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第83話


「器だけでも、いただきましょう」


 教皇の言葉と同時に、崩れた床へ白い光が走った。


「聖女様、そこを離れろ!」


 リオンの声に身体を引こうとする。

 けれど、足元に現れた古代魔法陣から伸びた光が、私の両足へ絡み付いた。

 動けない。


 鐘の下敷きになった教皇の身体から、眩い光が立ち上る。

 人の形を保ったそれは、半透明の腕を私へ伸ばした。


「聖女!」


 ベリルの黒炎が光を呑み込もうとする。

 けれど、触れる直前にオズの風が炎を押し流した。


「手を出すな。聖女ごと焼くつもりか」


「ならば、どうする!」


「黙っていろ」


 光が胸へ入り込んだ。

 身体の内側へ、氷の塊を押し込まれたような冷たさが広がる。


「……っ!」


 息ができない。

 膝から力が抜けたはずなのに、身体は倒れなかった。

 私の意思とは関係なく、右手がゆっくりと持ち上がる。


「レイアさん……?」


 シャルネの声が震えていた。

 返事をしようとしても、唇が動かない。

 代わりに、私の口から教皇の声が零れた。


「実に素晴らしい」


 自分の声なのに、自分の言葉ではない。


「若く、傷一つない身体。それだけではなく、四体の精霊王の力まで宿している」


(出ていって)


 心の中で叫ぶ。

 けれど教皇は、私の腕を眺めながら満足そうに指を動かした。


「この身体さえあれば、祈りなど必要ありません。精霊の力を用いれば、今まで以上に世界を正しく導けるでしょう」


「お前……!」


 ジルが駆け出そうとする。

 その前を、オズの土壁が塞いだ。


「黙っていろと言ったはずだ」


「だけど!」


「奴はまだ身体を奪えていない」


 オズの声だけが、変わらず冷静だった。

 銀色の瞳が、私の足元に残る古代魔法陣を見つめている。


「次の器へ移るには、必ず条件があるはずだ。こいつはその過程を全て省いた」


 私の身体が僅かに震える。

 教皇が笑おうとしたのか、唇の端だけが不自然に持ち上がった。


「だから何だと言うのです」


「虚勢を張るな」


 オズの足元へ、四属性の魔法陣が描かれ始める。


「身体を動かすだけで精一杯だろう」


「……黙りなさい」


「精霊の力も扱えていない。お前はその身体に入ったのではない。無理にしがみ付いているだけだ」


 教皇が私の右手をオズへ向けた。

 熱い力が掌へ集まる。


(やめて!)


