第72話
「あ、……ああぁ……っ!」
喉から漏れる自分の声が、息苦しさに喘いでいるものなのか、悲鳴なのか、分からなかった。
体が痛くて、立ち上がることが出来ない。
ベリルの子を助けるため、大聖堂に忍び込み、人気のない祈りの間の前を通った時のこと。
それは一瞬だった。
訳も分からないまま、砕けた床の上に、私は倒れていた。
震える指を目一杯に伸ばした先にはシャルネが倒れている。
シャルネを庇うようにジルが覆いかぶさっているが、二人の体は赤黒い血で染まっていて、少しも動かない。
黒く焦げた服の下に、血溜まりだけが広がっていく。
駆け付けて治癒魔法を使いたくても、もう這うことも出来ない。
視線を持ち上げると、そこには魔王の姿があった。
宙に浮き、真っ黒な炎を小さな身に纏って、宝石のような赤い瞳から大粒の涙を零している。
「……すまない……」
と、掠れた声が、薄い唇から零れた。
その後ろで、氷のような澄んだ色をした髪を靡かせ、教皇が笑った。
神聖な白の衣には、汚れの一つも付いていない。
「聖女。愚かな子。貴女が大人しくしていれば、上手に使ってあげられたのに。貴女のせいで……ほら、見て。大切な仲間も死んでしまった」
「やめて……!」
酷く震えた声で叫ぶ。私の手のひらを濡らした血が誰のものなのか、もう分からない。
教皇エスティラの指先が、何かを押し潰すように握られる。
その瞬間、どこかから獣のような咆哮が響き渡り、ベリルも頭を押さえて絶叫する。
助けを求める我が子の悲鳴に、ベリルの力が意思に反して呼応していた。
彼女が抑え込もうとしていた黒炎は一層大きく膨れ上がり、より深い黒に染まった。
その炎が大口を開けた蛇のようにうねり、私を食い尽くそうと襲い掛かる。
逃げたくても体が動かず、固く目を瞑ることしか出来ない。
吹き飛びそうなほどの風圧と轟音が襲う。が、痛みは訪れない。
薄く目を開くと、私の前に立ちはだかるリオンと、その傍らにオズの姿があった。
オズの足元に、絶え間なく赤い血が落ちる。もう誰が、どこを怪我しているのかさえ分からないほど、黒い炎は繰り返し私達を襲っていた。
血の通っていないリオンの体さえ、見て分かるほどにボロボロだ。今の一撃で大剣は折れてしまい、もう武器としても盾としても使えない。
左手も、もう動かないのだろう。だらりと力無く垂れてしまっている。
「ねえ、俺がこんな戦いをしたがっていたと思ってるの?」
無理矢理笑ってみせるように、リオンが挑発的な声を出す。
だがベリルは涙を零すだけだ。
「すまない……恨んでくれ」
そう、短く言って、再び炎が膨れ上がる。
リオンがオズに、何か耳打ちしたのが見えた。
オズはすぐに踵を返し、私の傍らに膝をつく。その瞬間、私とオズを囲うように魔法陣が浮かび上がった。
地の魔力を宿したそれは、すぐに発動する。
リオンを呑み込もうとする炎がどうなったのか、見えなかった。
魔法陣は足元の床を崩し、私とオズは下の階まで転げ落ちる。天井の向こうから、大きな爆発音と揺れが伝わってきた。
何度も瓦礫に体を打ちつけ、痛みのあまり息も出来ない。
それでも精霊の力に守られ、体は瓦礫に押し潰されることなく、全身を襲う痛みだけがまだ生きていることを教えていた。
「オズ……」
そこにいるはずの名前を呼び、視線だけでその姿を探す。
彼が体を引き摺るようにして、壁にもたれて座るのが見えた。落ちる際に頭を打ったのか、額を真っ赤な血で濡らしている。
せめてその傷でも治したくて、無理矢理に体を起こし、這うように近付くが触れる寸前で彼の手に払われてしまう。
二人分の呼吸だけが暗い空間に響いた。
(また、失敗してしまった)
目の前が真っ暗になる感覚だった。
仲間はもう動けない。みんなが庇ってくれたから、私はまだ生きている。けれど、もう何も出来ない。
(失敗、してしまった)
いつ天井の向こうから教皇が、ベリルが、追ってくるか分からない。
ここから逃げ切るのは不可能だ。手元にある媒体だけを使って精霊王を召喚したところで、辿り着く先は古の精霊師と同じだろう。
吐く息さえ凍えるように冷たく感じた。
オズは何度かその場に魔法陣を描こうとしていたが、魔力が足りないのか、あるいは意識が途切れるのか、形になる前に霧散してしまう。
もしかすると、もうほぼ目も見えていないかもしれない。しきりに目を細める仕草が見えた。
絶望の中、何も言えずに黙り込んでいたが、オズは赤く汚れた唇を開いた。
「そこにいろ」
いつも通りの短い指示だった。
へたり込むように座る私の足元にオズが指を置き、そこからまた魔法陣が描かれ始める。今度は私一人を包むように、ゆっくりと光の線が伸びていく。
(どの属性も含まない……この魔法陣は?)
