第89話
呆れたような声が聞こえた。
「違うの?」
「違う」
あまりにも即座に否定され、言葉に詰まる。
「でも、大切な人なんでしょう?」
「大切かどうかと、そういう間柄かどうかは別の話だ」
「ずっと、ナギさんのことを気にしていたから……」
「かつて珍しい精霊師がいた。僕が知っている人間の中では、確かに気の合う奴だった。気に掛ける理由としては、それで十分だろう」
「それだけ?」
「他にどんな答えを望んでいる」
冷たく返される。
けれど、ナギが世界の狭間に取り残されていたことを知ってからのオズは、確かにそれだけではなかった。
「世界の狭間にいると言った時は、気に掛けていたよね」
「知った顔が百年も閉じ込められていると知って、何も思わないほど薄情な人間ではないつもりだ」
「だから、恋しいのかと……」
「なぜそうなる」
本当に理解出来ないらしい。
オズは深く息を吐き、額へ手を当てた。
「奴を元の世界へ帰す方法を探していただけだ。別にそういう意味で執着したわけではない」
「そうだったんだ……」
「お前は、そんな思い込みで僕を避けていたのか」
心臓が跳ねる。
「避けてなんか」
「まともに目も合わせなかった奴が、何を言うんだ」
「それは……」
何も言い返せない。
オズは横目で私を見たあと、再び夜空へ視線を戻した。
「くだらない」
「くだらなくないよ。私にとっては大事なことだったの」
「聞けばよかっただろう」
「聞けるわけないでしょう」
「なぜだ」
「ずっと想っている人がいるのかなんて、聞けるわけ」
言ってから、失敗したと思った。
オズがゆっくりとこちらを見る。
月明かりの下でも、その表情から何を考えているのかは分からない。
「……今のは忘れて」
「無理だな。お前のように、すぐに都合よく物事を忘れる頭は持っていない」
即答だった。
恥ずかしさに耐えられず、顔を逸らす。
オズはそれ以上追及しなかった。
しばらく、木々の間を通り抜ける風の音だけが続く。
「奴は帰ったのか」
やがて、オズが静かに尋ねた。
「うん」
「望んだ場所へ?」
「うん、迷ってなかったよ」
「そうか」
短い返事だった。
「最後に、笑ってた」
「…………」
「ほんの少しだけ。泣きながら、ありがとうって言ってくれた」
オズは何も答えない。
けれど、その横顔が僅かに和らいだように見えた。
「オズは、怒ってないの?」
「何に対してだ」
「私が勝手にナギさんを帰したこと」
「既に決めたことを責めても意味はない」
それは、怒っていないという意味ではなさそうだった。
「それに、奴を帰したこと自体は間違いではない」
「じゃあ、昼からずっと不機嫌なのは何で?」
「お前が何の相談もなく、自分の帰る道を捨てたからだ」
「相談する時間なんてなかったよ」
「それは分かっている」
「なら、仕方ないでしょう」
「ああ。だからお前を責めるつもりはない」
そう言いながら、声は明らかに不機嫌だった。
しばらくの間のあと、オズは僅かに眉根を寄せた。
「ただ、気に入らないだけだ」
「同じじゃない?」
「違う」
私には違いが分からなかった。
オズは黙り込み、夜空に散らばる星を見つめている。
「……もう、お前は戻れない」
「うん」
「本当に、理解しているのか」
「してるよ」
「なら、なぜ泣いている」
言われて初めて、頬が濡れていることに気付いた。
慌てて手で拭う。
「これは、違うの」
「何が違う」
「ナギさんを帰したことを後悔してるわけじゃない」
「それと、帰れないことを悲しむのは別だろう」
優しく慰めるでもなく、オズは淡々と言った。
「だって、私が決めたことだから」
「失ったものを惜しまない理由にはならない」
失ったもの。
家族の顔が浮かぶ。
もう会えない。
どれだけ望んでも、声を聞くことさえ出来ない。
「帰りたかった……」
声に出した瞬間、涙が次々と溢れた。
