第85話
大聖堂を出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
私達を止める者はいなかった。
廊下にも、広間にも、聖徒の姿はほとんどない。戦いの音を聞いて逃げたのか、それとも大聖堂の外で救助に当たっているのかは分からなかった。
ジルを先頭に、崩れた壁から外へ出る。
「正面は避けるぞ」
声を潜めながら、ジルが細い通路へ入っていく。
「教皇が死んだなんて、今すぐ説明して信じてもらえる話じゃない。俺達が出てきたところを見られたら、面倒なことになる」
「追われるでしょうか」
シャルネが不安そうに辺りを見回す。
「教皇を殺した犯人だって思われたらな。少なくとも、今夜は人目につかない方がいい」
大聖堂の裏手から、崩れかけた建物の間を進んだ。
聖都アレクシアの街は、来た時よりも更に酷い有様になっていた。
通りには壊れた荷車や家具が散乱し、石造りの建物の幾つかは壁ごと崩れている。魔物に襲われた跡が至るところに残り、遠くでは今も火の手が上がっていた。
救助に走る人達の声が聞こえる。
泣きながら誰かの名前を呼ぶ声も。
足を止めそうになる私の腕を、オズが掴んだ。
「行くぞ」
「でも、怪我をしている人がいるかもしれない」
「お前はまともに立ててすらいない」
言われて初めて、自分の足が震えていることに気付く。
「今戻れば騒ぎになる。治療をするにしても、夜が明けてからだ」
「……うん」
今は、力を使えば何とかなるという状態ではなかった。
胸の奥には、リオンが消えた時の感触が残っている。
空になった腕を思い出すたび、また涙が溢れそうになった。
街の宿も、ほとんど使える状態ではなかった。
窓が割れているだけならまだいい方で、入口が潰れた建物や、屋根が落ちてしまった建物も多い。無事な場所には怪我人や家を失った人達が集まり、旅人が泊まれる余裕などなさそうだった。
ジルの案内で街を抜け、私達は大聖堂から少し離れた小高い丘へ向かった。
木々に囲まれた場所で、街道からも見えにくい。
「ここなら、今夜くらいは見つからないだろ」
ジルが荷物を下ろす。
誰も異論を口にしなかった。
ジルは街を出る途中で拾ってきた薪を組み、シャルネが火を灯した。
小さな炎が、四人の顔を照らす。
四人。
数えるまでもなく、それだけだった。
少し前まで、この火を囲む輪の中にはリオンとベリルもいた。
ベリルは火をじっと見つめたまま、必要がなければ何も話さなかった。
リオンは頼んでもいないのに軽口を叩き、オズに黙れと言われても笑っていた。
「……静かだね」
思わず零れた声に、誰も答えなかった。
シャルネが俯き、膝の上で両手を強く握る。
目元は、まだ赤いままだった。
ジルは簡単な食事を用意してくれたが、ほとんど喉を通らない。温かいはずのスープも、味がよく分からなかった。
私は荷物の奥へ仕舞った小箱に触れた。
中には、ベリルから受け取った赤い瞳が入っている。
風、水、地、火。
四体の精霊王を呼び出すために必要な媒体は、全て揃った。
「明日、帰還する準備をする」
不意に、オズが言った。
顔を上げる。
「明日……帰るの?」
「話を聞け。明日すぐに門を開くとは言っていない」
オズは小さく息を吐いた。
「まず、この付近が四体の精霊王を同時に呼び出すのに相応しい土地か確かめる。必要な魔力が満たされていなければ、場所を移す」
「媒体も確認するんだよね」
「ああ。四つを並べ、互いに正しく呼応するかを見る。一つでも不完全なら、召喚はできない」
帰れる。
そのための準備が、明日から始まる。
ずっと望んできたことなのに、胸が高鳴ることはなかった。
お父さんとお母さんに会いたい。
家に帰りたい。
その気持ちは、今も変わっていない。
けれど、帰るために必要な媒体の最後の一つをくれたベリルも、一緒に旅をしてきたリオンも、もういない。
「媒体に問題がなければ、いつ頃になりますか?」
シャルネが尋ねる。
「土地次第だ。早ければ数日以内には試せる」
「数日……」
シャルネの声が小さくなる。
私が帰れば、きっともう二度と会えない。
その事実を、今になって急に突き付けられたような気がした。
しばらく、薪の弾ける音だけが続いた。
「この国は、これからどうなるんだろう」
丘の下に広がる街を見つめながら呟く。
教皇はいなくなった。
けれど、聖王は教皇に自我を奪われたままだ。
国を治める二人のうち、一人は死に、もう一人は自分の意思で動けない。
「しばらくは荒れるだろうな」
ジルが炎へ小枝を投げ入れる。
「教皇が何をしてたか知らない奴の方が多い。突然死んだと知れば、信徒は混乱する。次の教皇を選ぼうにも、今までのやり方が使えるかも分からない」
「聖王様は、元へ戻せないのでしょうか」
シャルネがオズを見る。
「状態を確認しなければ断言はできない。だが、長期間自我を削られていたのであれば、元通りになる可能性は低い」
「では、誰がこの国を……」
「それを決めるのは僕ではない」
オズは淡々と告げた。
「教皇を下したからといって、この国を治める権利まで得たわけではない」
「でも、放っておけないよ」
「放っておくとは言っていない。いずれ、街の状況を確認する。必要であれば、教皇が行っていたことを証明するものも探す」
戦闘で大きく崩れた大聖堂には、まだ教皇が千年もの間集めてきた記録が残っているかもしれない。
それがあれば、全てをただの作り話として片付けられずに済む。
「ランドールへも知らせるべきですね」
シャルネが涙の跡を拭い、顔を上げた。
「父へ連絡を取ることができれば、他国の国王へも事情を伝えていただけると思います」
「外から軍隊なんか連れてきたら、余計に揉めるけどな」
「分かっています。ですが、食料や薬を届けることはできるはずです」
「そっちは頼んだ方がよさそうだ」
ジルが頷く。
「俺も、街の連中から話を聞いてみる。聖徒の中にも、教皇に疑問を持ってた奴がいるかもしれない」
「私にも、手伝えることがあるかな」
「今、考える必要はない」
即座にオズが言った。
「どうして?」
「今日は休め。余裕が出来るのは大精霊召喚の目処が立ってからだ」
「でも——」
「眠れ」
反論を許さない口調だった。
ジルが僅かに笑う。
「今日は大人しく言うこと聞いとけよ。顔、酷いぞ」
「ジル様、その言い方は失礼です」
「泣き腫らしてるって意味だって」
シャルネが少しだけ笑った。
ほんの僅かな笑みだったけれど、それを見て胸の奥が少し温かくなる。
火を囲む輪は、小さくなった。
それでも、ここにいる皆まで失ったわけではない。
毛布に身体を横たえる。
丘の下では、まだ人々の声が聞こえていた。
目を閉じると、リオンの笑った顔と、我が子を抱くベリルの姿が浮かぶ。
涙が一筋、頬を伝った。
けれど、もう声を上げて泣く力も残っていなかった。
明日になれば、帰るための準備が始まる。
この世界へ来てから、ずっと待ち望んでいたはずの日が近付いている。
そのことを考えながら、私はいつの間にか眠りへ落ちていた。
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