第84話
もう、鐘は鳴らない。
床を覆っていた光も、二度と戻ることはなかった。
教皇だった白い灰が、崩れた祭壇の前に積もっている。
祈りの間には、私達の荒い呼吸だけが残されていた。
「……終わったの?」
自分の声が、ひどく遠く聞こえる。
「ああ」
オズの短い返事が落ちた。
その言葉を聞いた途端、張り詰めていた力が抜ける。
膝から崩れそうになった私を、ジルが支えてくれた。
「まだ倒れるなよ。やることが残ってるだろ」
ジルの視線を追う。
崩れた壁際に作られた土の囲い。
その中で、ベリルの子供は静かに横たわっていた。
ベリルは既に、その傍らへ膝をついている。
布に包まれた身体は、あまりにも細い。
頬は深く窪み、閉じられた目は動かない。呼吸だけが、ごく僅かに胸を上下させていた。
「治すから」
私はジルの腕を離れ、子供の元へ駆け寄った。
「待て、聖女」
「待てないよ」
ベリルの制止を振り切り、両手を痩せ細った身体へ翳す。
温かな光が溢れた。
傷を探す。どこか治せる場所はないか、糸口を探す。
苦しめているものを見つけ、それを取り除こうと力を注ぐ。
けれど、何も変わらなかった。
細い指は動かない。
瞼も開かない。
呼び掛けに応えることもない。
「どうして……」
もう一度、光を強める。
「レイアさん」
シャルネが背後から私の肩へ触れた。
「もう少しだけ」
「聖女」
先程より低いベリルの声がした。
「やめよ」
「でも、まだ息をしてる。だったら助けられるかもしれない」
「これは生きているのではない」
光が揺らいだ。
ベリルは、我が子の頬へ小さな手を添えた。
「ただ、死ぬことができぬだけだ」
「そんな……」
「不死とは、命を守る力ではない。終わりを奪う力だ」
ベリルの表情は変わらない。
けれど、頬に触れる指だけが、僅かに震えていた。
「では、この子は……ずっと?」
「意識が戻ることもなく、ただこの状態で在り続けたのであろう」
何百年、もしかするとそれよりもずっと前から。
飲むことも、食べることもできず。
誰かの声に答えることもできず。
ただ、死ねないというだけで。
「嫌だよ」
声が震えた。
「こんなの、あんまりだよ。何か方法があるはずでしょう?」
ベリルは答えなかった。
代わりに、我が子の身体を布ごと抱き上げる。
枯れ枝のような腕が、力なく垂れた。
「生かす方法はない。だが、終わらせる方法はある」
顔を上げる。
「本当に?」
「ああ」
ベリルは我が子を抱いたまま、淡々と告げた。
「余が、この子を取り込む」
すぐには意味が分からなかった。
「取り込むって……」
「魔族は余より生まれた存在。余と一つになれば、この子の存在は余へ還り、ようやく終わりを迎えられる」
「だったら——」
「だが、余も消える」
続く言葉が喉に詰まった。
「魂は、自身以外の存在を内に保つことができぬ。取り込めば、余も存在を維持できなくなる」
「そんなの駄目だよ!」
「構わぬ」
「構うよ!」
思わずベリルの腕へ手を伸ばす。
「他の方法を探そう。今すぐには無理でも、オズならきっと何か——」
振り返る。
オズは私達を見つめていた。
「ねえ、オズ。何かあるよね?」
すぐには返事がなかった。
銀色の瞳が、ベリルと、その腕の中にいる子供へ向けられる。
「……ない」
短い言葉だった。
「どうして」
「魔王の言葉が正しい。そいつの存在を終わらせるには、それ以外に方法はない」
「でも、ベリルまで消えちゃうんだよ」
「分かっている」
いつもと変わらない声だった。
けれど、オズはそれ以上何も言わなかった。
否定できないのだ。
ベリルが選んだ方法しかないと、彼にも分かっている。
「余は、このために戻り続けた」
ベリルが我が子を抱く腕へ力を込める。
「国も、民も、妻も失った。だが、この子だけは人間共に奪われたままであった」
「だからって……」
「この子を取り戻すことが、余の全てであった」
赤い瞳が私へ向けられる。
「ようやく、終えられる」
その言葉に迷いはなかった。
私は何も返せない。
ベリルの決断を認めたくないのに、それを止めれば、子供はこれからも永遠にこのままだ。
ベリルが片手を持ち上げる。
掌を覆った黒炎が、片方の赤い瞳へ集まった。
炎が消えた時、その手には宝石のように輝く赤い球が乗っていた。
「約束の物だ、聖女」
差し出されたものを見つめる。
火の精霊王を召喚するための媒体。
魔王の瞳。
「受け取れ」
「でも……」
「余が消えれば、これも共に失われる」
四属性の媒体が揃えば、元の世界へ帰るための門を開ける。