「お父さんにも、お母さんにも会いたかった。私がいなくなって、きっと心配してる。何も言わずにいなくなったから……」
「ああ」
「でも、ナギさんを帰したかったのも本当なの」
「分かっている」
オズは否定しなかった。
私を慰めるような言葉も口にしない。
ただ、隣に立っていた。
しばらくして涙が落ち着くと、オズが静かに口を開いた。
「帰す方法を探す」
「え?」
「お前を元の世界へ帰す方法だ」
聞き間違えたのかと思った。
「でも、女神様がもう戻れないって」
「精霊王の力は二度と頼れないと言っただけだろう」
「世界を渡る方法は、あれしかないんじゃ……」
「現時点で分かっている方法が、あれだけだという話だ」
オズは当然のことのように言う。
「別の方法が存在しないと証明されたわけではない」
「そんなの、見付かるか分からないよ」
「ああ」
「何年掛かるかも……」
「構わない」
迷いのない返事だった。
「僕が探す」
「どうして?」
思わず尋ねる。
オズは小さく首を傾げた。
なぜそんなことを尋ねるのかとでも言いたげな仕草だった。
「今、お前が帰りたいと言ったんだろう」
「でも、私はここに残るって決めた」
「それは現時点で、他に道がないからだ」
「違うよ。シャルネやジルもいるし、この世界で生きていくことが嫌なわけじゃない」
「それでも、家族に会いたいのだろう」
「…………」
「探す理由としては十分だ」
あまりに当たり前のように言われて、何も言い返せなくなる。
返事が決まらないうちに、勝手に唇が開いた。
「私が残るの、嫌じゃないの?」
聞くつもりはなかったのに、言葉が零れた。
オズは少しだけ目を細める。
「……どういう意味だ、それは」
「少なくとも、喜んでいるようには見えなかったから」
「そうか」
「それだけ?」
短く息を吐き、オズは頭上の星空を見上げた。
「お前が戻ってきた時、僕は安堵した」
静かな声だった。
「だが、帰る道を失ったお前に、そんなことを言えるはずもない」
胸が締め付けられる。
オズは私がこの世界に残ったことを喜んでくれている。
それでも、自分のために私を引き留めようとはしない。
「帰る方法、見付からないかもしれないよ」
「それを決めるのは、調べた後だ」
「私に出来ることは?」
「余計なことをせず待っていろ」
「またそれ?」
「それが一番難しいだろう」
否定出来なかった。
不意に、睨むような眼差しが私に向いた。
「お前、精霊王を召喚するとき何を考えていた」
「えっ」
思わず押し黙る。
この空気の中で、まさか突然お説教が始まるとは思っていなかった。
だが、向けられる視線は答えが返るまで、いつまでも待つつもりのようだった。
「その、家族に、会いたいなって……」
オズの視線が、物理的に刺さりそうなほど冷ややかなものに変わる。
思わず逃げるように視線を泳がせた。
オズの足が一歩、私へと近付く。
「お前が一度、水の精霊王を召喚し損ない、死にかけた時に言ったはずだ」
「はい」
また一歩、距離が縮まる。
低い声は私の真上から降り注ぐ。
「余計なことを考えるなと。集中しろと。僕は何度も言った」
「はい……」
冷や汗が出そうだった。
オズはそのまま何も言わずに私の脇を抜け、宿へ戻ろうとする。
「オズ」
呼び止めると、足を止めた。
「ありがとう」
「まだ何もしていない」
「それでも言いたいの」
オズは片足を引いて振り返った。
私の姿を確認するような間の後、ほんの僅かだけ、その口元が弧を描く。
瞬きを挟めば見間違いだったのかと思ってしまうほど、一瞬のことだった。
「帰り道が見付かるまでは、ここにいればいい」
それだけ言って、暗い宿の中へ戻っていく。
私はその背中を追えず、しばらく一人で立ち尽くしていた。
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