第90話
教皇が消えた後、聖都アレクシアはしばらく混乱した。
長く国を支配してきた者が突然いなくなり、聖王もすぐに国を治められる状態ではなかったためだ。
けれど、残された聖徒や国の有力者達が話し合い、周辺国からの支援も受けながら、少しずつ新しい形を整えていった。
壊れた街も、今では少しずつ元の姿を取り戻しつつある。
私にも、大聖堂へ残り、聖女として人々を導いてほしいという話があった。
けれど、それは断った。
怪我人を治したり、困っている人を助けたりすることは出来る。
けれど、誰かの上に立ち、信仰の象徴になるつもりはなかった。
オズもかつての大賢者として、国の立て直しに力を貸してほしいと頼まれていた。
けれど、そちらは私よりも早く、話を最後まで聞く前に断っていた。
それでも、時折口を出してはいるらしい。本人は助言ではなく、見ていられないだけだと言っていた。
*
私とオズは、大聖堂から少し離れた場所で、一緒に暮らすようになった。
街の外れに建つ、小さな二階建ての家だ。
初めて見た時は二人で暮らすには広いと思ったけれど、今ではその考えが間違っていたと分かる。
「オズ!」
返事はない。
研究部屋の扉を開けると、案の定、足の踏み場もないほど紙が散らばっていた。
机の上はもちろん、椅子や床、窓辺にまで、細かな文字や魔法陣が書き込まれた紙が積み重なっている。中には丸められ、部屋の隅へ放り投げられているものまであった。
もちろんこれは一部屋に収まりきらない。オズが移動する先々でこうだ。
「昨日片付けたばかりなのに!」
「勝手に触るなと言ったはずだが」
机へ向かっていたオズが、こちらを見ることもなく答える。
「触らないと歩けないでしょう!」
「必要なものは全て把握している」
「じゃあ、この丸まってる紙は?」
「失敗した術式だ」
「これは?」
「途中で不要になった計算だ」
「こっちは?」
「それは要る。捨てるな」
「分かりにくいよ!」
床の紙を一枚ずつ拾い上げ、必要なものといらないものに分けていく。
オズは一度記憶したことを忘れない。
だから、どれだけ散らかっていても、どの紙がどこにあるのか本当に把握しているらしい。
けれど、一緒に暮らす私のことは全く考えていない。
「そもそも、どうして紙が床にあるの?」
「机の上に乗りきらないからだ」
「整理してよ」
「後で使う」
「要らないものも混ざってるんでしょ?」
「問題があるか」
「あるよ!」
声を上げても、オズは再び机へ向き直ってしまった。
今、彼が調べているのは、異なる世界を繋ぐ方法だ。
女神の力も、四つの媒体も、もう残っていない。
それでもオズは、私を元の世界へ帰す方法を探すという約束を忘れてはいなかった。
教皇が残した異世界召喚の記録や、古代魔法について記された資料を集め、毎日のように術式を組み立てている。
まだ、手掛かりと呼べるものはほとんどないらしい。
それでも、見付からないからと諦める様子はなかった。
「ところで、朝ご飯は?」
「必要ない」
「必要だよ」
「今は手が離せない」
「食べないと片付けちゃうからね。せっかく作ったのに」
無言で睨まれたけれど、私も負けずに見つめ返す。
不老の魔法が切れたオズの身体には、食事も睡眠も必要だ。
けれど本人には、まだその習慣がほとんどない。放っておけば何日でも机に向かい続けようとする。
「冷めちゃうよ」
「……分かった」
深い溜息を吐きながら、ようやく椅子から立ち上がった。
こうして素直に食卓へ来るようになっただけでも、最初の頃よりは進歩している。
顔を上げると、オズの視線が私の髪に注がれていることに気付いた。
「何?」
問い掛けても答えず、こちらへ手を伸ばしてくる。
銀色の指先が、私の髪へ触れた。
「えっ」
「動くな」
髪に絡んでいた小さな紙屑を摘まみ、無造作に取り除く。
どうやら、散らばった紙を片付けている間に付いてしまったらしい。
「これくらい自分で取れたのに」
「気付いていなかっただろう」
「それは、そうだけど……」
触れられた髪を耳へ掛けようと手を上げる。
同じ場所から手を離そうとしていたオズの指先と、私の手がぶつかった。
ほんの一瞬だけ、互いの指が触れ合う。
オズは何も気にしていない様子だった。
けれど私は、その手が離れていく前に、咄嗟に指を掴んだ。
オズが、繋がった手へ視線を落とす。
「……何だ」
「別に」
少しだけ声が上擦った。
振り払われるかもしれない。
そう思ったけれど、オズは手を離さなかった。
呆れたように小さく息を吐いただけで、そのまま手を引いて歩き出す。