それを求めて、ここまで旅をしてきた。
なのに、差し出された赤い瞳へ手を伸ばすことができない。
「聖女」
ベリルが静かに私を呼ぶ。
「約束は守る」
震える両手で、赤い瞳を受け取った。
手の中に収まったそれは、微かな熱を持っていた。
「……ありがとう」
「ああ」
ベリルはそれだけ答え、リオンへ顔を向ける。
「勇者」
「何?」
リオンは柱に背を預け、腕を組んで立っていた。
いつものように、僅かな笑みを浮かべている。
「余が消えれば、その心臓に繋ぎ止められているお前も消える」
「そうだろうね」
あまりにも軽い返事だった。
私は赤い瞳を握り締めたまま、呆然としてリオンを見る。
「……知ってたの?」
「何となくはね。俺の体は魔王の心臓で保たれてるんだ。持ち主がいなくなれば、こうなるのが普通でしょ」
「そんな……」
リオンは僅かに肩を竦める。
「まあ、仕方ないな」
笑っていた。
まるで、旅先で予定が少し変わっただけのように。
ベリルが目を伏せる。
「旅が終われば、再び戦う約束であったな」
「そうだったね」
「守れそうにない」
僅かな沈黙の後、リオンが笑った。
「……本当に、仕方ないな」
同じような言葉なのに、先程より少しだけ寂しく聞こえた。
ベリルは何も返さなかった。
我が子を胸元へ抱き寄せる。
長い赤髪が、痩せ細った身体を包んだ。
誰も止められなかった。
黒炎が、二人を静かに包み込む。
側にいても熱は感じない。
何かを焼く炎ではなかった。
子供の身体が、指先から小さな光へ変わっていく。
最後まで、目を覚ますことはなかった。
声を発することもなかった。
ただ、ベリルの腕の中で少しずつ輪郭を失い、その身体へ溶けていく。
ベリルは俯いたまま、我が子から目を逸らさなかった。
やがて、抱いていた身体が完全に消える。
何もなくなった腕を、ベリルはしばらく胸元へ寄せていた。
「……これでよい」
小さな呟きだった。
ベリルの指先も光へ変わり始める。
「ベリルちゃん……」
シャルネが口元を押さえる。
既に大粒の涙が頬を伝っていた。
ベリルは私達を一度だけ見渡した。
その表情は、これまで見たどの顔よりも穏やかだった。
赤い光が全身を包む。
そして、何の音も残さずに消えた。
「ベリル……」
呼んでも、返事はない。
同時に、背後で何かが崩れる音がした。
息も出来ないまま振り向く。
リオンの右手が、指先から灰のように消え始めていた。
「リオン!」
駆け寄り、消えかけた腕へ治癒の光を注ごうとする。
残った左手が、私の手首を掴んだ。
「無理だよ」
「やってみないと分からない!」
「俺は怪我しているわけじゃない」
魔力を注いでも、崩壊は止まらない。
「元々、百年前に死んでるんだから」
「嫌だよ」
声が震えた。
「そんなこと、言わないでよ」
リオンの腕が更に消えていく。
身体を繋ぎ止めていた力は、もうどこにもない。
「仕方ないだろ」
「仕方なくない!」
リオンの胸へしがみ付く。
触れていないと瞬きのうちに消えてしまいそうで怖かった。
涙が止まらなかった。
「嫌だよ……やっと全部終わったのに、どうしてリオンが消えなきゃいけないの……!」
背後から、シャルネの啜り泣く声が聞こえる。
「リオン様……」
ジルは何も言わず、泣き崩れそうになるシャルネの肩を抱いていた。
オズも黙ったまま、リオンを見ている。
リオンの左手が、私の頭へ置かれた。
「あんた、本当に泣き虫だね」
いつもの、掴みどころのない声だった。
「だって……」
「でも、まあ」
髪を撫でる手の感触が、少しずつ薄くなっていく。
「今回の旅は、悪くなかったよ」
「リオン……」
「楽しかった」
胸元へ押し付けた顔を上げる。
リオンは笑っていた。
頬のひび割れも、首の傷も、そのままで。
けれど、百年分の苦しみをようやく手放したような、穏やかな笑みだった。
最後にリオンはオズへと視線を向け、弧を描いた唇で、声もなく何かを呟いた。
オズも、浅く頷いて応えた。
直後、触れていたはずの感触が消える。
伸ばした腕の中には、何も残らなかった。
「……リオン?」
名前を呼ぶ。
返事はない。
空になった腕を抱えたまま、私はその場へ膝をついた。
床へ、涙が幾つも落ちる。
手の中では、ベリルから受け取った赤い瞳が静かに輝いていた。
これで、四つの媒体が揃った。
元の世界へ帰るために必要なものは、全て手に入った。
けれど、それを喜ぶ声は、祈りの間のどこからも上がらなかった。
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