第69話
重い扉が、軋む音を立てながら左右へ開いていく。
その向こうに広がっていたのは、天井の高い玉座の間だった。
白い石造りの床には真紅の絨毯が敷かれ、等間隔に並んだ柱の間で、火の魔道具が静かに燃えている。
護衛の姿はない。
広い空間の最奥にある玉座へ、一人の男性が腰掛けているだけだった。
金色の髪に、青い瞳。
年齢は四十代ほどだろうか。豪奢な白い衣を纏い、頭には聖都を治める者の証である冠を載せていた。
聖王。
死に戻る前、遠目に姿を見たことがある。
けれど、こうして近くで対面するのは初めてだった。
「お待ちしておりました、聖女」
聖王は穏やかな声で告げた。
突然現れた侵入者を前にしているというのに、驚きも警戒も見せていない。
「私達が来ることを知っていたのですか?」
「聖女は大聖堂の庇護を受けなければなりません。どうか、教皇猊下のもとへお戻りください」
質問には答えず、聖王は微笑んでいる。
ジルが小さく舌打ちし、背後の扉へ視線を向けた。
「ここまでわざと通されたみたいだな」
「そのようだ」
オズは玉座に座る聖王から目を逸らさない。
私は一歩前へ出た。
「各地に突然現れた魔物のことを、ご存じですよね」
「全ては民の平穏のためです」
「民を襲わせることが、どうして平穏に繋がるのですか?」
「聖都は全ての民を救済します。教皇猊下の御心に従うことが、世界の安寧へ繋がるのです」
声を荒らげることもなく、聖王は淀みなく答える。
けれど、やはり会話が噛み合っていない。
「私達を捕らえるために、国王軍を動かしているのですか?」
「聖女は大聖堂の庇護を受けなければなりません」
「聖堂兵に、私達を襲わせたのは誰ですか?」
「全ては民の平穏のためです」
言葉だけを見れば、問いに答えているようにも聞こえる。
しかし、そこには何の意味もなかった。
あらかじめ用意された幾つかの言葉を、状況に合わせて繰り返しているだけに思える。
「変だね」
リオンが呟いた。
普段と同じ軽い調子だったが、その表情には笑みがない。
玉座へ向かって歩き出し、聖王から数歩離れた場所で立ち止まる。
「俺のことは知ってる?」
聖王の青い瞳が、リオンへ向けられた。
首に残る斬首の痕も、ひび割れた頬も、背負った大剣も、ゆっくりと確認するように視線が動く。
「勇者リオン・グランヴェルは、百年前、聖都への反逆によって処刑されました」
「そうだね。それを命じたのは、当時の聖王だった」
「勇者リオン・グランヴェルは、百年前、聖都への反逆によって処刑されました」
全く同じ声。
言葉の間も、抑揚さえも変わらない。
リオンは聖王を見つめたまま、僅かに目を細める。
「勇者リオン・グランヴェルは、百年前、聖都への反逆によって処刑されました」
また、同じ言葉だった。
リオンの処刑を命じた聖王と、目の前にいる聖王は別人だ。
今の聖王は当時のことを直接知る年齢ではない。
それでも、何の疑問も抱かず、記録に書かれた言葉だけを返している。
「……百年前、俺を処刑した奴も、同じことを言ってたよ」
リオンの声が低くなる。
「全ては民の平穏のために、ってね」
先程、聖王が口にしたものとほとんど同じ言葉だった。
オズが無言のまま玉座へ近付く。
「何をするつもりだ」
聖王が初めて違う言葉を発した。
けれど、そこにも感情はない。
突然距離を詰められた恐怖も、不快感も見えなかった。
オズはその言葉を無視し、聖王の手首を掴んだ。
「オズ?」
「動くな」
聖王の足元に光が生まれる。
けれど、魔法陣が形を成すより早く、オズが足先で床を踏んだ。
地面を走った僅かな亀裂が線を崩し、描きかけの魔法陣が消える。
「聖王陛下への無礼は許されません」
「誰が言わせている」
オズは聖王の手首から指を離さず、顔を覗き込む。
聖王は抵抗しようと腕を動かしたが、その仕草はどこかぎこちなかった。
人間が咄嗟に身を引く動きではない。
糸に引かれた人形が、決められた方向へ動こうとしているようだった。
「教皇猊下の御心に背く者には、相応の裁きを与えなければなりません」
「オズ様、聖王陛下は……」
シャルネの声が震える。
オズの銀色の瞳が、冷たく聖王を観察していた。