真っ白な魔法陣から目を離し、オズへと視線を向ける。
彼の瞳もまた、私へと向いていた。
「僕が、座標を覚えている」
そう、短く彼は言った。
すぐに精霊王の言葉が脳裏をよぎる。
『座標を知る者の手で、戻されたのなら叶うだろう』
死に戻る先を選べないのかと聞いた時、その存在は確かにそう言った。
(ああ、私は……ここで)
覚えていないだけで、何度目になるのか分からない死の気配が近付いてくる。
けれど心は不思議と凪いでいく。
私の足元に描かれていく魔法陣を見下ろす。
冷静に観察すると、それは見覚えのある紋様を描いていた。
(古代の魔法を真似ただけの、オズの転送魔法。……人が入ると、死ぬ。そうオズは言った)
そっと光の線をなぞる。指先には砂埃だけが絡み付いた。
「お前だけは戻れ」
いつだって、彼がくれる言葉は短い。
けれど、今はそれだけで十分に思えた。
切れた唇を噛み、そして開く。
「……必ず、あなたが……みんなが、生きている世界に戻るわ」
当然、戻れる保証はない。けれど、そうしなければならない。
「ああ、信じている」
力無く言葉を紡ぐその口元に、薄い笑みが浮かんだ。
魔法陣は緻密に描かれ、もう最後の線が繋がろうとしている。私はそっと目を伏せた。
「ねえ、オズ。……私は、あなたを——」
その先がしっかり言葉になったかは分からない。
突然足元が抜けて、私は暗闇へと落ちた。痛みも何一つなく、気付かないまま眠りに落ちる時のように。
最後まで彼の顔を見ていれば良かったと、そんな僅かな心残りだけを残して。
*
夢を見た。
いや、あれは私の記憶だった。何度も死に戻った、その時の記憶。
魔力を封じる封具を持つ聖堂兵に追い詰められた。
勇者と魔王の戦いを止められなかった。
精霊王の加護を得られず失敗した。
大聖堂で教皇に贄として使われた。
仲間とはぐれた先で襲われた。
全て、私が経験してきた記憶だった。
(今回は、上手くいっていたのに……)
叫びだしたくなるような後悔に背を押され、瞼を開く。
目が覚めた時、私は泣いていた。
理解が及ばずに、何度か瞬きを繰り返す。
「聖女様、泣いてるの?」
聞き慣れたリオンの声が響く。顔を上げればそこは満天の星空の下だった。
目を丸くしたリオンとベリルが焚き火を挟んで座っている。
私は木に体を預けて、一人眠っていたようだ。
私の傍らに、オズが片膝をつく。
僅かに眉を寄せ、泣いている理由を探るように私を見ていた。
無意識に伸びた手でオズの体にしがみつく。そこから伝わる体温も、血の匂いが混ざっていない彼の匂いも、本物だと確かめたかった。
堰を切ったように涙が溢れ出し、子供のように声を上げて泣いた。その涙が止まるのは、しばらく後のことだった。
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