作りました。」
「ありがとうございます。」
岸本は豪快に笑う。
「八王子でも体は鍛えろよ!」
「山は逃げないからな!」
林は敬礼する。
「訓練は終わりました。」
「ですが、鍛錬に終わりはありません。」
「毎日少しずつでも続けてください。」
「はい!」
薫子も屋敷の玄関まで見送りに来ていた。
「二郎。」
「困った時は一人で抱え込まず、いつでも戻ってきなさい。」
「ここはあなたの家です。」
その一言に、二郎は少しだけ目頭が熱くなった。
「……はい。」
深く頭を下げる。
「行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
八木家の人々が静かに見送る中、軽トラックはゆっくりと屋敷の門をくぐった。
奥多摩の山々が少しずつ遠ざかっていく。
助手席でダニッジが静かに呟く。
『ここからがお前の本当の人生だ。』
『生活費も、自分で稼ぐ。』
『武器も、自分で作る。』
『魔物とも戦う。』
『そして、いつの日か父上の導きを受けることになる。』
二郎は窓の外へ広がる景色を見つめ、小さく頷いた。
「もう迷わない。」
「この世界で生きていく。」
軽トラックは奥多摩を後にし、八王子の街へ向かって走り続ける。
八木二郎、六歳。
探索者としての新たな人生が、いま幕を開けた。




