第79話
「平穏な世では、人は祈りを忘れてしまいます」
教皇の声が、静かな祈りの間へ広がる。
「ですから時には、救いを求めるための恐怖が必要なのですよ」
あまりにも穏やかな口調だった。
街が壊され、人が傷付き、家族を失った者達が泣いている。
その全てを、自分へ祈らせるために必要なことだったとでも言うように。
「それで、異形を放ったの?」
「ええ。突然現れた未知の存在。見慣れた魔物よりも、人々の恐怖を煽るには適していたでしょう」
「ふざけるな」
ベリルの低い声が響いた。
小さな身体から滲んだ黒炎が、足元の白い床を焦がす。
「余の眷属ではないものを呼び出し、余の名を使って人間を怯えさせた。それだけではあるまい」
赤い瞳が、教皇を射抜くように睨みつける。
「遥か昔、余の国を襲い、民を殺し、我が子を奪ったのも……同じ理由か」
教皇は否定しなかった。
それどころか、懐かしい話でも聞いたかのように目を細める。
「ええ。あの頃は、現在ほど祈りを集める仕組みが整っておりませんでしたから」
ベリルを包む黒炎が大きく揺れた。
「貴様……」
「人々の心を一つへ向けるには、分かりやすい敵が必要だったのです」
「そのために、あの子を奪ったのか!」
「貴方がどのような選択をするかまでは、私にも分かりませんでした」
教皇は静かに首を振った。
「ですが、結果として貴方は自らと民へ呪いを掛け、魔王という存在と、魔族や魔物を生み出した。そして、人の世へ何度でも戻る存在となった」
「余が望んで魔王になったとでも言うつもりか」
「選んだのは貴方でしょう?」
その一言に、ベリルの表情が歪んだ。
「選ばせたのは、お前だ」
黒炎が今にも教皇へ襲い掛かりそうに膨れ上がる。
その前へ、リオンが片腕を伸ばした。
「まだだよ」
「退け、勇者」
「子供が助かったって合図は来てない。今ここで始めたら、また同じことになる」
小さな囁きに、ベリルは奥歯を噛み締める。
炎は消えなかったが、それ以上広がることもなかった。
教皇はその様子を眺めながら、僅かに笑う。
「転生する度、人を襲う魔王。それが現れれば、人々は救いを求めて祈ります」
祭壇の前をゆっくりと歩きながら、言葉を続ける。
「魔王へ立ち向かう勇者が現れれば、その勝利を祈る。勇者が勝てば感謝の祈りを捧げ、敗れれば、今度こそ救われるようにと更に強く祈る」
私の隣で、リオンの表情から笑みが消えていた。
「そして魔王は、時が経てば何度でも蘇る」
教皇がベリルへ視線を向ける。
「一度きりで終わらない。実に優れた仕組みでした」
「仕組み……?」
声にしたのは私だった。
魔王と勇者。
多くの人達が恐れ、憧れ、語り継いできた存在。
リオン達は命を懸けて魔王と戦った。
ベリルは、奪われた子供を取り戻すために何度も人の世へ戻った。
数え切れないほどの命が失われた。
それなのに、教皇にとっては。
「全部、祈りを集めるためだったの……?」
「もちろん、貴方達がどのように戦い、どちらが勝つかまで決めていたわけではありません」
教皇は責任を否定するように、両手を軽く広げる。
「私はただ、舞台を用意しただけです」
「舞台……」
「魔王と勇者。人々にとって、これほど分かりやすい御伽噺はないでしょう?」
御伽噺。
その言葉が、胸の奥へ冷たく突き刺さる。
誰かに語り聞かせるための物語。
けれど、その中で傷付き、死んでいった者達にとっては、決して物語ではなかった。
「俺達が殺し合ってきたのは、あんたに祈りを集めるためだったんだ」
リオンが静かに呟く。
怒鳴ってはいない。
それでも、その声にはこれまで聞いたことのないほど冷たい響きがあった。
「魔王を倒すために死んだ奴も、魔王に殺された奴も。全部、あんたにとっては祈りを生み出す道具だった」
「人々を救う力を維持するには、祈りが必要なのです」
「救う?」
思わず聞き返してしまう。
「あなたが危険を作って、あなたが救ってるように見せていただけでしょう!」
「結果として、人の世は続いています」
「あなたがいなければ、苦しまなくてよかった人が何人いたと思ってるの!」
私の声が、広い祈りの間へ響いた。
教皇の表情は変わらない。
何を言われても、自分が間違っているとは欠片も考えていないのだろう。
ふと、オズが静かに口を開いた。
「一つ、不自然な点がある」
私達の感情など初めから関係ないように、冷静な声だった。
「これほど長い期間、同じ仕組みが維持されてきたことだ」
教皇の青い瞳が、オズへ向く。
「教皇が代替わりするたび、思想も判断も変わる。後継者が同じ目的を引き継ぐとも限らない。まして、誰一人として仕組みを止めようとしなかったとは考えにくい」
「代々、優れた者が教皇を務めてきたからではありませんか?」
「違う」
オズは即座に否定した。
「何代もの教皇が同じ思想を持っていたのではない」
静かに靴底を鳴らし、一歩教皇へ近付く。
「最初から、同じ人間だった」
教皇が僅かに目を細めた。
初めて、その微笑に違う色が混じったように見えた。
驚きではない。
正解を言い当てた者へ向ける、愉快そうな色だった。
「人間、という呼び方が今も正しいかは分かりませんが」
否定はしなかった。
喉の奥で、声が震える。
「では、本当に……」
「教皇の崩御に立ち会えるのは、次代の教皇だけ」
オズが続ける。
「その時に魂を移している。新しい肉体へ、自分自身を」
「ええ」
教皇はあっさりと認めた。
「この身体が役目を終える時、次の器へ移る。それだけのことです」
「身体の持ち主はどうなるの?」
「私の一部になります」
「そんな……」
「元々の記憶も残りますから、周囲に疑われることはありません。新たな教皇は以前の人格を保ちながら、先代から叡智の全てを受け継ぐ。実に理想的な継承でしょう?」
継承ではない。
次の教皇に選ばれた人間の身体を、奪っているだけだ。
「なら、歴代の聖王を操ってきたのも、全てお前一人か」
オズの問いに、教皇が頷く。
「国を治める者が、時代ごとに異なる意見を持っては困りますから」
「だから自我を奪ったの?」
「聖王として正しく振る舞えるよう、余分なものを取り除いただけです」
人間の意思を、余分なものと言い切る。
教皇にとって、聖王も勇者も魔王も聖女も、全て自分の目的を果たすための役にすぎない。
リオンがゆっくりと教皇へ顔を向けた。
「じゃあ、一つだけ聞いていい?」
いつもの軽い口調だった。
けれど、金色の瞳には何の笑みもない。
「百年前、魔王を倒して戻った俺の首を落とせって命じたのも——今ここにいる、あんたなんだね」
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