たまにこうして触れても、オズは振り払うことをしなかった。
研究部屋を出たところで、玄関の扉が開く音が聞こえた。
「よう、大賢者様。今日も随分派手に散らかしてるな」
聞き慣れた声と共に、ジルが勝手に家へ入ってくる。
その後ろには、籠を抱えたシャルネが立っていた。
私は一人で駆け出し、彼らを出迎える。
「こんにちは、レイアさん。お昼にと思って、焼き菓子をお持ちしました」
「シャルネ! ありがとう」
「おい」
オズの低い声が響く。
「僕はお前達を招いた覚えはない」
「でも、追い返したこともないだろ?」
「今から追い返してもいい」
「もう入っちゃったから遅いって」
ジルは全く気にせず、食卓の椅子へ腰を下ろした。
シャルネも申し訳なさそうに笑いながら、籠を机へ置く。
ジルは以前と変わらず情報屋を続けていて、街や大聖堂で妙な動きがあればすぐに調べているらしい。
シャルネは実家のあるランドールと聖都を行き来しながら、支援物資や人員のやり取りを手伝っている。
忙しいはずなのに、二人はこうして頻繁に遊びに来てくれた。
「嫌なら鍵を掛ければいいだろ」
「お前には意味がない」
「よく分かってるじゃないか」
オズが露骨に溜息を吐く。
けれど、本当に嫌なら追い出すことくらい簡単にできるはずだ。
それをしないどころか、いつの間にか食卓には四人分の椅子が置かれるようになっていた。
初めは二脚しかなかった。
なぜ増やしたのか聞いた時、オズは必要だから置いただけだと答えた。
「レイアさん、何かお手伝いしますか?」
「大丈夫。ちょうど朝ご飯を並べるところだったから、二人も食べていく?」
「俺は喜んで」
「私もよろしいのですか?」
「もちろん!」
「勝手に決めるな」
「オズは食べないの?」
「食べる」
「じゃあいいでしょう」
「よくない」
そう言いながらも、オズは自分の椅子へ腰を下ろした。
四人で食卓を囲む。
ジルが街で聞いた話を面白おかしく話し、シャルネが時折それを咎める。
私は笑いながら焼き菓子へ手を伸ばし、オズは騒がしいと言いつつ席を立たない。
その光景を見ていると、時々胸が痛んだ。
ここにいない二人を思い出す。
リオンなら、きっとジルの話へ余計な口を挟んでいただろう。
ベリルは興味がないような顔をしながら、シャルネに菓子を渡されれば黙って受け取ったかもしれない。
寂しさが消えることはない。
忘れることも、きっとない。
それでも、悲しいことばかりを抱えて生きていくわけではなかった。
「そういえば、研究は進んでるのか?」
ジルがオズへ尋ねる。
「お前に説明しても理解できない」
「順調かどうかくらい答えられるだろ」
「多少は進んだ」
「それ、順調ってことでいいのか?」
「だから、お前に説明しても理解はできない」
素っ気ない答えに、ジルが肩を竦める。
私は向かいに座るオズを見た。
元の世界へ帰る方法が、本当に見付かるかは分からない。
一年後かもしれない。
十年後かもしれない。
どれだけ探しても、見付からない可能性だってある。
今でも、家族に会いたいと思う。
夜、一人で空を見上げると、胸が苦しくなることもあった。
それでも私は、ただ帰れる日を待っているわけではない。
この世界で朝を迎え、誰かと食卓を囲み、笑いながら一日を過ごしている。
「レイアさん?」
「え?」
シャルネの声で我に返る。
「今度、ランドールへ一緒に行きませんか? 父も、またお会いしたいと申しておりました」
「行きたい!」
「でしたら、日程を決めましょう」
「オズは行かないの?」
「行く必要がない」
「どうせレイアが行けば、後から来るだろ。ほっとけ」
オズの足元に魔法陣が浮かび、ジルの椅子だけが僅かに傾いた。
「ちょっ、危ねえな! 食事中に魔法を使うなよ!」
「もう! 二人ともやめて!」
私が咎め、シャルネが慌てて食器を押さえる。
騒がしい声が、家の中へ響いた。
私は笑いながら、その光景を眺める。
いつか、本当に帰る道が見付かるかもしれない。
その時には、また迷うのだろう。
家族のいる世界へ帰るのか。
この場所へ残るのか。
今はまだ、答えを出す必要はない。
オズが道を探してくれている間、私はこの世界で生きていく。
泣いて、笑って、大切な人達と共に過ごしていく。
元の世界にある家を、忘れたわけではない。
けれど、笑い声の聞こえるこの場所もまた、今の私が帰る家だった。
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