第75話
「百年前に処刑されたはずの人間が、何故こんなものを大聖堂へ残している」
オズの声は、いつもと変わらず平坦だった。
けれど、古びた頁をめくる手付きは妙に慎重だ。今にも崩れてしまいそうな紙を傷付けないよう、指先でそっと端を持ち上げている。
「残したというより、処刑された時に押収されたんじゃないか?」
ジルが本の金具を指差した。
「何重にも鍵を掛けた棚に入ってた。誰かに読ませるための置き方じゃなかったぞ」
「教皇に奪われ、そのまま保管されていたということか」
オズが僅かに目を細める。
「その人とは、仲が良かったの?」
私が尋ねると、本へ落とされていた視線が一瞬だけこちらへ向いた。
「僕は、愚かな人間には興味がない。学ぶこともない」
「私、なんか聞き方を間違えたかな……?」
「だが、この方達から学ぶことは多かった」
何でもないことのように告げ、再び頁へ視線を戻す。
オズが誰かから学んだと自ら認めることが、どれほど珍しいのかは私にも分かる。
彼が他人を敬うような呼び方をするのを、初めて聞いた。
百年前、彼が大賢者と呼ばれていた頃。
同じ呼び名を持つ者達と机を囲み、同じ目線から語り合う姿を想像する。今の孤独なオズからは、少し考えにくい光景だった。
「何が書いてあるんだ?」
リオンの問いに、オズは頁を数枚戻した。
「大聖堂で使われていた古代魔法の調査記録だ。祈りを力へ変換する術式についても書かれている」
複雑な魔法陣の横には、幾つもの教会と大聖堂を線で繋いだ図が描かれていた。
前回、ジル達が持ち帰った写しとよく似ている。
そして、私の記憶にある内容とも一致していた。
「やはり、各地の教会から祈りを集めていたのですね」
「ああ。ただし、集めた力が直接教皇へ流れ込むわけではない」
オズの指が、図の中央に記された黒い円を叩く。
「一度、別の器へ蓄積されている」
「器?」
「大量の力を人間の身体へ直接取り込めば耐えられない。蓄えておき、必要な時に引き出すための何かが大聖堂内に存在する」
「場所は書かれてないの?」
「該当する頁がない」
本の途中には、不自然に紙を破り取られた跡があった。
誰かが故意に持ち去ったのか、調査を終える前に処刑されたのかは分からない。
「教皇を倒す前に、その器も探さないといけないってこと?」
「存在するならな。だが、現時点で場所の分からないものを探す余裕はない」
オズは更に頁をめくる。
「今は魔王の子供を優先する」
その言葉に、黙り込んでいたベリルが顔を上げた。
「我が子を救う方法が書かれておるのか」
「直接ではない。だが、前回お前が操られた仕組みには見当がついた」
開かれた頁には、二つの人影を無数の線が結ぶ図が描かれている。
「血や魂、魔力の性質が近い者同士を術式で繋ぎ、一方へ加えた刺激を利用して、もう一方の力へ干渉する古代魔法だ」
「では、あの子が苦しめられたことで……」
「魔王の力が強制的に引き出された」
オズは淡々と答えた。
ベリルの小さな手が強く握られる。
「結界を壊し、鎖を外すだけでは足りない。二人を繋ぐ魔力の流れを先に遮断しなければ、教皇は同じことを繰り返す」
「どうやって遮断するの?」
「封具を使う」
その言葉には聞き覚えがあった。
魔力を封じるための神聖な道具。
死に戻る前に受けた授業の中で、そう聞いた。
「魔力を封じるっていう、あの?」
「大聖堂が管理する封具は、装着した者の魔力を封じるだけではない。外から流れ込む魔力と、外へ流れ出す魔力の両方を遮断する」
「それなら、子供に着ければ……」
「教皇との繋がりを一時的に切れる」
ベリルが立ち上がる。
「ならば、すぐに取りに行くぞ」
「待て」
オズの一言で、その足が止まった。
「お前は子供へ近付くな」
赤い瞳が鋭く細められる。
「何だと?」
「術を遮断する前にお前が接触すれば、前回と同じことになる。教皇は子供を通じてお前の力を操る」
「我が子を、他人へ任せろと言うのか」
「そうだ」
迷いのない答えだった。
ベリルの周囲に、僅かに黒炎が滲む。
「ふざけるな。ようやく居場所が分かったというのに、余だけが離れて見ていろと——」
「ベリル」