 必死に腕を押さえようとする。

 けれど、指一本動かせない。


「大賢者。これ以上何かすれば、この娘の魂も壊れますよ」


 オズは表情を変えなかった。


「違う。壊れかけているのは、お前の魂だ」


 四つの魔法陣が完成する。

 火、水、風、地。

 異なる力が古代魔法陣の周囲へ流れ込み、白い紋様を一つずつなぞっていく。


「何を……」


「お前の術を逆に辿っている」


「一度見ただけで、理解できるはずがない!」


「お前は何も分かっていない」


 いつもの、どこか呆れたような、淡々とした声だった。


「大賢者と呼ばれる者が、この程度出来ないはずがない」


 古代魔法陣の光が逆向きに流れ始めた。

 身体の中にいた何かが、大きく揺らぐ。


「やめなさい!」


 私の口から、教皇の叫び声が響いた。


 右腕が勝手に持ち上がり、オズへ力を放とうとする。

 その手首を、自分の左手が掴んだ。

 僅かに。

 本当に僅かだけれど、動いた。


「……渡さない」


 今度は、私の声だった。


「これは、私の身体だから」


『無駄です』


 教皇の声が、頭の内側へ直接響く。


『貴女は器にすぎない。元より、その力を扱う資格などない』


「勝手に決めないで!」


 指先へ力を込める。

 身体の奥で、四つの気配が動いた。

 精霊達が、私を押し戻そうとする教皇へ抗っていた。


 視界が揺れる。

 目の前にいるオズの姿が、何度も遠ざかりそうになる。


「レイア」


 聞き慣れた声で名前を呼ばれた。


「目を覚ませ」


「……起きてる、よ」


「ならば抵抗していろ」


 相変わらず、優しくはない言葉だった。

 けれど、その声が私をここへ繋ぎ止める。


「お前の身体だ。奪われるな」


「分かってる……!」


 声と同時に、光が身体の外へ弾けた。

 胸から白い腕が引きずり出される。

 教皇の魂が、私へ爪を立ててしがみ付いた。


「嫌です!」


 初めて聞く、教皇の取り乱した声だった。


「この身体は私のものです! 私が選び、私が力を集めさせた!」


「違う!」


 私は両腕で、自分の胸を抱き締める。


「私の人生も、私の力も、あなたのものじゃない!」


 オズの魔力が、教皇を捕らえた。

 逆向きに流れる魔法陣の光が、一気に教皇の魂へ絡み付く。


「その程度で逃げられると思うな」


 白い人影が、私の身体から完全に引き剥がされた。

 教皇の魂は宙でもがき、崩れた祭壇の傍らにある元の身体へ引き戻されていく。


「待ちなさい! あの身体はもう——」


「お前の戻る場所は、そこだけだ」


 光が教皇の肉体へ押し込まれた。

 激しい衝撃に、床へ転がる。


「レイア!」


 ジルが駆け寄り、倒れそうになった私を支えた。

 シャルネも子供の側から走ってくる。


「レイアさん、大丈夫ですか?」


「うん……大丈夫」


 胸へ手を当てる。

 心臓は早鐘のように鳴っている。

 けれど、身体は確かに私のものだった。


「……何を、したのです」


 教皇の声が聞こえた。

 鐘の破片の間で、傷付いた身体を起こそうとしている。

 けれど、床へついた指先が白く崩れた。


「な……」


 灰のような欠片が、さらさらと床へ落ちる。

 一度魂を失った身体は、既に死を迎えていたのだ。

 戻ってきた魂を支えられず、手の先から少しずつ崩壊していく。


「止めなさい、大賢者」


 オズは答えない。


「この身体から、私を出しなさい」


「不可能だ」


 青い瞳が、はっきりと揺れた。


「嘘です。貴方ならできるでしょう」


「できたとしても、する理由がない」


 教皇の足元へ伸びていた魔法陣が消える。

 魂は完全に肉体へ縛り付けられていた。

 もう次の器へ移ることはできない。


「私は、この世界に必要な存在なのです」


 教皇の声が震え始める。


「私がいなければ、世界は再び争いに満ちる。人々は何を信じ、何に縋ればよいのです」


 誰も答えない。

 リオンは大剣を下ろしている。

 ベリルの掌からも、黒炎が消えていた。


 誰も、とどめを刺そうとはしなかった。


「勇者」


 教皇がリオンへ手を伸ばす。


「貴方を英雄にして差し上げます。今度こそ、正しい物語を——」


「いらないよ」


 リオンは静かに答えた。


「もう、俺の旅は終わっている。百年前にね」


 伸ばした腕が、肘まで崩れ落ちる。

 教皇はベリルへ顔を向けた。


「魔王。貴方の子を救う方法を、私は知っています」


「黙れ」


 それだけだった。

 赤い瞳には怒りすら浮かんでいない。

 教皇は最後に、私を見た。


「聖女……貴女は、この世界を知らない」


「そうかもしれません」


「ならば、私を否定する資格など——」


「あなたがいなくても、人は自分で生きていけます」


 教皇の頬へ亀裂が走る。

 青い瞳が大きく見開かれた。


「間違えることも、傷付け合うこともあると思う。でも、それを理由に、誰かが全部を奪っていいわけじゃない」


「私は……人々を……」


 唇が崩れ、言葉が途切れる。

 最後まで差し伸べる手を探すように、残った片腕が宙を彷徨った。

 けれど、誰もその手を取らなかった。


 教皇の身体は静かに傾き、白い灰となって祭壇の跡へ崩れ落ちる。

 長い間、この世界を操り続けてきた者の最期とは思えないほど、小さな音だった。


 祈りの間に静寂が訪れる。

 もう、鐘は鳴らない。

 床を覆っていた光も、二度と戻ることはなかった。


お読みいただきありがとうございます。

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