第77話
地下へ続く階段を下りるにつれ、祈りの声は次第にはっきりと聞こえるようになった。
「教皇猊下へ、我らの祈りを」
「救済を。永遠の安寧を」
抑揚のない声が、幾つも重なっている。
階段を下りきった先に広がっていたのは、記憶にある地下牢だった。
冷たい石壁。左右に並んだ鉄格子。そして、奥に残された処刑台。
その光景を目にした瞬間、心臓が凍り付いたように冷たくなる。
(ここは、私が一度死んだ場所……)
教皇エスティラの命令によって、首を落とされた。
血に濡れた床も、自分の身体から離れていく感覚も、もう思い出したくない。それなのに、身体だけがあの時の恐怖を覚えていた。
「止まるな」
オズの声に我へ返る。
「……うん」
震えそうになる指を握り、先へ進んだ。
牢の中には、白い聖服を纏った何人もの聖徒が詰め込まれていた。
皆、床へ膝をついて両手の指を組み、俯いたまま祈りを捧げている。
額や膝は擦り切れ、乾いた血が付着していた。声が枯れている者もいる。それでも、誰一人として祈ることを止めない。
「教皇猊下へ、我らの祈りを」
「救済を。永遠の安寧を」
先程、上の階で床が崩れたというのに、顔を上げる者すらいなかった。
「やはり、祈りを集めているな」
「この人達から……?」
オズは興味のなさそうな表情で、最も手前の牢を覗き込む。
鉄格子の扉は閉じられているものの、鍵は掛かっていなかった。
オズは扉を開けて中へ入ると、一人の聖徒の肩を靴先で軽く押す。
身体が揺れても、祈りの言葉は途切れない。
「オズ、もう少し優しく……」
「反応を見ているだけだ」
そう言いながら今度は聖徒の顎へ指を掛け、顔を上げさせる。
その表情には何の感情もなく、開かれた瞳の焦点も合っていなかった。
意識はないように見える。
けれど、祈りの形を取った指は崩れず、唇だけが同じ言葉を繰り返していた。
「洗脳されてるの?」
「似たようなものだ。僕の時代から、教皇は祈りに宿る信仰を力としていた」
オズが聖徒の顔から手を離す。
「こうして強制的に祈らせているということは、仕組みは変わっていないらしい」
「助けられる?」
「術を一人ずつ剥がしている時間はない」
分かっていた答えだった。
それでも、このまま置いていくことは出来ない。
「でも、祈り続けさせたら、教皇へ力が流れるんでしょう?」
「この人数の祈りなど、微々たるものだろうが、無いに越したことはない。だから意識を落とす」
オズが牢の外へ出ると、その傍らに白い魔法陣を描いた。
物体を運ぶための転送魔法。
陣が完成すると、独特な甘い香りを放つ乾燥した草の束が幾つも床へ落ちた。
「それは?」
「睡眠薬の素材となる植物だ。燻した煙に催眠作用がある」
「そんなもの、どこから……」
「僕の家だ。地下に素材庫がある」
オズは答えるなり、その草の上に小さな火を落とした。
それが草の束へ移り、白い煙が細く立ち上る。
「待って。私達まで眠っちゃわない?」
「その前に出る」
オズは私の手を掴み、煙から遠ざけるように階段へ向かった。
「え、火を着けたまま放置して大丈夫!?」
「壁も床も石材だ。燃え広がりはしない」
「そうじゃなくて! みんな、煙を吸いすぎておかしくなったりしないの?」
「致死性はない。長時間放置しなければ問題ないだろう」
(本当かなあ……!)
不安になって振り返る。
白い煙はゆっくりと地下牢へ広がり始めていた。
後ろ髪を引かれる思いで、手を引かれるまま私は階段を上っていった。
「前から思ってたけど、オズの手ってすごく冷たいよね」
階段を上りきった頃に呟いたその言葉にオズは振り返り、私の手を掴んだままだったことを思い出したのだろう。
指の力を抜いて手を離しながら答える。
「……僕は元々そういう体質だ」
「冷え性なんだ」
なんとなく、そんなイメージはあった。
宿でも、いつも暖炉の側を好んでいたように思う。不老の魔法が解けかけてからは特に顕著だった。
離された手を無意識に握り込む。
冷たかったはずなのに、その感触がなくなると、妙に心許なく感じた。
敵陣なので声を潜めてはみるものの、もしかするともう気付かれてはいるかもしれない。
だが、教皇はまだ祈りの間を出ていないようだった。
そこへと続く大扉の外に、リオンとベリルの姿があった。リオンは顎でその扉を指す。
「ずっとこのまま。中から物音一つしない」
「気配は?」
「いる。だが、動いてはいない」
答えたのはベリルだった。
赤い瞳を細め、大扉の向こうを睨みつけている。
「地下に聖徒達がいたの。眠らせたから、もう彼らからの祈りは流れないはず」
私がそう告げると、リオンは僅かに眉を上げた。
「じゃあ、後はジル達の合図待ちか。まだ待つ? それとも、もう行く?」
リオンは教皇のいる部屋の大扉へと視線を向けながら問う。
私の視線はオズへと向いた。
オズが懐から取り出したブローチは、まだ光を宿していなかった。
(お願い。無事に見付けて)
祈るように指を組みかけた、その時だった。
背中を、冷たい何かが撫でた。
息が止まる。
すぐ真後ろに誰かがいる。吐息が首筋に触れそうなほど近くに。
振り向かなければ。
そう思った時には、もうオズが動いていた。
瞬きより早く完成された魔法陣がオズの足元に描かれ、空気が甲高い音を立てて裂けた。
目で追うことさえ出来なかった。
振り返った時には、圧縮された風の刃が背後の壁を深く抉り、石片が床へ降り注いでいた。
「な、何……?」
誰もいない。
そこには、粉々になった壁があるだけだった。
リオンが折れた石片を蹴り除けながら、楽しそうに笑う。だが、片手はしっかりと大剣の柄を握っていた。
「相変わらず、馬鹿みたいに速いな」
私が気配に気付いてから、瞬きを一度するほどの間もなかった。
オズは構える動作さえ見せていない。それでも魔法は既に放たれていた。
魔法を扱わせれば、この世界で彼の右に出る者はいない。その言葉が大袈裟ではないことを、改めて思い知らされる。
けれど、その表情にいつもの余裕はなかった。
相変わらず無表情に見えるけれど、細めた瞳で何もない空間を睨んでいる。
「魔力の残滓だけだ」
「残滓……だけ?」
「ああ。そこにいると錯覚させるほど、色濃くな」
それだけのことを、言葉にすれば簡単に聞こえる。
だが『それ』は今、私達の背後を取ったのだ。確実に。
直後、背後ではなく正面から、重い音が響いた。
閉ざされていた大扉が、ゆっくりと内側へと開いていく。
その奥に、教皇エスティラはいた。
祈りを捧げるための祭壇の前に立ち、両手を静かに重ねている。
氷のような髪も、汚れ一つない白い聖衣も、前回見た時と何一つ変わらない。
「随分と荒々しいご挨拶ですね、大賢者」
そして変わらず、柔らかな声だった。
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