呼び掛けると、彼女の言葉が止まった。
「私も、本当はベリルが迎えに行くのが一番だと思う」
「ならば——」
「でも、今度も同じことになったら、あなたの子を助けられない」
前回、涙を零しながら私達を襲っていた姿が脳裏をよぎる。
ベリルも同じものを想像したのか、唇を噛んで俯いた。
「私は、前に一度失敗したから戻ってきたの。今度は順番を変えないと」
「……誰が行く」
低い声で尋ねられる。
「俺とシャルネが行く」
答えたのはジルだった。
ベリルが睨むように顔を向ける。
「情報屋と、あの娘が?」
「あんたや大賢者みたいな派手な魔法は使えないけど、見付からずに入り込んで人を盗み出すなら俺の仕事だ」
「私も必ずお守りします」
シャルネがまっすぐにベリルを見つめた。
「お子様を教皇のもとからお連れします。どうか、私達にお任せください」
ベリルは何も答えなかった。
二人の顔を交互に見た後、ゆっくりと視線を落とす。
「……我が子は、意識がない」
絞り出すような声だった。
「息はしておる。だが、呼び掛けても応えぬ。自ら歩くことも出来ぬだろう」
「なら俺が背負う」
ジルが即座に答える。
「封具を着けて、拘束を外して、そのまま外へ連れ出す。シャルネには周囲を頼む」
「はい」
「大聖堂の拘束区画なら、前に調べた時に場所を確認してる。封具の管理庫も近くにあった」
「都合がいいね」
リオンが言うと、ジルが肩を竦めた。
「情報屋だからな。使えそうなものの場所は覚えておくんだよ」
「そこから物を盗み出すのは盗賊の仕事でしょ」
リオンはからかうようにそう笑った。
オズは見取り図を広げ、幾つかの地点を指で示す。
「情報屋とヴェルクロアは、先に地下の管理庫から封具を入手する。その後、教皇の私室へ向かえ」
「私の十字架を持っていけば、扉は開くはず」
鞄から白い十字架のネックレスを取り出し、ジルへ差し出す。
ジルは掌の上へ受け取ると、慎重に鞄へしまった。
「子供を救出した後は、戦闘へ加わらず大聖堂を出ろ」
「言われなくてもそうする。意識のない子供を連れて、教皇と戦うほど馬鹿じゃない」
「……やはり、余も共に」
「駄目だ」
再びオズに否定され、ベリルの眉が吊り上がる。
「お前は僕達と祈りの間へ行く。教皇を子供から引き離し、救出が終わるまで足止めする」
「囮になれと?」
「教皇が最も警戒するのは、お前だ。お前が目の前にいれば、子供のもとへ向かう二人への警戒は薄れる」
ベリルは不満を隠さなかった。
それでも、今度は反論しなかった。
「俺と大賢者と聖女様、それから魔王で教皇を見張る。その間に二人が子供を盗むってことだね」
リオンが楽しげにまとめる。
「教皇は、私達が何か知っているって気付くかな」
「遅かれ早かれ気付くだろう」
「それでも、前回みたいに待ち構えられてはいない」
王城には行かない。
聖王を通じて教皇と話すこともない。
ジル達も調査を切り上げ、教皇の私室へは近付いていない。
今度はまだ、こちらが何を知り、何をしようとしているのか、教皇には伝わっていないはずだ。
「教皇を祈りの間へ留めている間に、子供を救う」
オズが記録を閉じた。
その手は、先程までと同じように慎重だった。
古い革表紙を一度だけ見下ろし、静かに言葉を続ける。
「この記録を残した者が、何処まで真相へ近付いていたかは分からない」
頁の間から、破り取られた紙の切れ端が覗いている。
「だが、彼らが調べたものを無駄にはしない」
僅かな声の変化だった。
それでも、百年前に失った者達への思いが、その一言に滲んでいるように感じた。
オズは見取り図の上へ指を置く。
「前回は、教皇が用意した順番通りに動いた」
「今度は?」
私が尋ねる。
銀色の瞳が、真っすぐにベリルを見た。
「先に奴の切り札を奪う」
ベリルがゆっくりと顔を上げる。
もう黒炎は揺れていなかった。
ベリルの瞳が、ジルとシャルネへ向く。
「我が子を頼む」
ジルは軽口を返さなかった。
「ああ」
短く、けれど力強く頷く。
「必ず連れて帰る」
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