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第86話


 翌日、森へ入ってから、随分と歩いた。

 街からそれほど離れてはいないはずなのに、木々の奥へ進むほど、人の気配は遠ざかっていく。


 風が葉を揺らす音。

 側の川に宿る水の気配。

 木漏れ日の暖かさと、土から伝わる力。

 そして、この場にはない火の温かな気配も。


 この森には、四つの属性が満遍なく満ちていた。


「この辺りだ」


 先を歩いていたオズが足を止める。


 木々に囲まれた、円形に開けた場所だった。

 頭上を覆う枝葉もそこだけ途切れ、青い空が見えている。


「随分と都合のいい場所があったもんだな」


 ジルが周囲を見回した。


「偶然ではない。複数の地脈が交わっている」


 オズはしゃがみ込み、地面へ片手を触れる。

 足元に地属性の魔法陣が広がった。

 続けて水、火、風。

 四つの魔法陣が順に完成し、それぞれ異なる方向へ細い光を伸ばしていく。


「ここであれば、魔力は足りる」


「今日、精霊王を呼び出すわけではないのですよね?」


 シャルネの問いに、オズは首を横へ振った。


「今日は確認だけだ。土地と媒体が正しく呼応するかを見る」


 荷物から四つの媒体を取り出す。

 海竜の逆鱗、世界樹の根核、空界鳥の風切羽。

 どれもオズから受け取ったもの。

 

 最後に加わったのは、ベリルから託された赤い瞳だった。

 手に取ると、あの時と同じ微かな熱を感じる。


「方角を間違えるな」


 オズの指示に従い、私達は媒体を運んだ。

 南には地。

 東には水。

 西には火。

 北には風。

 開けた場所を囲むように、四つの媒体を離して置く。


 術式は描かれていない。

 召喚のための準備も、まだ何一つしていない。

 今日はただ、媒体が互いを認識するか確かめるだけだった。


「聖女」


「何?」


「余計なことはするな」


 念を押すように、オズがこちらを見た。


「媒体へ力を流すな。精霊へ呼び掛けるな。歌うことも禁止だ」


「しないよ」


「お前の言葉は信用できない」


「本当にしないってば」


 昨日あれだけ泣いたせいか、まだ目の奥が重い。

 それでも、いつもと変わらないオズの言い方に、少しだけ頬を膨らませることができた。

 ジルが肩を竦める。


「まあ、何かやるつもりの奴ほど、やらないって言うからな」


「ジルまで!」


「私はレイアさんを信じています」


 シャルネが微笑む。


「ただ、念のため少し離れておきましょう」


「シャルネも信じてないよね?」


 ほんの少しだけ、笑い声が生まれた。

 昨日の夜にはなかったものだ。


 私は開けた場所の中央に立ち、四方へ置かれた媒体を見渡した。

 これが揃えば帰れる。

 ずっと、そう信じて旅をしてきた。


 いつも通りに家を出た、あの日の朝。

 お母さんが用意してくれた朝ご飯。

 それを並んで食べた弟の笑顔。

 仕事へ向かうお父さんの背中。

 いってらっしゃいと言った時、まさか二度と会えなくなるかもしれないなんて思わなかった。


(会いたいな)


 胸の奥でそう呟いた。


(家に帰りたい)


 その瞬間。

 西に置いた赤い瞳が光った。


「え……?」


 続けて、残る三つの媒体が反応する。

 四方から放たれた光が、私のいる中央へ伸びた。


「レイア!」


 ジルの声が響く。

 オズが眉根を寄せて私を睨んだ。

 

「何をした」


「何もしてない!」


 本当に、何もしていない。

 魔法を使っていない。

 精霊へ呼び掛けてもいない。

 それなのに、四つの媒体は激しく輝き、森全体が震え始めた。


 オズの足元に魔法陣が描かれる。

 光を遮るように、土壁が地面から立ち上がった。

 けれど壁は、媒体から伸びる光へ触れた瞬間に消えた。


 壊れたのではない。

 最初から、そこには存在しなかったかのように。


「どういうことだよ! 何が起きてる!」


「僕にも分からない」


 風が激しく巻く。

 ジルの地魔法も、シャルネが放った風の矢も、私の周囲まで届かなかった。

 光の手前で輪郭を失い、消えていく。

 シャルネが私へ走り出す。


「レイアさん!」


 伸ばされた手へ、私も手を伸ばした。

 届かない。

 目の前にいるのに見えない壁に阻まれて、その距離は少しも縮まらなかった。


「何をしている、早く戻れ」


 オズの言葉に従いたくても、それ以上足が進まない。

 その足元では魔法陣が何度も描かれ、完成するたびに光へ呑まれて消えていく。

 

