第76話
夜が深まるのを待ち、私達は聖都へ向けて出発した。
街へ近付くにつれ、鼻を突く焦げ臭さが強くなっていく。
外壁の一部は崩れ、門の周辺には大きな爪で抉られたような傷が幾つも残されていた。通りへ入れば、割れた窓や倒れた露店が目に入る。石畳には乾ききっていない黒い染みが広がり、その上へ砂が撒かれていた。
魔物が暴れた跡だ。
けれど、それを行ったものがベリルの眷属ではないことを、私達は知っている。
「酷い……」
思わず足を止める。
壁際には、焼け落ちた家を見つめたまま座り込んでいる人がいた。瓦礫の間から荷物を探す者や、負傷した家族を支えながら歩く者もいる。
治癒魔法を使えば、少なくとも目の前にいる人達は助けられる。
そう思った瞬間、オズが私の前へ腕を出した。
「止まるな」
「でも、怪我をしてる人が……」
「ここで姿を晒せば、全てが無駄になる」
冷たい言葉だった。
けれど、その通りだ。
今ここで私が見付かれば、教皇はすぐに大聖堂へ戻る。子供を救う前に、また前回と同じ罠を仕掛けられるかもしれない。
唇を噛み、外套のフードを深く被り直す。
「元を断つんだろ」
隣を歩くジルが、低い声で言った。
「俺達が失敗すれば、この光景が広がるだけだ」
「……うん」
視線を伏せ、再び足を動かした。
通りの角には、祈りを捧げる人々の姿があった。
壊れた聖像の前に集まり、教皇の加護を求めている。
助けを求める声が重なるたび、その祈りさえも教皇の力へ変えられているのだと思うと、胸の奥が冷たくなった。
ベリルは何も言わなかった。
けれど、幼い横顔には険しい表情が浮かんでいる。その手は何度も強く握られ、黒炎が漏れ出す寸前で押さえ込まれていた。
「今は耐えろ」
リオンが前を向いたまま声を掛ける。
「分かっている」
「もう少しだから」
「勇者に慰められるほど落ちぶれてはおらぬ」
「じゃあ、聞かなかったことにしてよ」
普段と変わらない軽い返事だった。
それ以上、二人の間に言葉は続かなかった。
大聖堂へ近付くほど、街を歩く人の数は減っていく。
本来なら夜でも聖堂兵が巡回しているはずだが、その姿もほとんど見当たらない。
やがて、暗闇の向こうに白い大聖堂が浮かび上がった。
幾つもの尖塔が月明かりを受け、その頂に掲げられた聖印だけが淡く輝いている。
正面の大門は閉ざされていた。
けれど、ジルが案内したのは、建物の側面にある小さな通用門だった。
「前に入った時は、ここから聖徒が出入りしてた」
ジルは周囲を確認してから、門の脇へ身を寄せる。
見張りはいない。
それどころか、大聖堂の中から人の気配がほとんど感じられなかった。
「静かすぎない?」
「中に誰もいないわけではない」
オズは閉ざされた門を見上げた。
「魔力の流れが下へ向かっている。何処かへ集められているのだろう」
教皇が何をしているのか、まだ分からない。
けれど、大聖堂へ入れば引き返すことは出来ない。
私は鞄から十字架のネックレスを取り出し、ジルへ差し出した。
「教皇の部屋へ入る時に必要になる」
「ああ。預かる」
ジルが十字架を受け取り、服の内側へしまう。
続いてオズが、自分の胸元から小さなブローチを外した。対になるもう一つは、既にジルが持っている。
「子供へ封具を着け、教皇との繋がりを断ったら魔力を流せ」
オズの掌にあるブローチが、月明かりを僅かに反射した。
「これが光れば、救出が成功したと判断する」
「その間、教皇を足止めするんだな」
「出来るだけ引き延ばす。急げ」
「簡単に言うなよ」
そう返しながらも、ジルの表情に軽さはなかった。
シャルネが弓と矢筒を確かめ、ジルの隣へ並ぶ。
「必ず、お子様をお連れします」
その言葉は、ベリルへ向けられていた。
ベリルは二人を見つめたまま、しばらく何も答えなかった。
やがて、僅かに顔を伏せる。
「……頼む」
「ああ」
ジルが短く応える。
「必ず連れて帰る」
門の向こうで何が待っているのかは分からない。
それでも、前回とは違う。
教皇はまだ、私達がここまで知っているとは思っていない。
今度こそ、用意された筋書きから外れなければならない。
ジルが門へ手を掛ける。
「ここから別れる。俺達は地下の管理庫を経由して、教皇の私室へ向かう」
「私達は祈りの間へ行く」
私の言葉に、シャルネが力強く頷いた。
「どうか、皆様もご無事で」
「シャルネ達もね」
小さく頷き合う。
ジルが音を立てないよう門を開いた。
暗い大聖堂の中へ、冷えた空気が流れ込む。
先にジルとシャルネが滑り込むように姿を消した。
少し間を置き、私達もその後へ続く。
門は再び、音もなく閉じられた。
「大聖堂の中にも、誰もいないな」
先程までジル達がいた通用門を振り返りながら、リオンが呟いた。
広い廊下には火の魔道具だけが灯り、人の姿はない。普段なら夜でも聖徒や聖堂兵が行き交っているはずなのに、足音一つ聞こえなかった。
「だが、人の気配はある」
ベリルは大聖堂の奥を睨み、そう答えた。
私にも、大勢の人がいるような漠然とした気配だけは感じられる。けれど、どの部屋にも姿は見えない。
「教皇は、祈りの間にいたわ。そこに、他の人の姿はなかった」
死に戻る前の記憶をどれだけ辿っても、教皇以外の聖徒を見掛けた覚えはなかった。
「どこかに集められている。……僕の予想が正しければ」
「それって、見付けた方が良い感じのやつ?」
先を歩いていたリオンが振り返って問う。
オズは僅かに思考を挟んだ後で答えた。
「——恐らくは」
「じゃあ、話は早いな。聖女様とオズウェルはそいつらを探す。その間、俺とベリルは教皇の監視だ」
「接敵はするな」
「分かってるよ。監視するだけ」
それ以上の時間は掛けず、私達は大聖堂の中央へ進む。
見上げるほど大きな扉をくぐった先で、リオンとベリルは祈りの間へ続く廊下を真っすぐに進んでいった。
残された私は、隣に立つオズを見上げる。
「私達はどうするの?」
「大量の人間を集められる場所は限られている。祈りの間のような大広間か、あるいは——」
言葉の途中で、オズの足元に黄色を帯びた魔法陣が浮かび上がる。
ほぼ同時に、床と周囲の壁へ大きな亀裂が走った。
崩落音が響くより早く、今度は青い魔法陣が完成する。溢れた水が瓦礫を包み込み、崩壊していく音を呑み込んでいった。
最低限の柱と足場だけを残し、床の一角が瓦礫の山へ変わる。
その下から、地下へ続く石造りの階段が姿を現した。
「大抵は地下だ。行くぞ」
(強引……!)
口には出さず、足元へ気を付けながらオズの背中を追う。
階段の先から、微かな声が聞こえていた。
大勢の人間が、同じ言葉を繰り返す声。
それは祈りだった。
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