第88話
「レイア!」
名前を呼ぶ声に、目を開けた。
青い空が見える。
背中には柔らかな草の感触があり、頬を風が撫でていた。
戻ってきた。
そう理解するより早く、体を抱き起こされる。
「レイアさん……!」
シャルネの腕が、痛いほど強く私を抱き締めた。
「シャルネ……?」
「よかった。本当に、よかったです……!」
震える声が耳元で聞こえる。
肩口に温かなものが落ちて、シャルネが泣いているのだと気付いた。
「ごめんね。心配掛けて」
「心配どころではありません!」
珍しく強い口調で叱られる。
「突然消えてしまって、もう二度とお会い出来ないのだと……何もお伝え出来ないまま、レイアさんが帰ってしまったのだと思ったんです」
「うん……私も、何も言えなかった」
背中へ腕を回す。
いつも私を包んでくれた温かな場所だ。
もう二度と触れられないかもしれないと思ったばかりなのに、今は確かにここにいる。
「おいおい、俺にも無事な顔を見せてくれよ」
ジルの声がして、シャルネがようやく腕を緩めた。
顔を上げると、ジルがすぐ近くにしゃがみ込んでいる。
「急に消えたと思ったら、今度は空から落ちてくるんだもんな。心臓が止まるかと思ったぜ」
「空から?」
「ああ。光が消えたと思ったら、お前が上から落ちてきた」
ジルは笑っている。
いつもの軽い笑い方だったけれど、金色の瞳には僅かに涙が滲んでいた。
「戻ってきてくれて、よかった」
その一言だけは、冗談めかしていなかった。
「……うん。ただいま」
そう答えると、ジルはくしゃりと私の頭を撫でた。
「おかえり」
胸の奥が温かくなる。
帰る場所を失ったはずなのに、同時に別の場所へ帰ってきたのだと思った。
シャルネが再び私の手を握る。
「お怪我はありませんか? 苦しいところは?」
「大丈夫。何ともないよ」
「本当に?」
「本当に」
何度答えても、シャルネは心配そうに私の顔を見つめていた。
その後ろに、オズが立っている。
少し離れた場所から、黙ってこちらを見ていた。
他の三人と違って、喜んでいるようには見えない。
むしろ呆れているようにさえ見える。いつもと同じ無表情だった。
けれど、足元には幾度も地面が抉られた跡が残っている。
魔法陣を刻む度に削られた痕跡だ。
私が消えた後も、どうにか連れ戻そうとしていたのだろう。
「オズ」
呼ぶと、彼はゆっくりと近付いてきた。
私の前へ片膝をつき、頬や首元へ視線を向ける。
そのまま手首を掴まれた。
「え?」
「黙っていろ」
冷たい指先が脈を確かめている。
怪我がないと分かると、今度は私の瞳を覗き込んだ。
魔力の状態を確かめているのかもしれない。
「体に異常は?」
「ないよ」
「記憶の欠落は」
「それもない」
「精霊の加護は」
意識を集中させる。
火、水、風、地。
四つの加護は、以前と変わらず私の中にあった。
「ちゃんとある」
「そうか」
オズは手を離した。
それだけだった。
「……それ、だけ?」
「何を期待している」
「別に、期待してないけど」
シャルネやジルはあれほど喜んでくれたのに。
そう思ってしまった自分が恥ずかしくなり、視線を逸らす。
オズは四つの媒体が置かれていた場所へ目を向けた。
海竜の逆鱗も、世界樹の根核も、空界鳥の風切羽も、魔王の瞳も残っていない。
全て、精霊王を召喚するための力へと変わったのだろう。
「何があった」
静かな声で尋ねられる。
シャルネとジルも、私の返事を待っていた。
「女神様に会ったの」
「女神……?」
「世界を渡る力を、どう使うか聞かれた」
シャルネの表情が僅かに曇る。
「では、なぜレイアさんはここに?」
手を握る力が強くなった。
「私の代わりに、ナギさんを帰したから」
風が吹き抜ける。
誰もすぐには言葉を返さなかった。
「——奴を?」
オズが聞き返す。
「うん。だからナギさんは、もう大丈夫」
「それで、お前は」
オズの声が一度途切れる。珍しく、その先の言葉を選んでいるような間だった。
もう帰れないことは、聞かれなくても私が一番分かっている。
「……うん」
はっきりと答える。
「世界を渡る力は一度だけだって言われた。もう二度と、私は帰れない」
シャルネが息を呑んだ。
けれど次の瞬間には、私の手を両手で包み込む。
「後悔は、されていませんか」
「分からない」
正直に答えた。
「家族には会いたい。きっと、これから何度も帰りたいと思う。でも、ナギさんを帰したことは後悔してない」
「そうですか」
シャルネは少し寂しそうに、それでも優しく微笑んだ。
「でしたら、これからも一緒にいられることを喜んでもよいでしょうか」
「もちろん」
答えた途端、再び抱き締められた。
「ありがとうございます」
「何でシャルネがお礼を言うの?」
「だって、嬉しいんです」
そのまま泣きながら笑うシャルネを見て、私も笑った。
「俺も喜んでるぜ」
ジルが横から口を挟む。
「ま、こんな厄介な世界に残るなんて物好きだとは思うけどな」
「ジル様」
「冗談だって」
二人のやり取りに、ようやく張り詰めていた空気が緩んだ。
オズだけは何も言わなかった。
私が視線を向けると、彼は既に背を向けている。
「戻るぞ」
「今すぐ?」
「ああ、日が暮れる前に聖都へ戻る」
いつもと変わらない声だった。
*
その夜は城下町にある、被害を逃れた宿を借りたが、なかなか眠れなかった。
シャルネは私が消えてしまわないか心配なのか、同じ部屋で休むと言い張った。
けれど一日中動き回っていたせいもあり、横になるとすぐに眠ってしまった。
起こさないように寝台を抜け出し、外へ出る。
街はただ静かだった。
夜風が吹き抜けていき、冷えた空気が頬に触れる。
元の世界では、今頃どんな季節なのだろう。
家族は眠っているだろうか。
それとも、まだ私を探しているのだろうか。
考え始めると胸が苦しくなり、逃げるように夜空から視線を逸らした。
その先に、先客がいた。
オズが一人、空を見上げている。
黒い服が闇へ溶け込み、銀色の髪だけが月明かりを受けていた。
「オズ」
呼び掛けると、ゆっくりと振り返る。
「何をしている」
「眠れなくて」
「そうか」
それだけ答え、また空へ視線を戻した。
そっと隣へ立つ。拒まれはしなかった。
あの後から、まともに私を見ようとしない。
ナギの言った通り、勝手な判断をしたことを怒っているのかもしれない。
「……ごめんなさい」
「何がだ」
「ナギさんを、一人で帰したこと」
オズの眉が僅かに寄る。
「なぜ、それを僕に謝る」
「だって、オズも会いたかったでしょう?」
今度こそ、彼がこちらを見た。
何を言われたのか分からないような顔をしている。
「何の話だ」
「ナギさんは、オズにとって大切な人なんでしょう」
「…………」
「でも、もう会えない。元の世界に帰っちゃったから。だから謝るの」
一度でも、きっと顔を見たかったはずだ。でも、その機会はもう永遠に失われてしまった。
そう続けようとした私を、オズは無言で見つめていた。
長い沈黙の後、深く息を吐く。
「お前は」
頭が痛いとでも言うように、片手で額を押さえた。
「奴と僕を、妙な関係だと思っているだろう」
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