 以前、オズはこう言った。

「人の身で精霊の領域に干渉などできるものか」と。

 今なら、その言葉の意味が分かる。

 

 ここはもう、私達がいた森の一部ではない。

 人の魔法が届かない。

 手も、声も届かない。

 精霊の領域だ。


「オズ!」


 呼び掛けても、返事は聞こえなかった。

 

 白い光が視界を埋めていく。

 最後にもう一度、オズの姿を見ようとした。

 けれど、表情を確かめることはできなかった。


 気付けば、私は真っ白な空間に立っていた。

 空も地面もない。

 どこまでも白く、何も存在しない場所。

 ジルも、シャルネも、オズもいない。


「……オズ?」


 返事はない。


「ジル! シャルネ!」


 声だけが、白い空間へ溶けていく。

 その時、目の前に四つの光が現れた。

 青。

 赤。

 緑。

 黄。

 神殿で出会った、四体の精霊王。


 四つの光は互いへ近付き、重なっていく。

 小さな身体が一つへ溶け、やがて一つの人の姿を象った光へと変わった。

 その光の中には、四つの色が揺らめいていた。

 神々しいはずなのに、不思議と懐かしさを感じる。


『ようやく、ひとつに戻ることができました』


「あなたは……」


『かつて、人はわたくしをアレクシアと呼びました』


 息を呑む。

 この国の名。

 アレクシア教で語り継がれてきた女神。

 遠い昔、人々を救ったとされる存在。


「女神アレクシア……?」


『そう。わたくしは世界を守るため、四つへ分かれました』


 女神の周囲に、四体の精霊王の姿が一瞬だけ浮かぶ。


『地、水、火、風。貴女が出会い、契約を交わした者達は、全てわたくしの一部です』


「精霊王が、女神……」


『そして今、四つの力は再び、ひとつとなりました』


 女神が両手を広げる。

 真っ白な空間の中に、亀裂が走った。

 何も言われなくても分かった。その先に、帰るべき場所があるのだと。


『世界を超える力が、今ここにあります』


「帰れるの……?」


 胸が大きく鳴った。

 あれほど求めていた言葉だった。


 今願えば、お父さんとお母さんの元へ帰れる。

 もう一度、家族に会える。


 一歩、亀裂へ近付く。

 けれど、足が止まった。


「待って」


 背後を振り返る。

 そこには何もない。


「オズ達に、別れを言ってない」


『力がひとつとなった今、精霊の領域は既に開かれました』


「一度、戻ることはできないの?」


『この機会を逃せば、同じ道が再び開くことはありません』


 女神の声は穏やかだった。


『媒体も役目を終え、既に失われました。元の世界へ渡れば、ここへ戻ることもできなくなります』


「じゃあ……」


 このまま帰るしかない。


 オズに。

 ジルに。

 シャルネに。

 ありがとうも、さようならも言えないまま。

 

 リオンとベリルが消えた次の日に、今度は私が突然いなくなる。

 森に残された三人は、私が元の世界に帰れたことさえ分からないかもしれない。

 

 胸の奥が苦しくなる。

 帰りたい。

 ずっと帰りたかった。

 そのために、ここまで来た。

 けれど。

 

 白い空間に、長い沈黙が流れた。

 ふと、別の顔が浮かぶ。

 百年前、この世界へ迷い込んだ、その人。


 四属性の精霊王と契約しながら、元の世界へ帰ることはできず。

 誰にも見つけてもらえない世界の狭間で、たった一人、百年もの時を過ごしてきた精霊師。


「……一つ、聞いてもいい?」


『何でしょう』


「この力を、誰かに譲ることはできる?」


 女神の瞳が、静かに私を見つめる。


『それを望めば、貴女は元の世界へ帰れません』


「分かってる」


 声が震えそうになる。


 お父さん。

 お母さん。

 会いたい。

 今でも、どうしようもなく会いたい。


 それでも、世界の狭間で一人きりになっているあの人を、このまま置いてはいけない。


「百年前の精霊師が、世界の狭間にいる」


 拳を握る。


「ナギさんっていう人」


『知っています』


「その人に、この力を渡したい」


 女神は何も答えなかった。


「あの人を、元の世界へ帰してあげたい」


 口にした瞬間、胸の奥が強く痛んだ。


 これは、自分が帰れなくなるという選択だ。

 家族へ二度と会えないかもしれない。


 あれだけ焦がれた自分の家へと続く道を、今、自分で絶とうとしている。

 涙が頬を伝った。

 喉の奥で息が震えた。

 それでも、言葉を取り消すことはしなかった。


「お願い」


 真っすぐに女神を見つめる。


「この力を、ナギさんに譲って」


お読みいただきありがとうございます。

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