「こいつに、もう意識はほぼ無い」
聖王の瞳孔を確かめ、次にこめかみへ指を添える。
「外から与えられた言葉を、条件に応じて再生しているだけだ」
「操られているってこと?」
「それよりも深い」
私は思わず息を呑んだ。
「意思を奪って命令に従わせているのではない。自我そのものが、ほとんど残っていない」
聖王はオズに掴まれている間も、同じ微笑を浮かべていた。
「聖王として振る舞うために必要な記憶と反応だけを残されている。こいつは国を治めているのではない。聖王という役を演じさせられているだけだ」
「そんな……」
この人は、生きている。
呼吸をし、私達の姿を見て、声を出している。
それなのに、その中にはもう、本人と呼べるものがほとんど残されていない。
「解除出来るのか?」
リオンが尋ねる。
「今すぐには無理だ。術が長い時間を掛けて意識と同化している。強引に剥がせば、残っているものまで壊れる」
オズが聖王の手を放す。
解放された聖王は乱れた衣服を直すこともなく、玉座へ座り直した。
その動作さえ、あらかじめ決められていたように正確だった。
「今の聖王が即位したのは二十二年前だ」
ジルが呟く。
「なら、この術を掛けられたのも即位の前後か?」
「可能性は高い。だが、問題はそこではない」
オズの視線がリオンへ向く。
「百年前の勇者の処刑時にも、当時の聖王が同じ言葉を使っていた」
「今の王が、百年前の命令に関わってるはずはないよ」
「そうだ。ならば、操られていたのは今の聖王だけではない可能性がある」
玉座の間が静まり返った。
言葉の意味が、ゆっくりと胸の中へ落ちてくる。
「先代も、その前の聖王も……?」
「どの時代から続いているかは分からない。だが、聖王の代替わりに関係なく、同じ意思がこの国を動かしている可能性がある」
聖王は教皇と共に国を治めているのではない。
歴代の聖王が同じように自我を奪われていたのなら、この国を動かしてきたのは、最初から別の誰かだ。
「教皇……」
無意識にその名が零れた。
聖王の青い瞳が、突然私を捉えた。
先程まで空虚だった瞳に、ほんの一瞬だけ別の光が宿る。
「ようやく、戻ってきたのですね」
その声を聞いた途端、背筋が凍った。
聖王の声のはずなのに、言葉の選び方も、穏やかな抑揚も、私には聞き覚えがあった。
大聖堂で暮らしていた頃、何度も耳にした声。話し方。
「……エスティラ?」
私を救い、私を殺した、その名前は半ば無意識に零れ落ちた。
聖王の口元が、緩やかに持ち上がる。
「貴女は本当に、手の掛かる子です」
私へ向けられた微笑は、先程までの空虚なものとは違っていた。
そこには、確かな意思がある。
けれど、それは聖王のものではない。
「聖王の身体を通して話しているのか」
オズが一歩前へ出る。
「大賢者も、勇者も、魔王までも連れてくるとは思いませんでした」
聖王の瞳が、一人ずつ私達を眺めていく。
「ですが、手間が省けました。皆様、そのまま大聖堂へいらしてください」
「誰が行くかよ」
ジルが吐き捨てる。
聖王は気に留めることもなく、私だけを見つめ続けていた。
「貴女の帰る場所は、そこにしかありません」
「違います」
震えそうになる声へ力を込める。
「私が帰る場所は、あなたが決めることじゃない」
「そうですか」
聖王の口元から、笑みが消えた。
「では、迎えを差し上げましょう」
その言葉と同時に、足元が眩く輝いた。
「下がれ!」
オズの声が響く。
玉座の間の床一面へ、隠されていた魔法陣が浮かび上がった。
幾重もの線が赤い絨毯の下から広がり、扉と窓が同時に閉ざされる。
壁の向こうから、無数の足音が近付いてくる。
「やっぱり罠だったか!」
ジルが腰の短剣を抜いた。
床から伸びた石の帯が、真っ直ぐに私の足へ絡み付こうとする。
リオンが私の身体を抱えて後ろへ跳び、石の拘束を避けた。
「聖女を傷付けるな」
聖王の口から、教皇の声が命じる。
「他は、殺して構いません」
玉座の間の左右にある扉が開き、武器を構えた聖堂兵が一斉に雪崩れ込んできた。
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