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第87話


「この力を、ナギさんに譲って」


 白い空間に、私の声が静かに響いた。

 女神はすぐには答えなかった。

 光で形作られたその姿が、水面のようにゆっくりと揺らぐ。


 ナギは、百年もの間、何もない世界の狭間に一人でいる。

 私はこの世界で、たくさんの人と出会えた。

 泣いて、笑って、誰かの手に触れることが出来た。


 ナギには、もうそれすらない。

 ゆっくりと顔を上げる。


「……私は、それでいい」


 声は震えた。

 けれど、もう一度、今度ははっきりと言う。


「ナギさんを帰して」


『その選択に、悔いはありませんか』


「ないとは言えない」


 家族を思えば、胸が痛む。

 きっとこの先も、何度も帰りたいと思うだろう。


「でも、私が決めたことだから」


 女神の光が、僅かに揺れた。


『その願いを聞き届けましょう』


 亀裂の向こうの風景が揺らいだ。

 裂け目の向こうには、何の光もない暗闇が広がっている。

 見ているだけで、冷たさと孤独が伝わってくるようだった。


 その中に、一人の人影が立っていた。

 長い時を過ごしたはずなのに、その姿には疲労も老いも見えない。

 ただ、何の感情も映さない瞳が、暗い空間を静かに見つめている。


「ナギさん」


 呼び掛けると、その瞳が私へ向けられた。


「精霊師か」


 驚きも、喜びもない声だった。


「ここは……」


「女神様の……精霊の領域みたい」


「そうか」


 ナギは女神を見上げる。

 驚くこともしない。

 その表情は少しも変わらなかった。


「私をここへ呼んだ理由は?」


 喉が詰まりそうになる。


「元の世界へ帰れることになったの」


 ナギの瞳が、僅かに揺れたように見えた。


「そうか」


「ナギさんの話だよ」


 短い沈黙が落ちる。


「——意味が分からない」


 声は相変わらず平坦だった。


「世界を渡る力は、お前が得るものだったはずだ」


「私がナギさんに使うって決めたの」


「取り消せ」


 初めて、返事が少しだけ早かった。


「その必要はない。お前が戻るべきだ」


「私は、ここに残る」


「同情で選ぶことではない」


「同情じゃないよ」


 ナギの言葉を遮る。


「私は自分で選んだの」


「お前には家族がいるはずだ」


「ナギさんにもいるでしょう?」


 答えは返らなかった。


「会いたい人がいるんでしょう?」


 また沈黙が落ちる。

 何度、呼吸を挟んだだろうか。


「……いた。私にも、会いたい者が」


 小さな声だった。

 それでも、表情は変わらない。


「なら、帰ろう」


「お前は二度と戻れなくなる」


「うん。女神様から聞いた」


「それでも私を選んだのか」


「うん」


 ナギは私を見つめていた。

 その視線の奥に何があるのか、読み取ることは出来ない。


「オズウェルには話したのか」


「話してない」


「そうか」


 僅かな間を置き、ナギは続ける。


「怒るだろうな」


「……やっぱり?」


「あれは、自分の知らないところで物事を決められることを嫌う」


 想像しただけで少し怖くなり、でも、小さく笑えた。


「オズは元気だよ」


「そうか」


 今度の返事は、ほんの少しだけ柔らかく聞こえた。

 女神の周囲に、無数の光が浮かび始める。

 一つ一つが星のように輝き、暗闇の中へ道を作っていく。


『精霊師』


 女神の声が響いた。


『望む時と場所を示してください』


 ナギは光を見上げた。

 長い間、何も映していなかった瞳に、無数の星が宿る。


「戻る場所は、私が決めてよいのか」


『ええ』


 ナギは目を閉じた。

 星の光が一つずつ動き、複雑な軌道を描いていく。

 私にはそこで何が起きているのか、何も分からない。

 けれどナギは迷わなかった。


「見付けた」


 目を開いた時、亀裂の向こうに光が満ちた。

 眩しいほどの光が差し込んでいる。

 その先はきっと、元の世界へ続く道のはずだ。

 音もなく、ナギは一歩そちらへと踏み出した。


「レイア」


「何?」


「お前は、この選択を後悔する時が来るかもしれない」


「うん」


「それでも、私だけはお前の選択を否定はしない」


 振り返った顔は、まだ無表情だった。

 けれど、その頬を一筋の涙が伝う。


 ナギ自身も気付いていないかのように、静かに零れ落ちた。

 そして、ほんの僅かに口元が緩む。

 長い間失われていたものが、一瞬だけ戻ったような微笑みだった。


「ありがとう」


 その言葉を最後に、ナギは光の中へと歩いていった。

 亀裂がゆっくりと閉じる。

 最後に見えた微笑みが消え、白い空間に静寂が戻った。


『願いは果たされました』


 女神の声が響く。

 元の世界へ続く光は、もうどこにもなかった。


 胸の奥に大きな穴が開いたように感じる。

 それでも私は、閉じた亀裂のあった場所を見つめていた。


「……よかった」


 零れた声と一緒に、涙が頬を伝った。

 白い光が、ゆっくりと薄れていく。


 女神の気配が遠ざかる。

 足元の感覚がなくなり、視界の全てが白で塗り潰されていく。

 もう一度目を閉じると、最後にナギが浮かべた微笑みが脳裏に残った。


お読みいただきありがとうございます。

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